ははのこと2

祖母は早くに夫を亡くし
女手一つで
母と叔父を育てた。

祖父の遺産か、祖母の実家の遺産か
詳しくは分からないが
まとまったお金があった祖母は
株を買ったり、人にお金を貸して損をしたりだったらしい。

このままでは不味いと
母は祖母を説得して
土地を購入した。

母が二十歳、今から
約六十年前になる。

お互いに高卒で就職した職場で知り合った両親は結婚し
母は専業主婦になり、私たち姉弟を産んだ。

弟が生まれるまでは祖母と同居し、家族が増え手狭になったので
父は祖母と母の住む場所の隣に
土地を買い、家を建てた。


中学生くらいの時に
祖母が言った。
『あの子(母のこと)は貴方(私のこと)が産まれた頃がお父さん(私の父)を一番嫌いだったのよね』

一体なんの話なのか、
全く分からなかった。

年子で産まれた私は、
母にとっては体力気力的に
負担が大きいものだった。
つまり母は一人目と二人目に
もっと間を置いて産みたいと思っていたのに、それが叶わなかった、不可抗力により私を産んだ。
と言う意味のことだったのである。

後に
それを理解した私は
なんとも言えない気分になった。

私は甘えん坊で泣き虫で弱虫だ。
いつも母にひっついていた。
近所で鬼ごっこをやると
私はいつも『みそっかす』だった。
年子の姉は体格も良く
運動神経も勉強も私とは段違いだった。

弱虫の私を母は溺愛していた、
と祖母や父から聞かされて育ったが
私自身は母から余り可愛がられた
記憶は無い。

絵本を読んで貰うとか
何か一緒に遊ぶとか、無かった。
いつも年子の姉と遊んでいた。
当然だろう。年子なんだから。

何故溺愛されてた、と言われていたのか未だに謎だ。





四歳か五歳の頃、
夕方、お腹が空いたと母に訴えたら
『そんなにお腹が空いたなら勝手に自分たちで食べなさい!』
と言われ、姉と二人でご飯をよそって漬物と佃煮かふりかけかなんかと、蒸したさつまいもをお皿に並べて食べた記憶がある。
ご飯は炊き立てだった。
さつまいもと暖かいご飯を一緒に食べたら、さつまいもご飯みたいで美味しかった。おままごとみたいで楽しかった。
近所の八百屋と魚屋でおかずを調達してきた母がそれを見て
『なんてことをしているの!誰かに見られでもしたらどうするの!』
みたいな意味のことを言いながら、私たちを抱きしめて泣いた。
ような記憶がある。

分からなかった。
勝手に食べろと言われたから
食べたのに。
誰に見られたらいけないのか。
美味しいし楽しいのに。
怒っているようで泣いていて、
『ごめんね、お母さんが悪かった』
とも言われ、私は混乱した。

なんとなく、母が泣いてしまうのはダメだと、これは困らせたんだと
悟った。


母は出来の良い叔父と
大正生まれの祖母から
肯定されずに育った人だから 
完璧主義になってしまったんだろう。

何をしても
自分を許せず、常に卑下し、
子育ても上手く対処出来なかった。
と思われる。

流行りの玩具は一切買って貰えず、
お祭りの出店で売っているものは
不潔だと食べたことが無かった。
(弟たちにはもう禁止することが面倒になったのか、そういったものは全て解禁されていた。笑)
その一方で
本はふんだんに与えられた。
(しかし皮肉なことに私は大の漫画好きになった。笑)
映画や、舞台鑑賞も。
私たち姉弟は母から芸術や
社会問題についてはかなりの
英才教育?偏向教育?
を受けた。

歳が離れて弟たちが生まれ、
私たち年子の姉妹が
思春期を迎える頃から
母は地域に根差したさまざまな活動
に益々のめり込む。

でも、なんとなくいつも、
怒ったような困ったような
表情を浮かべていた母。

小さい頃は大好きと思っていたのに、思春期になると
そんな母が強烈に疎ましい存在になった。

母のやっている活動は
営利目的では無い。
ほとんど無償だ。
母からも
お金の為にしているのでは無いと
聞かされた。
それは良いことだと
認識していた。

が、母はとても疲れていて
幼い弟には構ってやる余裕も無い。
保育園を嫌がる弟をなだめたり
母の代わりに風呂に入れたり
寝かしつけもした。絵本も読んだ。

だんだん、なんか変じゃないか?
世の中を良くしたい為に、
家族が犠牲になって良いのか?
今なら言語化できるが、
当時は表現出来なかった
もやもやした気持ちが渦を巻いた。

自分は、
結婚して子どもが産まれたら
家に子どもが帰って来たら
迎えてやれる母親になりたい
と思うようになった。

母にそう言ったら、
泣いていたけど
もう可哀想とか悪かったとは
思えなかった。

母のことを書いていたら
いつのまにか自分のことになっている。お粗末。


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