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コロナに思う「観光学から現代社会を読み解く」

新型コロナウィルスのパンデミックにより、観光産業に従事する人はもちろん、将来その世界を希望する学生の皆さんにとって観光産業はどうなっていくのか、大変な不安を抱えていると思います。今回は、そんな状況の中で改めて観光を学ぶ意義について考えたいと思います。


観光とウィルスの意外な関係

突然ですがクイズです。下記の観光資源とは何でしょうか。

.奈良時代に聖武天皇が国力を尽くして建立し、大仏があることで有名な寺は何か。

B.京都の夏の風物詩で、7月1日から1か月間八坂神社の祭礼として行われる京都三大祭の1つとは何か。

さあ、わかりますか。

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Aの正解は、東大寺。Bの正解は、祇園祭です。
奈良の東大寺の大仏は、朝鮮半島から使節を通じて入ってきた天然痘という感染症が朝廷内に大流行し、それを鎮めるために大仏が建てられたと言われています。また、Bの祇園祭は、葵祭、時代祭りと並ぶ京都三大祭の1つです。祇園祭は、平安時代(869年)京の町で大流行して大勢の死者が出る悲惨な状況にあった疫病を鎮めるために神仏祈願として始まったものです。この2つの共通点は、疫病や感染症の流行がその誕生にきっかけになっていることです。

実は疫病や感染症をきっかけに生まれた観光資源はほかにもあります。例えば、東京の夏の風物詩である「隅田川花火」は、徳川吉宗の時代に大飢饉や流行した疫病による死者供養と災厄(さいやく)除去を祈願して始まったものです。また、昨年平成から令和に改元されましたが、過去の歴史を調べると、元号の改元で最も多い理由は、新天皇即位ではなく、疫病・自然災害など「災異改元」で100回を超えることがわかりました。

このようにいま私たちが楽しみのための観光の対象になっている観光資源の起源や成り立ちを調べると、実ははるか昔から人類がウィルスという見えない敵と戦って乗り越えてきたことがわかります。そして観光という観点から、当時の社会を読み解くことができます。では、新型コロナに直面する現代社会は、観光という視点からどのように考えられるでしょうか。

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観光する視点と観光を学ぶ視点

さて、観光学とは何かを一言でいえば「観光とは何かを探究する学問」です。観光を学ぶとはどういうことでしょうか。

観光をする人と観光を学ぶ人は違います。具体的に示しましょう。もしあなたがハワイに行ったときに、「南国の楽園」は素敵だなとか、有名なダイヤモンドヘッドに登ってみようとか、代表的なハワイ文化のフラを鑑賞しようという気持ちになることが多いと思います。しかし、観光を学ぶ人は少し違います。例えば、「なぜ人々は南国の楽園に惹かれるのだろう」「南国の楽園とはどのようにして生まれたのだろう」とか、「ダイヤモンドヘッドはどのようにして名付けられたのだろう」、「フラやウクレレはどのようにして生まれ、変化してきたのだろう」などと疑問を持つことが、観光を学ぶ視点です。その疑問をもとに客観的な視点で調べていくと、今まで知っていたものとは異なるハワイ、多面的なハワイが見えてきます。

これと同じように、「不要不急」の対象となっている観光・旅行を、観光する視点と観光を学ぶ視点ではどう違うのでしょうか。観光をする人の場合、「外出自粛なので、出かけないようにしよう。」や、「せめて旅行気分に浸るため映画・映像・写真を見よう」、そして「観光産業は、大打撃で大変そう」と考えているでしょう。一方で、観光を学ぶ人は、客観的に現象を問い直します。例を挙げましょう。

1つは「外出自粛と言われているのに、出かけたいと思うのはなぜだろう?」という疑問です。世界中を自由に旅することができなくなり、外出規制が課せられる中でも、人びとの旅をしたい、出かけたいという欲求が失われたとは思えません。少なくとも私は今まで以上に旅をしたいという欲求がより高まっているとさえ思います。旅行をしたいという観光動機の背景や観光の役割はこれまでも多くの研究がなされてきましたが、人びとの心に目を向けると、コロナウィルス収束後も旅行の欲求は決して失われることはないことを示しています

観光を学ぶ視点の2つ目は、「バーチャル旅行とリアルな旅行との違いは、何だろう?」です。情報通信などのデジタル技術を使って、この事態を克服しようとする挑戦が始まっています。ある旅行会社では、ニューヨークのトッププダンサーの公演やネイティブによる英会話教室を日本人向けにバーチャルツアーとして提供する現象が現れています。デジタルな情報技術はこれまで特定の人々が関わる付属的なものでしたが、コロナのおかげで多くの人々が関わる一般化された技術となり、人類は新たな観光の手段やあり方を手にしたとも言えます。これは、世界中に甚大な被害を与えた100年前のスペイン風邪の時代にはなかったことです。一方で、オンラインではどうしても解決できないことがあることもわかってきています。おそらくコロナ収束後には「オンラインでできないこと」がリアルな旅行に求められることになるでしょう。風景を見せるだけの旅や予定調和の会議出張はオンラインに代替される一方で、五感を使った体験、新たな交流や想定外の出会いの創出は、バーチャルとリアルが補完し合いながら融合していくのではないでしょうか。

観光を学ぶ視点の3つ目の例は、「観光産業はどうなっていくのか、どのように変化していくのだろう?」です。近年のSARSや同時多発テロなどの危機からの立ち上がりの局面でいえば、最初に動き出すのが富裕層やFIT(個人旅行者)のセグメントで最後に団体客というのはいえますが、今回は移動制限が地球規模ですので見通すのが非常に難しいのが実情です。収束した地域同士や国同士から動き出すという考え方のほうがが妥当かもしれません。もちろん検疫体制の見直しやソーシャルディスタンスの意識も高まると思います。しかし、最も大切なことは危機は進化の節目であるということです。観光を歴史的な視点でみると、時代や技術とともに変化してきたことがわかります。その文脈では、新しい領域や可能性が観光産業でもさらに広がっていくのではないでしょうか。単に遠くに行くことや有名な観光地を訪れることだけが観光・旅行ではありません。人びとが知らない世界に移動して交流をするということだと定義すれば、地球の裏側の人びととオンラインで話をする疑似体験も旅行だと言えるし、逆に身近な地域や地元で知らないところを歩いて意外な発見を得ることも旅と言えるでしょう。


不要不急の観光を学ぶ意義

実は、パンデミックに際して「不要不急」の対象となっているのは、観光や旅行だけではありません。映画、コンサート、音楽ライブ、毎年恒例の祭り、歌舞伎などの伝統芸能、寄席やお笑い、スポーツ観戦、オリンピック・パラリンピックまでも、さらには宴席や晩餐なども「不要不急」と対象となっています。このパンデミックの局面においては致し方ありませんが、しかし本当に「不要」かと言われれば、そうではないと思います。また、代替手段としてのオンラインだけで本当にすべて事足りるかと言われれば、やはりオンラインではできないことがまだあるというのが妥当でしょう。

私はパンデミックに直面した現代社会において、観光を学ぶ意義は3つあると考えます。

1つは、「不要不急」な行いが、実は新たな文化を生み出し、人びとに勇気や希望をもたらし、人生や社会を心豊かなものにすることに寄与してきたということです。はるか昔に疫病の厄払いを目的に始まったものが、現代の私たちにとって観光対象や文化となって形を変えながらも存在し続けているように、人類の歴史において観光や文化は、実は不可欠なものであることがわかります。

2つ目は、観光学とはそうした一見「不要不急」と思われるけれども、人間が人間らしく生きる営みである文化や娯楽を研究対象とする貴重な科学であるということです。

3つ目は、観光学は単に観光産業について学ぶということだけではないということです。確かにいかにカネを生み出すかという観点から、近年観光がフォーカスされてきたのは事実です。しかし、それは観光を一面的にみているに過ぎません。人びとの移動や交流という広い観点から、それを取り巻く社会、文化、歴史を学ぶことこそ観光学です。つまり、マス・ツーリズム、グローバリスムと大移動・大交流、インバウンド、オーバーツーリズムなど極めて現代的な現象から、複雑な社会や文化を紐解いていこうとする学問でもあるのです。従って、観光を学ぶことは、人間・社会・文化を知ることにつながります。

繰り返しますが、観光学は、観光産業に就職するためだけにあるのではありません。地球規模の人びとの移動や交流という極めて現代的な現象を通じて、人間、社会や世界を学ぶというとてもエキサイティングな学問です。ぜひ「観光とは何か」について一緒に探究しましょう。

(以上)

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