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ミニマリズムをかんがえる映画「365日のシンプルライフ」

実験のルールは4つ。

①持ちモノをすべて倉庫に
②持ってくるのは1日1個
③1年間続ける
④1年間何も買わない

365日のシンプルライフという映画がある。

内容としては、

モノに溢れた現代で、主人公である26歳のフィンランドの青年は、「部屋はモノに溢れているが、こころはからっぽである」ことに気付く。
そして、しあわせをみつけるため、4つのルールに従う実験をおこない、その実際の様子を記録したドキュメンタリー映画である。

この映画をみた感想を書いていこうとおもう。

感想の結論としては、

じぶんのこころの容量は限られていて、それをなにに使うのか、それはじぶんで考え、決めていかなければいけない

というものになります。

※ここからさきは、ネタバレを含みます。
映画の流れを紹介しながら、ところどころに感想を交えていきます。


映画は、全裸の主人公が、何もない部屋にいるところからはじまります。

1日目「コート」

主人公は裸のまま、倉庫に向かうべく、
雪の積もる夜の街をはだしで駆けぬけます。
とちゅう、ゴミ箱からしんぶんしを拝借し、局部を隠しながら倉庫にたどりつき、最初のモノとしてコートを選択します。全裸のうえからそれを羽織り、部屋にもどります。

食料を弟に調達してもらいますが、
冷蔵庫がないため、すべり式の窓をうまく使って保管していきます。

また週明けにはしごとがあり、(時計もめざましもないため)朝になったら起こしにきてもらうよう弟に頼みます。

弟はこの状態でしごとに行くと言う兄に困惑の表情を向けます。

2日目&3日目「くつとブランケット」

主人公は思いつきます。
2日目と3日目の日付のかわるころに倉庫に行けば、2日分のモノを持ち帰れると。
そして、タイミングを見計らって倉庫に行きます。
そこで、今度はくつとブランケットを選択します。

このあたりの、序盤のモノの選択については、
よくある「無人島にひとつだけもっていくとしたら?」という質問のように、
大学時代に深夜のファミレスで、だらだらと語りたい内容です(笑)

じぶんだったら、1日目はくつと迷いますが、ダウンコートを選択します。
2日目にくつ、3日目にかけ布団を選ぶかなぁと思います。
すこしズルいけど、シャワーの後のあたまとか身体を、かけ布団のシーツを外して拭くんじゃないかと思います。

4日目〜6日目「ジーンズ、シャツ、ネックウォーマー」

7日目「マットレス」

モノがひとつ増えるたびに、強い幸福感を感じながら日々をすごしていきます。

人間の叡智の積み重ねである、「便利」という蜜をどっぷり味わっていきます。

〜18日目「くつ下、ズボン、帽子、Tシャツ、歯ブラシ、タオル、カバン、自転車等」

ここで主人公の心境に変化がおとずれます。

「生活にはモノは7個でじゅうぶん。
くつ下もイスもいらない。」

というモノにたいする反抗期がやってきます。

10日間倉庫には行かず、その後にまとめてモノをもってかえります。

次から次へと襲ってくる便利という蜜に、こころが追いつかなくなってきた状態なのだと思います。
時間をかけて消化していきます。

〜41日目「バリカン、冷蔵庫、ナベ、お皿、トイレブラシ、パソコン等」
この頃は、家具などに必要性を感じず、なにがひつようか模索をつづけます。
もちだせるモノも10個ぐらいストックがあるじょうたいです。

携帯電話をもっていないため、
友人たちは主人公と連絡をとるために、書き置きを部屋の扉にはさんだりします。

その後、主人公がPCを持ち帰った後に、友人は電子メールで「携帯電話をもて」と伝えますが、主人公は携帯電話のない生活に自由を感じて、持とうとしません。

通信機器というものは、自己完結する他のモノとはちがい、「相手」が生じます。
それゆえに、どうしてもしがらみがつきまといます。
この携帯電話のない生活にあこがれる気持ちをもつひとは少なくないとおもいます。

113日「携帯電話」

携帯電話がなくても生活できるということをじぶんに証明した主人公は、実験開始からおおよそ4ヶ月後に携帯電話をもちかえります。

153日目「自動車」

半年間ルールに従って生活してきたじぶんへのご褒美として、実家から車を持ちかえります。

この辺りから、主人公は虚無感を強く感じます。

「(いままでは)女性に接するときは、役にたつ男を演じてきた。
“あらゆるモノを持ってて、何でもできるぞ”と。
1日1個持って来るというアイデア自体が、今は不要に思える。
最初の50〜60個以降、何も欲しくない。
この先どうすればいい?」

そこで主人公は、だいすきなおばあちゃんに相談をします。

おばあちゃんはこう言います。
「持っているモノの多さで幸せは計れない。
人生はモノでできていない。別の何かが必要だよ。」と。

〜201日目「ソファ、ベッド、洗濯機、等」

そんな風に思っていた主人公ですが、次第にモノが恋しくなってきます。
ハンガーやソファ、食器スポンジなどが夢に出てくるようになります。

ひと通りモノを持ち帰った主人公は、満足しますが、それ故に「本当に必要なものがこれ以上あるのか?」と困惑します。

また他方、映画館で出会った女の子と次の土曜日にサイクリングに行く約束をします。

209日目「電動ドリル」

女の子から「自転車のロックが外れない」と連絡があり、主人公はロックを外すべく友人と共に試行錯誤します。

用意したノコギリでも壊せず、方法をもさくし倉庫を漁ってみつけた電動ドリルでも壊せず、
最終的には電動ノコギリを借り、5時間の格闘の末、ついに鍵を壊すことにせいこうします。

女の子にそのことを電話で伝え、「ありがとう、たいへんだった?」という女の子に、主人公は「そうでもないよ」と笑顔でこたえます。


210日目(初デートまであと3日)

主人公はまさかのここで自転車を盗まれてしまいます。

買わずにすむ方法をかんがえます。

211日目「自転車」(初デートまであと2日)

主人公は、車をとばし実家から自転車をもちだします。

212日目(初デートまであと1日)

主人公は洗濯機をまわしますが、タイミングの悪いことに水漏れのトラブルに遭遇します。

213日目「デート用の洋服」(初デートの日)

主人公は倉庫にいき、デートに着るための服を時間をかけて選びます。丁寧にアイロンをあてて、きめこんだ主人公は、ついにサイクリングデートにこぎつけます。
デートの様子は、多くは映りません。

214日目

主人公は自宅でひとり、友人からの様子伺いの電話に出ます。
「いま一緒にいないよ、仕事に行く前だ」とこたえ電話をきった後、
主人公はすこし口元をゆるませながら昨日のデートのことを思い出します。

251日目

父親になる友人の引っ越しを手伝う車中で、主人公は運転をしながら、「先日デートした女の子の家がこの近くにある」「2晩くらい泊まった」と唐突に友人に語りかけます。

産まれてくる赤ん坊に必要なモノ57個のリストをながめて、主人公は一言「いいスタートだ」とつぶやきます。

友人と食事をしながら主人公は、
友人の引っ越しパーティに彼女を誘いたいけれど、そうすると正式な恋人扱いなることに対して、少し怖いと言います。

きっとそれは、そうすることでいままで負っていなかった「責任」を負うことになる素直な気持ちなのだと思います。

302日目

だいすきなおばあちゃんが森で転んで入院したため、お見舞いにいきます。

他方で、主人公は彼女と素敵な時間を共有していきます。
そして、彼女に対する確かな恋心と勇気のない自分を見つけます。

そんな中、彼女の家の冷蔵庫が壊れます。

どうにか修理しようと手をつくす主人公ですが、冷蔵庫は修理できない状態でした。

彼女は当分の間はじぶんでは冷蔵庫を買えない状態であるそうで、恋心を抱く主人公は見てみぬふりはできないと、頭を抱えます。

1年間はモノを買わないルールをさだめているため、それを破るか、それともやはり見てみぬふりをするのか。

どうにか修理ができないか、その後も方法を探すが、ついにはあきらめて冷蔵庫を廃棄することにしました。

冷蔵庫を廃棄したかえりみち、買ってあげたい気持ちをグッと抑える主人公。

(ただその後、主人公はどこからか冷蔵庫を入手して持ち込みます。この辺りはルールを破ったのか、どうしたのか読み取れませんでした。)

他方、だいすきなおばあちゃんが老人ホームに入ることになり、家をひきはらうことになったと母よりメールが入ります。

ほしいものをあげると。

おとうとと共におばあちゃんの家を見て回る主人公ですが、「じぶんは何ももらえない」と涙します。
ここに来るのは最後だろうと、ふたりはそれぞれの思い出に耽けます。
主人公はキャンディーの入ったふた付きの入れ物をひとつもらって帰ります。

だいすきなおばあちゃんのお見舞いにいき、「まだまだ長生きするのも良い、主人公の子供が見たい」というおばあちゃんに、彼女の話をします。

おばあちゃんは、うまく行くことを願うと共に「家庭はモノじゃない。別のものから生まれる。モノはただの小道具よ。」とこたえます。

365日目

この実験を終えて、主人公は、生活に必要なものは100個ぐらいだと理解します。
その次の100個は生活を楽しむためのもの。
また、所有とは責任であり、モノは重荷になる、と。

そして、どんな責任を背負うか、僕は自分で決めると言います。

そして、祖母の言葉を思い出します。
「人生はモノでできていない」

その後、主人公は彼女と共に倉庫に訪れます。
まだ大量に残っているモノを二人で物色し、そしてそれはそのままにして倉庫の扉をしめます。


モノを所有するということは、
そのべんりさを享受する反面、こころの容量を消費します。
そして、こころの容量は、限られています。

そのため、モノを所有するということは、
一見すると豊かになっているようで、実はこころが消費され、その分貧しくなっている部分があるような気がします。

この映画は、「モノをなくしていく」のではなく、「何が大切かみなおす」というところにポイントが置かれています。

どうしても「目に見える」モノに対して、ひとは、価値を見出しがちですが、モノはあくまでもツールに過ぎません。
そして、贅沢な現代に生きる我々は、生まれたときからそのツールに囲まれています。
ツールにふりまわされてしまい、目的を見失ってしまうという現象が起きているのだと思います。

じぶんのこころをなにに使うかを決めるのはじぶんです。

その判断をおこなうために、知らず知らずのうちにモノに支配されている状況をみなおす機会も持つこと。
それが大切なのではないかと思います。

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