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僕がSAMEYAを始めた理由 気仙沼編

SAMEYAが本格稼働するようになって、早3年。会社を立ち上げてから紆余曲折があったけれど、とってもありがたいことに、応援してくれる人も増え、取材を受けることも少しずつですが増えました。
そんな中で、必ず聞かれるのが、「なぜサメなのか」「なぜ気仙沼なのか」の2つのこと。
東日本大震災から、今年で10年。僕がSAMEYAを始めた理由を改めて振り返りたいと思います。まずは、「なぜ気仙沼なのか」編です。

SAMEYAとは?
https://note.com/sameya/n/n12803ce1a492

海沿いのお寺清掃で抱いた違和感

3.11東日本大震災発生。僕は当時大学生で、都内で開かれていた勉強会に参加していました。揺れが収まったあと、セミナールームのテレビで津波の映像を見ました。

自分にできることはないか。その思いに駆られ、震災から1ヶ月後の4月、日本財団のボランティアに参加。そこで目にしたのは、木の枝のように折れた電柱や、墓石に乗り上げた車、道路の横たわる重機や船。その光景も匂いも、一生忘れることはできないほど衝撃的なものでした。

僕が伺った地域では、当時、遺体捜索を経て、身元が確認できた遺体から火葬が始まっていましたが、お寺も被災していたため、遺骨を安置する場所がないという問題を抱えていました。そこで、私たちは、津波に飲まれた海沿いのお寺の掃除をすることに。2泊3日、主な作業は、軒下に潜り込み、泥をバケツリレーで運ぶいうもの。匂いのきついヘドロにまみれても、温かいシャワーなどありません。タオルで身体を拭き、寝袋で睡眠をとりながら取り組みました。

最終日、綺麗になった境内を見て、僕は達成感を抱いていました。しかし、お寺の住職が「これで休まれる魂も増えるはず。ありがとう。」と頭を下げられた瞬間、その思いは一瞬にして崩れ去りました。住職が立つ背後には、訪れた時に見たものと同じ、全てを流されてしまった何もない光景が広がっていたのです。

ボランティア

街がきれいになることが復興なのか?

その帰りは、複雑な思いが交錯していました。がれき撤去ボランティアはとてもやりがいがありました。誰かの大切な場所がきれいになり、喜んでもらえる。一方で、街はきれいにはなったけれど、“そこに人がいる”というイメージが湧かない。街に暮らす方々が生活を取り戻す手助けであるはずのボランティアなのに、僕たちがやっていることは、ただ街を綺麗にしただけ。本当に意味があることだったのだろうか、と。

すぐに答えが見つからず、僕は元の生活に戻ってしまいました。それからしばらくして、偶然つけていたテレビ番組で、「被災者が不安に思っていること」というランキングが流れてきたとき、ふと目にした「仕事」という二文字に目を奪われました。海沿いのお寺で抱いた違和感の正体が見えた気がしたのです。

「津波の被害の大きかった沿岸部の仕事を知りたい」すでに東北に移住しまちづくりに取り組んでいた大学の先輩を頼りに、ある漁師さんを紹介してもらうことに。そして訪ねたのが、宮城県気仙沼市だったのです。

己の無知を思い知った漁師との出会い

「全国から使っていない漁具を集めて、仕事道具を失った漁師さんへ渡す」
僕が始めに考えた提案です。

提案を漁師さんに話すと一蹴されました。同じように見える船が漁具ですが、それぞれが細かく持ち主によってカスタマイズされたものなので、他人のものをもらっても使えないのです。自分がいかに、漁師や漁業を知らず、「支援だ!」と上から目線に考えていたのかを思い知らされました。

以来、まずは現実を知ることからだと、足繁く漁師さんのところを訪ね、一緒に酒を酌み交わし、お互いのことを語り合うことから始めました。彼はよく、「俺は魚獲りに命を懸けている」と熱く語り、漁にまつわるいろいろな話を聞かせてくれました。

海の青さを知る人よ

いつものように食卓を囲んでいたある日の晩のこと。
「あすの朝、漁へ一緒に行かないか?」
大切な漁に誘ってくれたのです。とても嬉しくて、二つ返事で行くことを決めました。その夜は、興奮してなかなか眠ることができなかったことを覚えています。

翌朝5時、まだ星が見える寒い冬の夜明け。防水の漁師ウエアをお借りして、船に乗り込みました。でも、わくわく楽しかったのは、ほんのつかの間・・・
静かな湾内を出た途端、頬を切るような風の冷たさと荒波による激しい船の揺れに見舞われ、漁場に着く頃には何かに寄りかかっていないと立っていられないほどに。おまけにちょっと気持ち悪い・・・最悪の状態です。

そんな僕を尻目に漁師さんは、時折波をかぶりながら網を揚げ、甲板を走り回って作業を進めます。船の周りには仲間の船はなく、もちろん陸も見えません。目の前には、ただただ青い海が広がるだけ。僕はそのとき、初めて海の青さが怖いと思いました。思い出したのは、「俺は魚獲りに命を懸けている」という言葉。その本当の意味がわかった気がしました。

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子どもに継がせたくない漁師の仕事

漁から戻り朝ご飯に。吐かずに、無事に帰ってきたご褒美だと、朝に獲ったばかりのタラを頂きました。冬のタラには白子がたっぷりと入っていて、その味は東京で食べる白子を5倍濃縮したようなクリーミーさ!これまで食べたことがないほど、とてつもなくおいしかったです。(おかげで、しばらく東京では魚が食べられなくなりました笑)

命懸けで網を揚げ、こんなにおいしい魚を獲る。漁師ってすごい仕事だなと心の底から思いました。しかし、同時にある疑問を抱きました。
「誇り高い仕事なのに、彼の働き盛りの息子は漁師ではない。なぜか。」
漁師さんから返ってきたのは、「漁師なんかしてても、今の時代食っていけるわけねーべや」というひと言でした。

誇り高く素晴らしい仕事であるのに、例年漁業に携わる人数は減っており、養殖業者を除く漁業者の年収は230万ほどにしか満たないという現実も知りました。※1

「命懸けで頑張る漁師たちがもっと評価される世の中にしたい」
この時に芽生えた思いが、SAMEYAを立ち上げるきっかけとなりました。

未利用魚のサメに需要を生み、価値を高めて漁師さんへ還元できる仕組み作りを目指しています。では、「なぜサメなのか?」。この話は改めて投稿したいと思います!

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※1:農水省 漁業経営調査 24年度調査概要より

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