#42 ヴェーダと仏教
ヴェーダ、ヴェーダーンタを学ぶ以前、仏教が好きで、本を読んだり仏教国をよく訪れたりしていた時期があります。
残念ながら現代仏教には、教えの方法論が残っておらず、お釈迦さまの教えが様々に解釈されており、一番知りたい核心の部分がモヤがかかっていて見えないような感覚がありましたが、日本に生まれて出会えた教えの中で、当時最も本質に近いと感じていたものが仏教だったのだと思います。
その後ヨガ哲学を経て、聖典ヴェーダと、その結論であるヴェーダーンタの言葉を道具として扱える先生と出会えたことで、それらの疑問は解消することができたのですが、ヴェーダと仏教の関係性について、気になっていたことがありました。
それは、「仏教はヴェーダを否定する中で成立した」ということが一般的な事実と認識されている一方で、ヴェーダ(ヒンドゥー)の教えの中では、「お釈迦さまはヴィシュヌ神(イーシュワラ)の化身して現れた姿(アヴァターラ)の一つ」とされていることです。
(※ヒンドゥーにおける最重要の聖典の一つ『バガヴァッド・ギーター』を教えたクリシュナ神も、ヴィシュヌ神の化身した姿の一つとされます。)
ヴェーダを否定したはずのお釈迦さまが、ヴェーダの文化で最も偉大なはずのイーシュワラ(ヴィシュヌ神)の化身とは、これいかに??
ということが、長らくの疑問でした。
先日、とある勉強会の資料を読んでいたら、その疑問が解消されました。
お釈迦さまの時代、ヴェーダの教えを守り、伝えるべきブラーフマナ(司祭、バラモン)の人々が自分たちの利得のためにヴェーダを利用し、ヴェーダ本来の教えが守られていなかったことが言及されています。
そこに登場したお釈迦さまは、形骸化したヴェーダの権威主義、儀式主義を批判したのであり、ダルマを尊ぶヴェーダの教えそのものは否定していない、むしろお釈迦さまは本来のヴェーダの教えのエッセンスを教えたのだと理解しました。
しかし、サンスクリット語やヴェーダの原典そのものを学ぶ必要はないとしたため、また仏教では先生から生徒へと教えを手渡す方法論が確立されなかったため、お釈迦さまの死後、仏教の教えは混乱し、ヴェーダの教えから離れていったのだと思われます。
ヴェーダの文化を再建した聖者シャンカラーチャーリヤの時代において、仏教(の一部の宗派)はすでにヴェーダに反した教えを含むものになっていましたが、開祖であるお釈迦さま自身は、同時代のヴェーダの学者(ブラーフマナ)たちよりもむしろヴェーダの教えに忠実に生き、広めた人であり、その意味でヴェーダの文化に貢献、寄与したと評されたのだと理解しました。
ヴェーダーンタの教えの特徴は、シャンカラーチャーリヤ、さらに遡ってヴャーサ(マハーバーラタの作者)以前の時代から、途切れることなくグル・シッシャー・パラムパラー(先生と生徒の教えの系譜)が続いていることです。
「波と海」「ポットと土」「蛇とロープ」など、たとえ話ひとつ見ても、同じたとえ話が時代を超えて語り継がれています。
現在も、バガヴァッド・ギーターやウパニシャッドの原典及び、シャンカラーチャーリヤによって書かれた解説書(シャンカラ・バーシャ)、先生からそれらの意味を学んだ先生(先生のいる先生)がセットになって、シャンカラによって教えられたのと同じ教えを学ぶことができます。
お釈迦さまの入滅後の仏教の混乱と比べても、教えと教えの方法論が途絶えることなく残っているということは奇跡的です。
余談になりますが、仏教の一宗派とされている真言宗を興した弘法大師が中国で学んだのは、仏教ではなくウパニシャッド(ヴェーダーンタ)だったという説があります。
残念ながらこちらも弘法大師の死後、教えが正しく伝わることはなかったようですが、死後の極楽浄土ではなく、生きながらに悟り(解脱)を目指す「即身成仏」の教えは、確かに仏教というよりヴェーダーンタの教えに近いと思います。
※仏教に関しては、専門的に勉強したわけではないので、認識、理解の誤りなどありましたらご容赦ください。