文章と読書の劣等性

書きたい題材が思いつかない、ということがよくある。とりあえず数行文字を打ってみる。何となく頭の中の四次元的なイメージを二次元の文字に落としていく。その過程で、何か自分が大事にしているイメージが削ぎ落とされる感覚がする。やはり文章は表現物として不完全すぎる。音楽のような壮大さもなければ、映像のような情報量と余白も、絵画のような刹那性もない。

「文章を書く」「読書」はどんな行為か

言葉にする、と言う点では「会話」と何ら変わりはないが、体感として少し違う。(会話だけでなく、音声、動画含む)情報量がそもそも違う。「会話」の場合、言葉だけでなく声の抑揚、仕草、表情、話の間などでその言葉の裏にあるイメージ(いわゆる、非言語情報)を含ませることができる。
文章の場合は脳内イメージの上澄み、多くの人に理解できる「言葉」という体をなしているものしか伝わらない、という言いようのないもどかしさを感じる。

文章、読書が苦手

よく、読書が苦手という人がいる。とくに対人コミュニケーションが得意な人に多いイメージだ。
先に述べたように「会話」は「文章」に対する優位性が強い。
その理由として、会話は文章に比べて、自分なりの解釈を膨らませる余地が大いにあることがあげられるだろう。
例えば、「話す」と「文章」に共通する言葉に対する情報量を統一するとわかりやすいかもしれない。全く見たことも聞いたこともない、外国語の文章を読む場合と、その国の人と会話をする場合を想像してほしい。どちらが発信者(筆者あるいは話者)の考えをより正しく受け取れるだろうか。答えは当然「話す」場合だろう。
なぜかというと、もちろん非言語による情報量の違いもあるが、その内容が生の情報であり記録されないから受け手側も理解するよう努めるという、双方向コミュニケーションが成り立つからという側面もある。
文章の場合、今読まなくても書かれている情報はそこに在り続ける。しかし会話の場合、発信者の放った言葉は空気の振動として私たちの鼓膜を揺らし、そして、消えてしまうのである。
人間は、不確実性のより高いものに注意を向ける性質があるので、文章に比べて、受け手の言葉に対する集中力が違う。
「会話」は情報量のの多さに起因する解釈の多様さという点、また、人が注意を向けてしまう仕組みになっているという点で「文章」よりも効率の良いインプットであると言えるかもしれない。
だからこそ、会話が得意なコミュニケーション上手は、文章よりも会話を好むのだ。

文章、読書が好き

以上のことを踏まえても、私は文章が好きである。
内向性が高く、会話に苦手意識があることも理由の一つだ。情報量が多く、解釈に多様性がある「会話」ももちろん嫌いではないが、文章には不完全すぎ、情報量が少なすぎるからこその限りない自由な解釈と表現があると思う。自由すぎることが逆に自由を奪う、というのはよく知られた話だ。文章は一元的にしか解釈できないようでいて、余白が多すぎる分その分無限の解釈の可能性があるように思える。
自由すぎるからこそ、ただ文字通り情報を受け取り、自分の頭で考えられない人が出来上がってしまうのも理解できる。それでは読書する習慣がない人が突然読んでも他人の話を一方的に聞かされているような気持ちになり、読むのをやめてしまうのも当たり前だ。
文章を書くことにも読むことにも自分の頭で考えられなくなるという、自由の代償、そしてそれを超えた無限の解釈と自己表現の可能性による歓喜があるのでは、と私は思う。


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