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燃やして燻らせて

「ほんと、百害あって一利なしって分かってるのに、どうしてやめないのかしら。ミユもいるっていうのに、まったく」

ベランダで肩身狭そうに煙草を吸う父の背中を見ながら、まだ”タバコ”が何かも分かっていない小さな私に、母はよくぼやいていた。ベランダから戻ってきた父から漂う独特な匂いは別に嫌ではなかったが、母の機嫌が悪くなるのは嫌だったので、父が禁煙をすると聞いたときは歓迎した。私は小学四年生だった。

でも、数ヶ月でその歓迎を撤回することになる。父は代わりにガムを噛んだりして気を紛らわしてはいたが、それでも喫煙時代よりもイライラすることが圧倒的に増えた。幼い私にとっては副流煙など気にもならないし、見慣れている不機嫌な母よりも、見慣れない不機嫌な父の方がイヤだった。
だから、キンエンとはとても辛くて大変なのだということを、保健体育の授業で習うより前に私は知っていたのだ。


10円足りない。
バイト先のカフェバーのレジカウンターの前で、画面に表示されている金額と集計用のケースに収められた現金を見比べため息をつく。さて、一枚足りない十円玉はどこに行ったのか。

約1年半の経験上、硬貨数枚分の差異は釣り銭の受け渡しミスではなく、シンプルにどこかに硬貨が落ちていることがほとんどだ。予約を管理するノートの間、伝票を挟むバインダーの下、そしてレジの機械とカウンターのつい立ての隙間。
ここの捜索はちょっと厄介だ。レジの機械をずりずりと手前にずらし、つい立てとの隙間に腕を伸ばしてカウンターの表面をつーっとなぞっていく必要がある。右腕を左に向かって動かしているとコツンと硬いものが人差し指にぶつかり、拾い上げるとやはり十円玉だった。きっとランチのレジ担当の人が落としてしまったのだろう。

「店長、レジ締めOKです」
カウンターに座って日報を打つ店長の背中に呼びかける。
「はーい、ありがとう。じゃあ今日は上がって大丈夫だよ。多田くんは?掃除終わった?」
「あとこっちのイス拭いたらおしまいっすー」
フロアの掃除をしていた多田くんが声を張り上げて答える。
「はいよ。じゃあふたりともお疲れ様」
「お疲れ様でしたぁ」

お疲れ様でした、とは言ったものの、先ほどレジ機をどかしてカウンターを撫でた時、埃でざりっとしていたのが気になって、カウンターの下にストックしてあるボロ布で軽く拭き掃除をすることにした。おそらくバイトの中でここを掃除しているのは私だけなので、気付いたタイミングで拭かないと小銭探しの時に手を突っ込むのが億劫になる。

「あれ、谷崎さんまだ上がってないんすか」
掃除道具をしまいにきた多田くんに声を掛けられる。スタッフルームに入るにはカウンターを通過する必要があり、大人ふたりがすれ違うには少し狭い。ごめん、と言いながら身体をぎゅっとカウンターに寄せて道を空けた。
「ちょっとレジの裏、埃溜まってたから拭こうと思って」
「お〜さすが。そういやこの前佐々木さんが、俺はレジの金額誤差が100円以下で、ちょっと探して見当たらなかったら自分の財布から入れちゃうけど、谷崎さんは絶対ちゃんと探すんだよなって言ってましたよ」
「だから、たまに予約帳の間とかからぽろっと十円玉とか五十円玉が出てくるの。佐々木さんが補填した分だろうと思って、付箋をつけて引き出しの隅っこに入れておくと、ちゃんと回収していくんだよ」
カウンターを拭き終え、ずりずりとレジを後ろに戻しながら答える。

「え、自分で探さないのが悪いのに。見つけた谷崎さんがもらっちゃえばいいじゃないすか」
考えたこともないことを言われて、ついポカンとしてしまう。要領が良い多田くんらしくて、ちょっと羨ましい。
「だって佐々木さんのお金でしょ」
「ヒュー、マジメぇ」
「バカにしてる?」
ハイハイ、終わったから帰ろうと促してタイムカードを切った後、少し離れた従業員用の駐輪場まで一緒に歩いていく。私と多田くんはふたりとも自転車通勤だ。

「あれ、もしかして多田くんって今日締め作業デビュー?駐輪場まで一緒に行くの初めてだよね」
「そっすね、一人でやるのは今日が初めてでした。この前山辺さんにやり方教えてもらったんすけど、その時は谷崎さんいなかったし」
「そっか。バイト始めてもう3ヶ月くらい?そのうちレジも教えることになるのかな」
「あ、レジは大丈夫っす。細かい作業も数字も苦手なんで」
「基本お金数えるだけだから大丈夫だよ」
「谷崎さんみたいにちゃんと十円探せないっすよ…あ、俺ちょっと寄っていくんで」
突然動きを止めた多田くんの靴のつま先は、路上の喫煙スペースに向いていた。

「じゃあお先に…ん?多田くん今一年生ってことは18歳じゃないの」
「うわーマジメだなぁ。俺4月生まれなんで19です。数ヶ月なんて誤差っすよ。谷崎さんは3年だからハタチ超えてるよね。吸う人ですか?」

ちゃっかり敬語が取れていることよりも、タバコを吸うか聞かれたことにびっくりした。タバコとかピアスとか濃いメイクとか、悪い香りのするものは全て自分には似合わないと思っていたし、周りからもずっとそう言われてきたからだ。一瞬固まった後、ふるふると首を横に振る。

「私、吸うタイプに見えないでしょ」
「人は見かけによらないじゃないっすか」
「私は見た目どおり吸いません。父親が禁煙に苦労してるのを見て育ったから、手出さないようにしてるの」
「んは、先回りして心配するタイプだ」
「え?」
「なんでもないっす。じゃあまた。多分これからも月曜は締めで入るんで、よろしくお願いします。お疲れっした」
「お疲れ様」

少し面食らったけれど、見た目や話し方から真面目でおとなしいと決めつけないという意味で、多田くんはフラットな人だなと思った。後ろでひとつに縛っていた真っ黒な髪をほどき、セミロングを風に靡かせて車輪を漕いだ。


「別れてほしい」
ユウトから突然別れを告げられた時の感情を表すなら、怒りや悲しみよりも"呆然"がぴったりだった。日曜夕方の喫茶店の人はまばらで、斜め後ろに座るおじさんが新聞をめくる音が気まずそうに響く。

「え?」
「ごめん。ミユのこと嫌いになった訳じゃないんだけど」
「じゃあ、どうして」
「なんていうか、俺、ミユの前ではちゃんとしなきゃって気ぃ張ってたんだよ。前は自分でも気付いてなかったんだけど、一回気付いたらそれがだんだん苦しくなってきたっていうか」
「いや、ちゃんとしてなんて、言ったことないじゃん」
「ごめん、うまく言えないけど、ミユはもっとちゃんとした奴と一緒にいた方がいいと思う」
「どういうこと?」
私の問いには答えず、下を向いたまま何度もごめん、と呟きながら、カップに入ったカフェラテと千円札を残し、ユウトは逃げるように喫茶店を出て行った。

西陽に照らされて遠ざかっていくカーキ色のTシャツを見ながら、へそのあたりから全身の空気がぷしゅうと抜けていく感覚に陥る。水をかけるとか、追いかけるとか、ドラマで見るような行動は取れないもんだな、と思いながら、ただ目の前のブラックコーヒーの黒を見つめていた。
「谷崎さんはブラック飲めんだね。俺、牛乳入れないとだめなんだよ」
初めてふたりで喫茶店に入った時、恥ずかしそうに打ち明けたユウトの顔が思い出かぶ。

態度に、視線に、前ほどの熱量がないとは思っていたけど、もう1年半も一緒にいるし、そんなものだと思って特に気に留めていなかった。飽きたとか、他に好きな子ができたとか、ちゃんと言ってくれた方が100倍マシだった。そっちが告白してきたのにどういうこと、なんて怒らないのに。告白されて何となく付き合ったとはいえ、私だってちゃんと好きだったのに。別れたいと思わせる、決定的な言動があったのかな。この前一緒に行った買い物も内心つまんなかったのかな。ていうか同期なのに、次サークルで顔合わせた時どんな顔したらいいの?今週行きたくないな。Wデートまでしたヒナとたけちゃんに別れたって言うの気まずいんだけど。

考え事は尽きず、ひとりで悶々と考えているうちに、気付けば日が暮れていた。家に帰って親と一緒にご飯を食べる気にならず、母に幼なじみと偶然会ったので夜ご飯一緒に食べて帰るね、と嘘の連絡を入れ、そのまま喫茶店でチーズケーキを頼んだ。一方的に振られて食べるケーキは味がしないかなと思ったけど、ちゃんと美味しかった。私は案外図太いのかもしれない。
明日は月曜日。幸いサークルはないとはいえ、これほど明日が来るのが億劫なのは久しぶりだった。


ガチャン、とグラスの割れる音で我に帰り、条件反射的に店内全体に聞こえる声で「失礼いたしました!」と叫ぶと、店長がカウンターキッチンからこちらを覗き込んだ。
「おーおー谷崎さん、大丈夫?珍しいな。てっきり多田くんかと」
「すみません!すぐ片付けます」
「お客様に運んでる時じゃなくてよかったよ。片付ける時気をつけて」
「はい、すみません」
急いでほうきとちりとりを取り、割れたグラスの破片を集める。グラス磨きの最中に手が滑ってグラスを割るなんて初めてだ。

「俺やりましょうか?片付け」
いつの間に近くにいた多田くんが声を掛けてくれた。グラス割るの慣れてるんで、と笑うのは彼なりの気遣いだろう。
「大丈夫。私が割ったんだから自分でやるよ。ごめんね気遣わせて」
「そっすか。要らないチラシが店長のパソコンの横に置いてあるんで、それで包んで従業員出口の所に置いとけばいいですよ」
「ありがと」
余裕がないのがバレないよう笑顔で返す。ああ、お願いだから早く退勤時間になってほしい。

それから閉店までは特に大きなミスなく乗り切り、Closedの看板を出した時は心底ホッとした。残すはレジ締めだけだ。
今日は客数が少ないうえ、ほとんどがカードかモバイル決済だったので誤差はないだろうという目論見は外れ、また現金が10円足りない。予約帳や伝票類をどけても見当たらないということは、またあの隙間か。レジ機をずらして探さなきゃいけないけれど、寝不足と緊張のせいか腕がだるくて重い。

諦めてスタッフルームにある自分の財布から十円玉を取りレジに戻ると、いつの間にか掃除を終えた多田くんが立っていた。
「おお、びっくりした。お疲れ様」
「珍しいっすね、今日は探さないんですか」
「うん、ごめん、今度探すから」
「別に責めてないですよ。谷崎さんって謝るのクセですよね」

思わず黙り込んでしまう。自分で意識していないということは、おそらく彼の言う通りクセなのだろう。指摘した本人は何も意に介さない様子で掃除道具を片付けている。私だったら、自分の発言で相手が黙ったらごめん変なこと言って、とすぐ謝ってしまう。この人は私と全然違う。

「店長、レジ締めOKです。あと、グラスすみませんでした」
「ひとつくらい平気平気。多田くんなんて何個割ったことか」
「えー、いうてそんな割ってないっすよ」
「この前3つグラス載ったトレイごとひっくり返したの誰だっけ?」
「ハイ、すんません」
「ま、割れたもんは仕方ないけどね。じゃあふたりともお疲れさん」

お先失礼します、と返してからタイムカードを切り、ふたりで駐輪場に向かっていると、多田くんがそうだ、と呟いた。
「谷崎さん今日入るときタイムカード切ってなかったっすよ」
「え?うそ、やばい」
「気付いたんで代わりにやっときました」
「ごめん、ありがとう。もう今日はダメだな」
「分かりやすいっすね。初めてですか」
「なにが」
「失恋」
「はっ?」

青信号を見て「青だ」と言うかのように自然に言われて、素っ頓狂な声を出してしまった。
「顔に書いてありますよ」
「そんなことない。今週レポートの締め切りが重なってて寝不足なの」
「じゃあそういうことにしときましょう」
「トゲのある言い方するね」
多田くんは愉快そうにくつくつと笑っている。どうしてそんな簡単に分かってしまうのだろう。精一杯何事もないような顔をしていたのがバカみたいだ。

「あ、じゃあ俺ここで。どうします、吸いたい気分だったら一本あげますよ」
仕切りの内側から、おもちゃを見つけた猫のような目で多田くんが私に問う。年上を揶揄うような振る舞いだって、私には到底できないことだ。
普段の私だったら絶対に断るけれど、今は普段の私がやらない方を選びたい気分だった。
母親の「百害あって一利なし」というぼやきが脳裏に響く。ごめんお母さん、今、害とか利とかどうでもいいかも。仕切りの中に足を踏み入れた。

「一本ちょうだい」
多田くんは眉毛を上げてお〜、と呟いて、緑の小さな箱から取り出した一本を手渡した。
「ありがと。ていうか今時、電子じゃないんだね」
「電子も持ってますよ。充電切れた時用に紙も常備してるんです」
「ふうん」
「じゃあこっち咥えて、火つける時は息を吸っててくださいね。肺に入れると多分しんどいんで、深呼吸はしないで」
そう言って、私の咥えた煙草の先に火を近づける。言われた通りに息を吸うと簡単に火は移った。紙と草が焦げる少し懐かしい臭いがして、舌にじんわりと苦味が広がる。それっぽくふーっと細く息を吐いて、風がないためにゆらゆらと真上に昇る煙をぼーっと見つめる。

「どうです」
「んー、もっと苦いかと思ってたらそうでもないね」
「種類によっても変わりますよ。これは割とマイルドなやつっす」
「そうなんだ。あ、今タバコって高いんでしょ?今度お金渡す」
「あはは、いいですよ数十円だし、いつもお世話になってるんで。佐々木さんとか、レジ締めが早く終わってもホールの掃除手伝ってくれませんからね」
「そうなの?冷たいな佐々木さん」
「谷崎さんが優しすぎる説もありますけど」
「そうかなぁ」
だから飽きられるのかな、と言おうとしたところでレポートに追われている設定を思い出し、慌てて煙だけを吐き出した。

ちょっと悪ぶってみたって何かが解決する訳ではない。損しがちな性格も考え方も、その割に鈍感で大事な所に気付けないところも燃えてはくれない。でも、いい子っぽい振る舞いをしていない自分は、割と嫌いではなかった。

あっという間にタバコは短くなり、共用の灰皿に押し付けて火を消した。
「ありがとね」
「いーえ、じゃあレポートがんばってくださいね?」
「あんまり調子乗ると次からお客さんにワインのおすすめ聞かれても助けてあげないよ」
「あ、それはガチで困ります。全然覚えられないんすよ」
「覚えられないじゃなくて、覚えるの。じゃあまた来週ね」
「厳しいなー。はい、お疲れ様でした」

自転車をいつもより重いギアで漕ぎながら心に決める。今週木曜日のサークルは絶対に休まないし、悪いことはしてないのだから私から「ごめん」を言わない。私の場合まずはそこからだ。
弱虫クソ男、と小さく呟いたら、それまで凪いでいた風がびゅう、と背中から吹き付けた。

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