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モラル共有サークル構想

時折、世間で問題視される「モラル」。それは、倫理・道徳・習俗。また、生き方に対する真剣な反省。とされている。また、遵法精神を含む意図で用いられる場合もある。

人が日常を平穏無事に過ごせる要因の1つには、必ず「モラル」の尊重が上げられる。社会で起こる犯罪の中にも、「モラルの欠如」によると言われることも少なくない。しかし、「モラル」の具体的な信条や程度には個人差がある。他人に押し付けて良いものではなく、極論過ぎても好ましくない。

人々が他者を思いやり、日常生活の平和を維持するためにバランスの良い「モラル」とは。また、その認識の共有の必要性とは。そういった点も含め本記事では、”人々のモラルと共有方法”について私見を述べていきたい。

モラルの重要性の認識

「人を傷つけてはいけない」「人に迷惑をかけてはいけない」。これらは誰しも人として成長する中で、親からの教育に加え自ずと身についていくものである。しかし、世の中には”それ”がいかに大切であるかを十分に認識できないまま大人になってしまう者が少なからず存在する。

私利私欲のための犯罪や、感情的に即発的に起こる犯罪の多くも、感情とモラルの天秤が逆転した際に起こるものである。自己の欲求に甘い人や、感情を抑えることができない人、という見方もできるが、そういった人々にとっては欲求や感情よりも”モラルが軽い”と言えるだろう。
そして昨今話題になっているインターネットの中での誹謗中傷などについても、”モラルの軽さ”は問題視されている。

「バカ」「アホ」「死ね」などの単語は、実社会での親兄弟や友人知人との会話の中では特に問題視されることなく使われている場合も多いが、それ以外の人に対して使うことはまず無いだろう。だが、インターネットの中ではその気配りが薄らいでしまう。それは、”相手の顔が見えない”からだ。

”相手の顔が見えない”。それは、表情を読み取れない、様子がわからない、ということであり、わからないまま誹謗中傷や罵詈雑言を投げかけるということは、モラルの有無の前に”想像力が働いていない”のである。

「~する前に想像してみよう」人間社会において大切な思考プロセスであるが、インターネットの中では忘れられがちである。相手が誰かわからない、相手の顔が見えない、自分が誰かを知られない、そんな状況が本来あるべき思考を飛ばしてしまうのかもしれない。この1つの思考を踏むだけで、人を傷つけずに済む。インターネットの中においては、この想像力こそが忘れてはいけない大切なモラルの1つなのだ。

仏教の言葉に「因果応報」というものがある。これは、人の行いの善悪に応じてその報いも善悪にわかれる。という意味である。また日本に諺には、「情けは人のためならず」というものがある。これは、他人に情けをかけることはその人のためにならない、と解釈されている人もいるようだが間違いである。正しくは、人に対して情けをかけておくと巡り巡って自分に良い報いが返ってくる。という意味である。つまり、自分が優しくされたいなら、まず人に優しくしなさい。という意味だ。

そういった想像力の上に成り立つモラルを皆が持つことができたなら、それだけで「モラルの欠如」による被害者は格段に減るはずだ。

認識不足と集団心理

記憶力や思考力に個人差があるように、モラルにも個人差が存在する。
「私はモラルがある人間です」「自分は道徳を重んじています」という人を見て、疑問を持った経験はないだろうか。自らこのような発言をするということは、「モラルが低い」「道徳心がない」などの指摘を少なからず受けていると考えられる。それを否定するために、そのような発言を必要としてしまうわけだが、そういった人物ほど指摘の本質に気が付かないものである。

問題は、”有る”か”無い”かではなく、”足りている”か”足りていない”かなのだが、人は自身の認識が他者や一般的なものと比べてどうか、まず考えることはしない。一般的な日常生活において、そこまで問われることは無いのだ。しかし、自分自身で何かをしようとしたとき、主義主張を述べようとしたときなどにその乖離は可視化される。

例えば何かの企画を実行しようとしたとき、「他人に迷惑がかかること」や「誰かに犠牲を強いること」を自然と避けることが多いだろう。これは特に意識せずとも「モラルが足りている」ため、そういった方法を取らない選択ができているからだ。だが、「モラルが足りていない」者にはこの選択はできない。人が避ける方法を奇抜と称し、人が取らない方法を取ることが優秀であると豪語する。そしてその結果、他人に迷惑をかけ、犠牲者を生み出してしまうのだ。

「モラルが足りていない」とは、先にも述べたように”無い”わけではない。記憶力や思考力には個人差があると言ったが、それはいわゆる許容量の違いである。わかりやすく例えると、箇条書きで100項目の「モラル」と言われるものがあったとして、100の全てを理解して身についている者と、50しか理解できなかった者とでは、思考の末の選択がおのずと違ってしまう。
それが先の”企画の例”だ。

「モラル」と言われるものの全てを網羅して理解することは、さすがに困難である。せめて一般的に「常識」として捉えられる範囲くらいは、皆で共有しておきたいものだ。しかし、足りていない者に「あなたは足りていない」と認識させるのは至難の業である。それは主観の違いや感情的問題としても片付けることができるからだ。「有る」という自覚のある者に、「足りていない」と認識させることは本当に難しい。
試験などの点数のように、合格点や赤点などのわかりやすいラインがあるわけではない。場合によっては、何が正しいと言い切れるものでもない。そのためにも、他者の意見になるべく耳を傾ける必要があるのだが、そういった者たちほど、得てして人の意見を聞こうとはしない。

また、そのような者たちは、人と違うことを”優秀である”と言い張る傾向がしばしば見受けられる。自分の方が優れているのだから、自分より劣る者の意見を聞く必要が無い。となるわけだ。しかし考えてみてほしい。本当に優秀なのであれば、「他人に迷惑をかけず」「誰も犠牲にせず」に事を運ぼうとするはずである。少し先を見通したならば、犠牲を強いた反動がいつか必ず己の足を引っ張ってしまうことは容易に想像できるからだ。例えそういった決断が必要であったとしても、それを最小限に抑える配慮がなされる。
そんなことにすら気付かない者が優秀であるはずもないが、類は友を呼んでしまい、その「足りない者」を賞賛、あるいは崇拝する者たちが現れる。
そして、「自分たちが正しい」という集団心理を構成してしまうのだ。

インターネットサークル

一度出来上がってしまった集団心理に対しては、もはや個人の力では手が出せない。できるならば集団化してしまう前に、「そうではない」と気付いてほしいものであるが、先にも述べたようにそれは困難である。

事前策として、「このくらいのことはモラルとして認識しておいてほしい」ということを皆で共有する”呼びかけ”や”注意喚起”ができるサークルのようなものがあったならばどうだろう。押し付けがましくあってはならず、度が過ぎてはならない。と考えるならば、インターネットの中のSNSだけでの繋がりにとどめ、組織として実体化せず、「認識を共有することのみ」が目的の形を成さない集団があれば、モラルの薄れがちなインターネットの中の道しるべと成り得ないだろうか。

例えばツイッターの相互フォローのように、誰でも気軽に繋がれる気軽さで参加できれば良いと考える。指揮や強制力などは無くて良い。最低限持っておきたい、また、他者にも持っていてほしいと想う認識を共有するだけだ。
もし、どこかで「それはダメだ」と思う出来事があったとき、それを止める抑止力と成り得れば、それだけでいいのだ。

集団化してしまうと、思想を掲げた宗教になりかねない。実社会で実体化してしまうと、自警団のようになりかねない。だからこそ、インターネットの中だけの軽い繋がりであるべきだと私は考える。

モラルの低下や欠如から起こる犯罪や悲劇は、今も後を絶たない。
実社会では、人との繋がりが希薄になりつつあると言われて久しいが、インターネットの普及から技術の進歩も相まって、それは今も進んでいるのではないだろうか。人を守るのは法ではなく、人々の良心である。目に見えるところにいる相手だけでなく、見えない相手にも気を配ることができれば、人は守られ、また、自分自身も守られるはずなのだ。

ひとにやさしく、いのちだいじに

「モラルを持つ」というのは、何も難しいことではない。自分以外の人の気持ちを少し推し量れば良いだけのことだ。だが、昨今ではそれができない人々が増えてきているように私は感じている。

先日、新型ウィルス感染対策である緊急事態宣言が全国的に解除されたが、世界でも日本は奇跡的に感染者が少ない数字を保っているとされている。
これは、人々がお互いを気遣い、敬い、配慮することができていると言って良いだろう。その気遣いを新型ウィルス関連だけでなく常日頃からその何分の1だけでも持つことができたなら、今より少し、世の中の平和度が増すのかもしれない。

「人を思いやる」気持ちは、想像力が不可欠である。その想像が足りているかどうか、その判断は自分自身では難しい場合もあるだろう。また、他人を見て「足りていない」と感じることもあるだろう。そんなとき、どうすれば気付かせてあげられるのか、今一度、考えてみる必要がありそうだ。

「思いやり」とは、自分以外の人を大切にすることである。身近な人や目に映らない人々に対してもその重要性は変わらない。これを「綺麗事」と呼び嫌う人もいるだろう。法さえ犯さなければ良いという人もいる。だが、法を守ることがそもそも「モラルの中の1つ」に過ぎないのだ。世の中の平和はその「綺麗事」の共有で成り立っている。インターネットの中でも、政治の政策であっても、その先に人がいることを忘れてはならない。

より多くの人々の間で、高いモラルが共有されることを私は願っている。


モラル共有サークル構想(終)