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#28 どうして祈りは大切なのか

ナマステー。

この場所にお立ち寄り頂いたことに感謝を。

インドでまだヴェーダの伝統が息づいている小さな町や村を訪れると、人々の信心深さに驚きます。

寺院への参拝はもちろん、各家庭にも祭壇があり(家を建てる時に、先ず祭壇の位置を決めるのだとか)、日々祈りが捧げられています。

祈りの対象は、クリシュナ神だったり、ガネーシャ神だったり、ラクシュミー女神だったりするのですが、なんらかの恩恵やご利益を求めて祈ることが一般的です。

ヴェーダーンタを教えるアーシュラムでも、日々のプージャーや、特別な日の特別なプージャーはとても大切にされます。
(ちなみにこの記事を書いている本日、2023年2月18日は、年に一度のマハーシヴァラートリという大変吉兆な日で、特別なプージャーが行われます。)

しかし、「すべてはイーシュワラ、ブラフマン。あなたの本質もまたブラフマン」というヴェーダーンタの教えを学び始めてしばらくすると、このような疑問が湧いてきます。

「すべてがイーシュワラ(ブラフマン)なのに、なぜ特定のデーヴァター(ガネーシャ神など)を祈る必要があるのか?」

サットサンガ(生徒同士のディスカッション)の場でも、時々挙がる質問で、私自身そのように感じていました。

それに対する答えは、このようなものです。

「祈りの対象を、現れているイーシュワラの一側面と理解し、その背景にイーシュワラを想う練習がヴェーダーンタの祈り。ありとあらゆるものをイーシュワラと見る、あるがままをあるがままに見られる考えを整えるために、デーヴァターへの祈りはとても有効」

これは私自身も実感することで、「私こそがブラフマン」という聖典の明かす真実が考えに定着するには、まずは「すべてがイーシュワラ」という見方が当たり前になる必要がある。

美しいもの、自分にとって都合の良いものは、「あぁ、イーシュワラ!」と想いやすいけれど、自分にとって不快で避けたい状況や物事を同じようにイーシュワラと受け入れることは簡単でありません。

休暇中ハワイの美しいビーチで、「世界は美しい!」と言うのは簡単ですが、都会の通勤ラッシュの満員電車というストレスフルな状況で、同じように想えるのはかなり難易度が高いですよね。

実際にはどちらもイーシュワラの現れた姿であり、イーシュワラによって与えられた体験で、優劣などないのですが、私たち個人には主観的な好き嫌い(ラーガ・ドヴェーシャ)のフィルターがあり、等しく公平に観ることがすごく難しい。

不快な状況、私の目には都合の悪い状況においても、なにか私には考えの及ばない法則が働いて、最も相応しい結果が与えられていると想えるようになるには、日頃から祈りや瞑想の中で練習をする必要があります。

ガネーシャ神であれば、例えばこのように祈ることができます。


あぁ、障害を司るガネーシャ神として現れているイーシュワラ。

与えられる障害は、全て必要があって与えられていることを私が理解しますように。

障害は私に必要な成長を与えてくれるものであり、あるいは私が進むべでない方向へ進むことから私も守ってくれているかもしれない。

すべての体験があなたの慈悲、恩恵であり、それを障害と見てしまう私の無知がどうか取り除かれますように。


このように、先ずは思い入れのあるお気に入りのデーヴァターを対象とすることで、比較的スムーズにイーシュワラを想う練習をすることができます。

「私は日本人なので、インドの神様はちょっと、、」

という場合は(笑)、太陽や海、山など好きな自然や、畏敬の念を持てる対象を通してイーシュワラを想うことができます。

慣れてくると、両親やパートナー、子どもなど、身近な人を通してイーシュワラを想えるようになったり、苦手な人や不快な状況でさえもイーシュワラと想える場面が少しずつ増えていきます。

もちろん、いつもそう想えるわけではなく、腹の立つことは日常茶飯事です(笑)

イラっとしたり、パニックになりがちなパターンの状況が10回あって、1回でも「でもこれもイーシュワラ、、」と想えたら大成功。

成長は本当に一歩ずつ、ゆっくりですが、いつもと違う反応を選べた自分が嬉しく、自分が少し誇らしい気持ちになります。

その自己尊厳を育むことで、よりダルマ(調和)を選べる自分となり、イーシュワラの現れた法則であるダルマが当たり前となっていきます。

その私にとって、

「あなたこそがイーシュワラ」

というヴェーダーンタの明かす結論は、信じる話題ではなく、理解される真実となります。

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