馬鹿になる=メタ的思考?

「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」

よく,馬鹿になったふりをして恥をかいたほうがいいと聞く。

馬鹿になったふりというのは,行動にメタ的な目的を持つことに置き換えられるのではないだろうか。”馬鹿になりにいく”という時点で,その馬鹿になる行動とは別の目的があるはずである。

教室で恥を忍んで質問をすると,質問内容がわかっていないことをみんなに周知するようなものだが,本人の質問の目的が別にあったらどうだろう。
馬鹿にしている他人は,ひどく的外れである。
(このことから,私は本来人間は人間のことを簡単にはバカにできないと考えている。)


”今までしたことはないが,自分は大衆の前で”本当に”質問ができるだろうか”

「クスッ,あいつ意味のない質問してるぜ」


”これを聞いたらまあ馬鹿にされるだろうけど,この先生はどういう反応をするだろう,返答次第で,付き合い方を変えよう”

「縺ゅ≠縺ゅ≠」




”馬鹿になったふりをしろ”,と言われると
「グギギ,俺はバカになりたくない」と拒否反応を起こし,泡を吹いて倒れてしまうが,
”メタ(高次)的思考を持て”と言われると「…フンッ,仕方ない」てな具合になるだろう。

何事にも目的を。

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