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「教える」を教えるは、厄介で魅力的

仕事をして、遊んで、休んで、誰かと一緒にいて、つまり、生きていると、いろいろなことがあるものだ。その色々なことに正対することが人生の醍醐味だと思う。
今日もまた一つ、素敵な文章の出会えたのでここに記しておこう。前田英樹の「独学する心」『何のために「学ぶ」のか』だ。

「学問でもほんとうは同じである。考えられないことがあるということは、学問が可能になるための大切な条件である。我が身を離れた空想はいくらでもできる。が、それは空想でしかない。学問はしっかりとした対象を持たなくてはならない。その対象の性質にうまく、深く入り込まなくてはならない。身ひとつ、心ひとつで入り込む。その中でできることがどんなにわずかなことか、ほんとうの学問で苦労した人は、皆知っている。社会に出て担う仕事も、多くはそうなのではないだろうか。ただ、科学技術の発達に目を奪われて、たくさんの人がこのごくあたりまえのことを忘れているように思う。」
「目標とする人が学問に身ひとつで取り組み考えるときの型を見て、それを自分でもやってみるといい。いやでも、それは自分だけのものになる。体と同じで、人の心の性質はみな違うから。またそんなふうに身につけた型は、古くならない。使うたびに、深くなり、いきいきとし、自分を新しくしていく。」

まったく、ため息がでる。もちろん感嘆のため息だ。「考えられないことがある」「学問はしっかりとした対象を持たなくてはならない」「学問に身ひとつで取り組み考えるときの型」。一つ一つが頭と心に突き刺さる。
私は職業柄、受験生を相手に国語や小論文を教えている。その現場で痛感する事柄ばかりだ。実際、何か具体的な手法や知識を伝えたことで、というよりは、自分の姿勢や人間性や価値観によって心を打たれてくれたことで、講師としての自分を信頼してくれる、という場合の方が多い。それが、前掲書の「型」というものなのだろう。ただ、特定の「型」をいいな、と全員が思うわけではなく、受け止める側もいろいろな価値観や思考を持っているので、最終的には「波長が合う」という部分もあるのだろう。同じ波長を持つ人の「型」だから、心惹かれるし、だから、「自分でもやってみる」という段階に進めるのだろう。そして、この波長は、「型」の色あいや風味みたいなものだから、こちらとしては、「考えられないことがある」特定の「対象」に正対して「身ひとつで取り組み考える」ことを真摯に続けることで、自分なりの「型」とその「波長」を滋養し、それらが多くの生徒の心に刺さることを祈るばかりだ。

最近は、仕事の内容も多少変化してきた。受験生を教えるだけでなく、受験生を教える講師を教える、という段階に足を突っ込んでいる。自分が所属するチームが「持続可能」であるためには、若手の育成、もしくは、若手の育成のシステムづくり、は必要不可欠な過程だと考えている。そしてこの「教えることを教える」が、非常に厄介で、かつ、魅力的なのだ。私自身、十数年の講師キャリアがあるので、自分なりの授業のやり方を持っている。ただ、これを単純に実践させることに何の意味もない。それは、私の「型」「波長」に基づいて組みたてられたものだから。展開、スピード、切り取る部分、さしはさむ小話…。何一つ、普遍的な正解などない。山のように選択肢がある中で、自分の「型」に基づいて、適切だと自分が考えるものを選択肢していく。よって、「型」「波長」が違えば、その選択肢自体が変わるし、選択肢から選び出すものを変わる。当然だ。さらに、授業内容や展開における選択肢という観点でいえば、選択肢をつくるもの、制限するもの、選ぶ基準は、自分の中だけにあるわけでもない。授業なのだから、当然相手がいる。相手の学年、性格、理解度によって選択肢が変化する。そして、その授業の状況もある。教室の大きさ、生徒の座る位置、時間、曜日、部活の後か、模試の後か。これらも選択肢に影響を与える。大雑把にいえば、「自分
」「相手」「状況」というそれぞれの因子によって、一つの授業がどのようなものになるかが決まっていく。これを理解してもらい、「相手」「状況」をふまえながら「自分」の「型」「波長」を押し出してもらう。これが、「教えることを教える」の内容だと考えている。したがって、具体例としての自分の体験や経験は提示しつつ、いかに彼らなりの「型」「波長」を生み出し、押し出してもらうか。そこに焦点を置いて、彼らと向き合う日々だ。

もちろん、彼らの授業がいつもうまくいくわけではない。展開や生徒との関りで冷や冷やさせられることもある。それはひとえにこちらの力不足なのだが、本人たちは「我がごと」として向き合ってくれる。これこそが彼らの素晴らしい「型」の一つだ。私自身もつねに見習う必要がある。さらに、こちらの指導に対して、自分なりに納得して実践しようとしてくれる。これも非常に大切な「型」の一つだ。見習わなければならない。同じチームの一員だからこそ共有したい考え方があり、同じ塾で同じ教科を教えるが故に担保されなければならないサービスの質もある。これらは、若手育成の責任者として、当然、彼らに理解してもらわなければならない部分ではある。しかし、私が彼らに何かを「教える」とすれば、この部分くらいのものだろう。彼らには彼らの「型」「波長」があり、それを磨いて、同じ「型」「波長」の生徒たちの心を打ってくれればいいのだ。様々な「型」「波長」を持った人がいた方が、多様性の富んだ強いチームになれる。メンバーが、それぞれの「型」「波長」を持ち、磨きをかけられるために私ができることは極めて少ない。自分の「型」「波長」に磨きをかける。これしかないだろう。

「教えることを教える」について言語化しておこう、という趣旨で言葉を並べてみた。いつもそうだが、文章をつづり始めたときは、どう終わるかなど考えていないし、予想もできない。言葉を並べてみて、自分の頭の中が具体的になっていき、最終的な何らかの着地点が用意される。他の人の文章の作り方がどのようなものか知らないが、これが自分のスタイルなのだから、それでいいと思う。それにやり始めから分かり切ったことをただ羅列するなら文章をつづる意味も半減してしまいそうなので、その点はありがたいとも思っている。それにこれが意識下ではないのならば、自分なりの「型」の存在に多少なりとも触れられる機会かもしれないとも思う。このような成り行き任せの文章でたどり着いた結論をまとめておこう。

「教えることを教える」ためには、何かを「教えよう」とすることは最小限にとどめ、自分の学びの「型」を追求するべきだ。これだろう。折角だから、前掲書に沿わせておこう。「目標とする人」は、年齢が上とか、立場が上とか、そういった意味のない属性で決まるものではない。その行為や考えが自分の琴線に触れるのであれば、その一部分が「目標とする人」となりうる。それを、学歴や年齢や職歴という無意味なもので判断しようとするからしょうもない権威主義が頭をもたげる。自分にとっての「目標とする人」を、自分以外の判断に委ねて何の意味があるものか。この世の中、自分の思い通りにならないことは非常に多いが、「目標とする人」を思い通りにするくらいの自由は、我々には残されているはずだ。私は、先輩からも、後輩からも、生徒からも、たくさん学ばせてもらっている。「型」をひそかに盗ませてもらっている。すべての人、とは言えないが、多くの人には、何かしら学べるポイントはある。日々、感謝の毎日だ。偉そうなことは言いたくない。それでも、誰か「目標とする人」から常に何かを学ぼうとする姿勢。これだけは持っていたい。そして、尊敬する仲間たちにはこれだけは持っていてほしい。ただそれは口で言って教えるものではない。実践あるのみだ。

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