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#22 ウパーサナ瞑想=イーシュワラを想う瞑想

※2024年6月8日加筆修正・追記。

ヴェーダの教えでは、瞑想には「ウパーサナ」と「ニディッデャーサナ」の二つがあると教えられます。

このうちウパーサナと呼ばれる瞑想は、「イーシュワラ(サグナブランマン)を対象とした考えの行い(サグナブランマ・ヴィシャヤ・マーナサ・ヴャーパーラハ)」と定義され、一般的にヴェーダ、ヴェーダーンタの学びにおいて瞑想といえばウパーサナのことを指します。

ヴェーダの結論部分(ヴェーダーンタ)では、「あなた(アートマー)の本質はブランマンです。」ということが教えられるのですが、その知識だけを得ても「おお、そうですか。私がブランマン。それは素晴らしい!・・・で、それが何なんですか?」ということになりがちです。

映画の中の登場人物の一人だと思い込んであくせくしていた私が、「実はあなたが映画の作者です」と言われても、「ああ、そうなんですね。でも私はこの映画が好きではありません。早く終わらないかな」と言ってしまえば何の意味もありません。

ヴェーダーンタの最後のゴールは、「私=ブランマン」ではなく、「私=イーシュワラ」という等式の理解だと言われます。

等式は、等式の両側それぞれについて知っていなければ、等式として理解することはできません。

ですので、ヴェーダーンタはまず「私とは何か」「世界(イーシュワラ)とは何か」を二元性の視点からそれぞれ教えた後で、それらが等しいこと(一元性)を教えます。

二元性の見方において、まずは「世界(イーシュワラ)とは何か」を理解するために実践する瞑想がウパーサナです。

聖典の言葉を明かす先生の教えとウパーサナによって、イーシュワラの理解が十分に深まることで、「その(この)イーシュワラが私」ということが自分自身の知識として考えに理解される準備が整います。

(追記ここまで)


この世界全ての質の源であり、自らを材料として宇宙全体を超知的に編み上げている知的源でもあるイーシュワラ。

作者でありながら材料でもあり、作品そのものでもある人。

私が私の夢の世界の作者であり、夢の世界の材料は私個人の記憶でありながら、私自身も限られた一個人として夢に登場することとよく似ています。

私たちの呼吸に、感覚器官に、感情気分に、日常のあらゆる場面に現れているイーシュワラを想う練習がウパーサナです。

私たちが気づいていてもいなくても、片時も休まずイーシュワラが働いてくれているから、私が呼吸を忘れていても呼吸が止まることはないし、心臓を動かそうと思わなくても心臓は働き続けてくれています。

私たちの傷や痛みを癒やしてくれるのもイーシュワラ。

そうすべきでないのにしてしまった、そうされるべきでないのにされてしまった、そうした過去の体験から、誰もが心に傷を抱え、状況が整えば未解決な感情気分や痛みがポップアップしてきます。

そうした過去の痛みや悲しみも、時間と共に忘却という形でイーシュワラの中に解消していきます。

以下、今朝の瞑想会で先生がしてくれたお話が素敵だったので、シェアさせて頂きたいと思います。

スワミ・ダヤーナンダジのお弟子さんのスワミジがして下さったお話だそうです。

——

私は浜辺を心地よく歩いています。

波の音を聴きながら、浜風に吹かれながら、いい気分で歩いています。

ふと私は、隣にイーシュワラがいることに気が付きます。

イーシュワラが私と並んで歩いてくれていることに気が付きます。

後ろを振り返ると、私の足跡の横に、もう一列足跡があります。

「あぁ、イーシュワラが私と一緒に歩いてくれている」

私はとても幸せな気持ちで浜辺を歩き続けます。

しかし、ふとした拍子に躓き、私は転んでしまいます。

痛くて悲しくて、私はこれ以上歩き続けることができないと感じます。

けれど私は前に進んでいます。

横を見ると、さっきまで隣にいたイーシュワラがいなくなっています。

「あぁ、イーシュワラまで去ってしまった」

私はますます悲しい気持ちになります。

後ろを振り返っても、足跡は一列しかありません。

けれど、私はハッと気が付きます。

足跡はイーシュワラのものだということに。

痛みと悲しみで歩けない私を、イーシュワラが背負って歩いてくれていたことに。

——

私たちがその存在に全く気がついていなくても、イーシュワラは決して諦めることなく、何度も何度も私たちを導いてくれようとしています。

実際はイーシュワラから離れたことなど一度もないのだけれど、

「イーシュワラなんていない」

そう考える自由さえ私たちには与えられているのです。

オーム イーシュワラーヤ ナマハ🙏

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