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枯れ尾花だらけの荒野を歩く

恐らく一度目ではないアラームに起こされて目を覚ます。手探りでベッド脇のスマホに手を伸ばし、スヌーズを解除して大きく息を吐いた。のそりと身体を起こして、カーテンも開けずにおぼつかない足取りでトイレに向かい、少しドキドキしながら便座に座って下着を確認する。「まだ」だった。今日で生理予定日から十日目になる。

もともと生理は不順な方で、予定日を避けて旅行の予定を入れたのに、結局ずれて温泉はお預け、といった事態は珍しくなかったが、今までは遅れても一週間程度で、十日以上遅れるのは恐らく高校生の頃ぶりだ。彼氏がいなければ無月経に分類される三ヶ月くらいまで待てばいい、くらいの認識でいるが、今はそういう訳にもいかない。もちろんちゃんと毎回コンドームは使っているが、正しく使っても2%、少し使い方を誤れば15%の確率で「失敗」するというのが定説だ。正しく使えているかを誰の目にも見える形で確認する方法は、私の知る限り存在しない。

少し前、不安要素を減らすために低容量ピルを試そうと婦人科に行ったら、血液検査の結果から血栓症のリスクが高いので処方できません、と断られてしまった。別の手段もあるのは知っているが、面倒な予約から診察、検査を乗り越えて徒労に終わった経験が、再診の足を遠のかせている。

綺麗なままの下着を睨みながら、はぁ、と大きなため息をつく。なんにせよ、会社には行かなきゃならない。8時34分発の電車に乗るために、45分後には家を出ないと。ぐるぐると重たい気持ちを引きずりながら、水を流しトイレを出る。

多分大丈夫だ。きっとゴムは正しく使えているし、もし妊娠しているならそろそろつわりが始まる頃のはずだけど(めちゃくちゃ調べた)気持ち悪くないし、周りの人は不妊治療をしてようやく授かっているくらいなのだ。そう分かっているのに、洗顔中も、着替え中も、メイク中も、朝食のヨーグルトを食べている間も「もしそうだったら」を考えてしまう。心配性かつネガティブで、こういう時に驚くほど素早く、起こりうる最悪のシナリオを展開するのは自分の悪い癖だ。

彼氏のヨウスケとは付き合って2年、お互い30手前で、結婚してもいい頃合いではあるものの、週末のみ一緒にいるスタイルが楽すぎることに加え、私の家は両親との関係がそれほど良好でないし、熊本出身のヨウスケの家は結婚観がかなりトラディショナルなので、結婚の話はどちらも出さない。子どもに関しては、ふたりとも「友達の子どもや甥・姪くらいの距離感だと無責任にかわいがれていいよね」という感じで、どちらも強く望んではいない。

私の会社はわりと大企業なので、産休はもちろん制度として保証はされている。ただ、部署の非管理職グループの中で、リーダー的な存在として取りまとめていた原さんが、本当であれば先月から育休から復帰する予定だったのだが、つい最近二人目の妊娠が分かり、そのまま産休に突入することになった。それはつまり、原さんの不在を私と一年先輩の横田さんでカバーする体制がもう一年続くということだった。ここでもし仮に私まで戦線から離脱するとなったら、横田さんに合わせる顔がない。

原さんの二人目の産休の知らせを受けたとき、邪悪な反応をした人たちが一定数いた。旦那が年下だからどうとか、顔は普通だけど胸は大きいからどうとか。男も女もそういうことを言う人はいたが、全員自分より職位が高く、言い返せないのが絶望感に拍車をかけた。自分に言われた訳ではないのに、どうしても許せず忘れられないのは、私が原さんに懐いていたから、というだけではなく、その悪意はいつか自分に向けられうるから、という部分も多少あったのかもしれない、と今になって思い至る。

心ここにあらずでも身支度をして家を出られてすごい、と思ったのも束の間、駅の最寄りのコンビニの前を通過するタイミングで、ピアスをつけていないのとマスカラを塗り忘れていることに気がついた。しかしこの二つのためだけに家に戻れるほど時間の余裕はなく、一度ゆるめた歩くスピードを元に戻しそのまま駅へと歩みを進める。コツコツと響くヒールの音が自分を励ましているようで、やっぱり元気のない日はヒール高めの靴に限る、と思う。

仕事をしている間は気が紛れて助かった。打合せは少なかったが、月末が近くやらなきゃいけない作業はいくらでもあった。ランチ中、少し脳のリソースが空くとまたモヤモヤといろいろな懸念が出てくるので、アンインストールしていたツムツムをわざわざインストールした。そして定時まであと1時間。今日の感じだと20時まで残れば終わるかな、などと考えながら私用のスマホに目をやると、アイちゃんからLINEが来ていた。

「おつかれ!今日直接お店でいい〜?」
あ、そうだった。今日は20時からアイちゃん、ヤマネちゃんとご飯に行く約束をしていたのがすっかり頭から抜けていた。私たち3人は同期でこの会社に入り、四年前にアイちゃん、一年前にヤマネちゃんが転職し、そして私はここに残り続けている。ちなみに、ヤマネちゃんは山根さんではなく、彼女の一番好きな動物がヤマネであることに由来したあだ名である。

神保町に20時なら、19時半には会社を出たい。OKのリアクションをつけてから、見積りとの差分の30分を巻き返すように集中してExcelと戦い、なんとか19:36に退勤打刻を押す。金曜独特の若干浮ついた空気が漂うオフィスを出て、地下鉄の駅へと向かう。盛夏は過ぎてもまだ蒸し暑く、少し早歩きすると汗が滲みブラウスが背中に貼りついて不快だ。

神保町の改札を出たところでヤマネちゃんの後ろ姿を見つけ合流し、ふたりでお店に入るとアイちゃんは既に座っていた。
「アイちゃんおつかれ〜遅くなってごめん!」
「いやいや、月末の20時に3人揃えてるなら優秀でしょ。おつかれ!ふたりともビールでいいよね?」
私、ビール飲んでいいのかな、と頭によぎるが、散々あらゆるサイトを見て、Yahoo!知恵袋も一通り読んで、自分の中で出た結論が「これは生理不順である」なのだ。ビール党の私が一杯目から飲まなかったらふたりにも不思議に思われる。体調不良と嘘をついて心配をかけたくないなら説明しないといけないが、説明できるほど、自分の中で気持ちの整理ができていない。

「うん、おねがい」
「わたしも〜」
私に続いてヤマネちゃんも答えて、いつも通りの女子会の始まりだ。女子会の形は様々だが、このメンバーの集まりは極めて平和的である。それぞれの近況、アヤちゃんが最近ハマっているドラマ、ヤマネちゃんの推しの最新事情、私が開拓したおすすめのごはん屋さんなどの話を一通りしたら、新卒時代の思い出話や当時の上司や同期がどうなったかを、主にまだ転職していない私が話す。だんだん思い出話のパートの時間が長くなったあたり、私たちも歳をとったんだなぁと感慨深くなってしまう。

比較的ペースの速いアイちゃんが二杯目のハイボールを飲み干す頃、私のビールグラスが空になった。
「すみませーん、ハイボールもう一つお願いしまーす。ミカは?何飲む?」
「あ…わ、たし、は、コーン茶で」
かしこまりましたぁ、と店員さんが下がってから、向かいに座るアイちゃんが物珍しそうにこちらを覗き込んできた。言わんとしていることは分かっている。
「あれ、珍しいね〜今日は一杯だけなの?」
「うん、明日、朝9時半に歯医者さん予約しちゃってて。一回寝坊して行きそびれてるから、明日は起きないと」
「あはは、歯医者って土曜午前中しかやってないよね。にしてもあなた、新卒の時に入社3日目で寝坊かました時から変わってないね」
「も〜みんなすぐその話するんだから」
「あれはねぇ、なかなかインパクトあったよねぇ」
「ねぇ、忘れられないよねぇ」

「そういえば、そろそろ原さんって戻ってくる頃なんじゃなかったっけ?」
一番お酒に弱いヤマネちゃんが少し目をとろんとさせて私に問う。彼女が退職する少し前に、原さんはすでに産休に入っていた。
「あー...そのはずだったんだけど、この前、2人目の妊娠が分かって、そのまま産休入ることになったんだよね」
「え、そうなの!?てことは、ミカちゃんと横田さんの150%稼働まだ続くの?」
「横田さんにかなりカバーしてもらってるから150まではいかないけど、まぁそうね」
「え〜、ちゃんと給料あげてもらった?」
アイちゃんが不満そうな声色で尋ねる。
「部長の評価は多少加点してもらったから、年末のボーナスはちょびっと増えるかもだけど、ちょびっとだな」
「これでミカまで辞めたら困るのに、なんでそこで出し渋るかな」
「なんだかんだ7年目で、コイツは辞めないだろうって舐められてるのかも」
「ヤマネちゃんだって去年6年目で辞めてるんだよ。たまには強気でいった方がいい時もあるよ」

「それにしても原さん年子かぁ、大変だね」
アイちゃんの三杯目のハイボールの氷が溶けて、カランと音を立てる。
「ね。でも、原さん私ら新卒の面倒見もよかったし、素敵なお母さんになりそうだよね」
「うんうん。いいなぁわたしも早く子どもほし〜」
「ヤマネちゃんは昔からそう言ってたね」
「ミカは?結構彼氏とも長いじゃん」
「え〜、まだ結婚すらしてないのに子どもなんて考えないよ」
タイムリーな話題に、ソフトドリンクを飲んでいるはずなのに鼓動がうるさくなるのが分かる。
「そうじゃなくて、将来的にどうなりたいな〜とかあるの?何人欲しい、とか」
アイちゃんが前髪を耳に掛けながら私の目を見る。アイちゃんはおでこも指も綺麗で、彼女のこの仕草を私は昔から美しいなと思っている。

「…どうなりたいんだろう。分かんない。今は正直、全然いらないなって思ってる。自分のことで精一杯だし。自分は頑丈だけど、ちょっと取扱いを間違えたら死んじゃう生き物がずっと近くにいるの、怖いって思っちゃう。平日うだうだ言いながら仕事して、とりあえずひとりで暮らすには困らない程度には稼げてて、週末友だちと遊んだりデートしたりして、充分楽しくて幸せなんだけど、いつかこれじゃ足りなくなるのかな、とも思う。ずっといらないって思ってて、産めなくなってから「あぁやっぱり産んでおけばよかった」って後悔しない自信がない。でも、仕事とか旅行とか、今しかできないこともたくさんあって、歳取ってから後悔したくないって理由で産んで、後から産まなきゃよかったって思うのはもっとよくない気がするし、分かんない」
ここ数日、ずっとひとりで考えていたことだった。もし仮に、万が一、生理不順じゃなかったら、堕ろすか産むかの二択になる。その時多分、私は前者を選ぼうとするだろう。その方が現実的だから。結婚してないし、仕事も休めないし、親にも頼りたくないし、何よりほしいと思っていない。でも、その選択を何年経っても後悔しないだろうか。

不安や孤独が滲み出ていたのか、隣に座るヤマネちゃんが私の肩に手をぽん、と置いてくれた。
「迷う時期だよね、我々働くアラサーは」
「ね、地元の友達は子どもいる子多いし、東京の友達は妊活始める子も出てきたし」
不安を言葉に出したら少し鼓動も落ち着いてきて、もう少しこの話をしたいと思った。
「ちなみに、アイちゃんは?新婚でしょ。そういう話、旦那さんとしたりする?」
「うちはねぇ、2025年までは自分たちの人生をフルで楽しもうってことにしてる」
「えー、めっちゃ計画立ててる」
「いや、先延ばしにしてるだけだよ。身体への負担とか考えると早いに越したことないって分かってるけど、悩むのも辛くて、じゃあ来年まで悩まなくていいってことにしよう!っていう考え方」
「じゃあ、その先どうするっていうのはまだ未定?」
「うん。ミカと一緒。自分がどうしたいのか、まだ分かってない。向こうはぼんやり欲しいと思ってそうだけど、本当にぼんやりって感じだし。自分と旦那の子どもって、どんな感じになるんだろう?っていう興味はあるんだけどさ、いざ諸々の苦労を越えられるかと問われるとうーん…みたいな」

「…なんか、母性って、お化けみたいって思うんだよね」
アイちゃんが突然つぶやく。
「お化け?」
「うん。あるのかないのか分からないものが一番怖いでしょ?あるって分かってるなら産めばいいし、ないって分かってるなら産まなきゃいい。あるかないか分からないから怖いんだよ」
「あるって思ってても、実体がないしね。わたしは子ども欲しいタイプだけど、いざ生まれてきてかわいいって思えなかったら怖いなとかは思うよ」
「そっか、みんな不安なんだね」
「そりゃそうよ」
「悩んでると孤独に感じるけどね。都市で働く女はみんな似たようなもんだと思うよ」
「選択肢がある分幸せだと思いつつ、地元の短大出てすぐ結婚して、もう二人子どもいる友だちも、それはそれで幸せそうだし」
「ね〜。もう、自分の選んだ道が最善だったと思い込むしかないよ。仮にそうじゃなかったとしても」

すみませんお席のお時間です〜と店員さんに申し訳なさそうに声を掛けられ、お会計をお願いしながら、各々自分の目の前に残された遠慮の塊を細々つまむ。決して料理を残さないところは、このメンバーの居心地のよさの理由のひとつだ。
アイちゃんがまとめてお会計をしてくれている間、ヤマネちゃんと割り勘分をPayPayで送金しながら、店員さんすごくいいタイミングで来たよね、アイちゃんの名言聞かれてたんじゃない、とこそこそくすくす話していた。

お店を出ると、冷房で冷やされた身体にはちょうどいいくらいの生ぬるい風が前髪を揺らした。このメンバーは一次会でスパッとお開きになるので、まだ22時過ぎだがこのまま解散する。一緒に駅まで歩く間、ヤマネちゃんがボーナスで買ったバルミューダのトースターがいかに素晴らしいかを熱弁し、しっかりしてそうで実は単純なアイちゃんがかなり心を動かされていて面白かった。次に会う時にはふたりからプレゼンをされるかもしれない。

半蔵門線に乗るふたりと別れて帰路に着く。今日、最初は正直こんなボロボロの日に、と思ったけれど、いろいろ話せてよかったな、と改めて思う。ひとり暗い部屋で悶々と考えていたら、もっと絶望的な気分になっていたかもしれない、と想像して少し身震いした。

最寄駅に着いて、時計を確認すると22:42だった。少し早歩きで、23時までやっている駅前のドラッグストアに滑り込む。
「自分の選んだ道が最善だったと思い込むしかないよ」
脳裏にアイちゃんの言葉が響く。そのために私が今やらなきゃいけないのは、「もしかしたら」を想像して震えることではなくて、自分が立っている道がどこにあるのか、きちんと調べることだ。「99%以上の正確さ」を謳うパッケージを手に取り、コツコツと鳴るヒールの音に励まされながらレジに向かった。

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