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世田谷美術館滞在を振り返って 藤原佳奈

滞在の問いに至るまで

 YouTubeの動画を二倍速で観るとき、申し訳なく思うのはなぜだろう。倍速視聴をすると、情報は短時間で手に入るけれど、語っている他者を単なる“情報”と捉えることになり、相手の存在が矮小化し、そこに“声を聴く”態度が失われてしまうことが気になるからじゃないか。   
 SNSのおかげでこれまで社会の中で見えないものとされてきた意見や訴えが、ずいぶん可視化されるようになった。それをはっきり意識するようになったのは、#MeTooの動きがあった2017年頃から。ジェンダーの話だけでなく、障害にまつわる話や、被災地の状況など、大きなメディアに取り上げられる前の小さな叫び声は遠く離れていてもすぐに届き、ざわめきのように拡散されていく。様々な声に出会う機会が増えて良かったと思う反面、こんなに多くの声に触れているのに、声を“聴く”場は失われていると感じることが多かった。SNS上で飛び交う言葉が、不毛に加熱していく様子を見るたびに、その危機感は増していった。
 他者の声を “聴く”ためには、他者を受け入れる態度と、声を受け取っていく時間が必要だと思う。それらは、インスタントに情報を摂取する環境では生まれづらい。演劇のように人が集う上演芸術の場に期待するのは、誰かの声、自分の声、世界の声を聴く時間だと考えているからだ。最近は、そうした“聴き合う場”としての上演をより深く見つめたいと思い、「上演」がもつはたらきについて問い直すような実践を重ねていた。
 世田谷美術館の滞在期間は二週間。その間にどういった過ごし方をしてもよく、必ずしも何かを創って発表する必要はない。せっかくの機会なので、今見つめている「上演」について、違う角度から捉え直す時間にしようと、「世田谷美術館を戯曲だと捉え、それをいま、上演するとしたら?」という問いを設定し、自ら立てたこの問いに身を任せる形で時間を過ごしてみることにした。それは、まず、「世田谷美術館の声」を聴くことから始めたい、という意味でもあった。
 ここでは振り返りのコメントを書く、ということだったが、今回設定した問いと実践した応答について、「世田谷美術館のヒストリーを調べて、それを物語として戯曲にして上演するということ?」と、質問をいただいたり、どういう経緯で問いにいたったのかと聞かれることが多かったので、まず、今回の問いと実践について補足をしておきたい(タイトルをもう少し工夫すればよかったと反省している)。

戯曲と美術館について

 「戯曲」というのは演劇の台本のことで、上演を想定して執筆され、それ自体文学作品として認められているものを指す。文学作品として認められる/認められないの線引きはどこやねん、という話は込み入った話になるので一旦脇に置くとして、戯曲は「解かれることを期待された土台であり、それ自体で自立した作品」ということだ。「美術館という建築」も、様々な展示が行われるための土台でありながら、建築としての「美術館」それ自体がコンセプトを持って建てられ、パブリックにひらかれた作品でもある。そう考えると、美術館も戯曲も、共通したはたらきを持っていると言える。
 この発想に至ったのは、コロナ禍のタイミングで展示ができなくなった世田谷美術館が「作品のない展示室」と題し、展示物のない世田谷美術館の建築そのものを見せる企画を行っていたことが大きい。当時訪れることはできなかったが、記事に掲載された空っぽの美術館の写真を眺めながら、その潔いひらかれ方に感動したことをよく覚えている。
 世田谷美術館を設計した内井昭蔵は2002年に亡くなっているが、建築は残っている。戯曲と違って建築の場合は老朽化に伴う修繕が必要だが、戯曲も建築も、作家亡き後、時代を超えて残る。わたしたちは残された作品(戯曲・建築)を手掛かりに、そこから時代精神や作家の意志を読み取ったり、普遍性を見つめることが可能になる。
 世田谷美術館を戯曲と捉えるにあたって、前半の滞在では、戯曲を読むように「世田谷美術館という建築を読む」時間を過ごすことにした。
 戯曲を読むには、
①何度も読む ②作家について調べる ③作品ができた背景について調べる 
少なくとも、この3つを通る必要がある。
つまり、「世田谷美術館を戯曲として読む」には、
 ①世田谷美術館を何度も歩き、観る ②内井昭蔵について調べる ③世田谷美術館の開館に携わった方、今働いている方にインタビューをする 
 この3つが不可欠となる。こうして、前半滞在期間の主な取り組みが決まった。
 1986年に開館した世田谷美術館は、地域の文化芸術振興に熱を入れた当時の大場啓二区長の旗振りのもと、世田谷区在住の美術作家たちと協働しながらひらかれていった。設計を任された内井昭蔵が世田谷美術館の設計コンセプトに挙げたのは「公園美術館」「生活空間としての美術館」「オープンな美術館」(※1)の3つだ。

撮影:武田侑子

 内井は、「公園美術館」として“公園の樹木より建築を低く抑え、威圧感を取り除くためにできるだけ建物を小さく分割”したり、“タイル張りの建築の硬い表情は公園美術館に合わないと思い、タイルの形状を工夫し四角い穴あき型”(※2)とするなど、公園の樹々や自然と共生する美術館の在り方を考えた。
 また、「生活空間としての美術館」を目指し、訪れた人がそこを生活空間として感じられるように“長く留まれる空間にする”ことを意識し、“馴染みやすく、温かく、居心地がよい”、一方で“晴れがましさ”(※3)もある空間を目指したという。
 これらの言葉は、まさに世田谷美術館へ訪れたときの体感を言い当てている。窓が多く内外が一体化したような空間の館内には温かみのある椅子が多く設置され、なんだかホッとしてずっと座っていることができる。落ち着く場所は、何回訪れても飽きない。滞在期間中、美術館の建築空間を毎日味わっても飽きないことを楽しんだ。
 内井は、美術館のあらゆる場所が展示の場でありパフォーマンスの場であると考え、他の芸術ジャンルとも交流し、流動的で影響し合う場として「オープンな美術館」となることを期待していたそうだ。これらの世田谷美術館の設計コンセプトは、美術館で働く人や来場者の振る舞いに細部まで影響しているように感じた。
 例えば、世田谷区立の小学校は、全ての4年生が美術鑑賞教室にやってくる。初日にその事業を見学させてもらったが、想像していた時間と全く違って驚いた。一人の引率者が企画展示を紹介するのではなく、美術館全体を十数名の「鑑賞リーダー」と呼ばれる世田谷美術館のボランティアの人たちがリーダーとなって、小学生数名~6名くらいのグループに分かれ、それぞれ好きなところから観てまわる。リーダーによって時間の過ごし方は様々で、彫刻を観ながら、これと同じポーズしたらどうなる? と、ワークショップのような過ごし方をするチームもあれば、あまり喋らないリーダーとゆっくり静かに見て回るチームもある。まるで家族や友人たちと美術館に来ているような、管理されている雰囲気のない、それぞれのペースを尊重する息のしやすい時間だった。
 こうした時間は、生活空間のような親しみやすさがあり、装飾も多く外も中も隅々まで空間を楽しめる「世田谷美術館という戯曲」が、上演され続けているからこそ生まれている時間だと感じた。
 世田谷美術館のエントランスには“ARS CUM NATURA AD SALUTEM CONSPIRAT”(芸術と自然はひそかに協力して人間を健全にする)とラテン語で刻まれた言葉がある。内井昭蔵は、これを“この美術館の理念を最もよく表す言葉”だとし初代館長の大島清次とともにエントランスに刻んだそうだ。インタビューした学芸員の方々も、世田谷美術館について語るとき、この言葉に触れる方が多かった。戯曲としての建築を考えるにあたって、滞在期間中、何度もこのラテン語に立ち返った。

撮影:武田侑子

内井昭蔵の装飾について

 祖父がハリストス正教会の司祭だった内井昭蔵は、
 “私は子供の頃からロシア正教会の雰囲気の中で育ち、戦争中にニコライ堂の中で一時、祖母と共に生活したが、その環境の中で生活しているうちに、私は正教的性格を自然に備えるようになったと思う”
と自著『装飾の復権』(2003年、彰国社)でも書いているように、ロシア正教会の教会建築が内井昭蔵の建築観や装飾観に大きな影響を与えている(それは、世田谷美術館滞在中に内井が幼少期を過ごしたというニコライ堂を訪れて納得した)。
 内井の装飾観の中でわたしが一番気になったのは、彼が装飾について“神と人とを結ぶ最も基本的な要素”と捉えている部分だった。
 “装飾は付加されたものではなく、欠くことのできぬ本質である。それは神を崇め、神を賛美するものだからである”
 と言い、装飾を“欠くことのできぬ本質”と断言していた。
 自分が上演芸術に携わり続けているのも、上演の祭祀的性質に期待し、宗教問わず「ひらかれた祈り」の場だと考えているからだが、これまでは、そのあたりのことについてなんとなく言語化を避けていたような気がする。内井と宗教観は違うが、装飾を「神と人との結ぶ最も基本的な要素」ときっぱり言い切るその言葉に、大いに共感し、励まされたような気持ちになった。目に見えないものについては語りえないことばかりだが、もう少し、言葉を編んでいくことも必要だと思うようになった。
 さて、建築における装飾と対応させ、戯曲における言葉を考えてみるとどうだろうか。そう自分に問うてみると、これまでの創作において上演の場における言葉の発話については、人と人、人と世界の〈間〉であろうと意識して演出に携わってきたが、「言葉」そのものに関しては、かなり〈私〉に引き寄せたプロセスを経て書いてきたんじゃないか? と気づいた。戯曲における言葉も、もっと〈間〉に結んでみたい。でも、それってつまりどういうことなのだろう……? 問いが生まれたまま前半の滞在を終え、松本に戻ってからもそのことを考えていた。

撮影:藤原佳奈

 ある日、近所の小さな滝の前でぼんやりしていたとき、「この滝も戯曲と捉えられるか?」と浮かんでハッとした。浅間温泉近くにある不動の滝と呼ばれるその滝は、向かって左手に石に掘られたお不動様、右手には竹林、滝の上にはお堂がある。落ちてくる滝の水は、ちょうど真下に置かれた石に当たるようにできていて、水は周囲に激しく跳ね、まだ雪が残る寒さだったので、跳ねた水が凍って石から垂れた氷柱がいくつもできていた。小さな滝だけれど、そこには多層的に編まれた時間があった。この滝は、日々上演され続けている。
 滝の表情は季節や気候によって変わるだろうし、そもそも、水の流れは一瞬たりとも同じ形にはならない。それでも、この小さな滝がお不動様の右側にあり、水が石に跳ねることで生まれる空間が醸す時間は変わらないだろう。お不動様の位置、水が跳ねる石の配置、滝の大きさ……これらが、この滝の戯曲と言えるんじゃないか。戯曲を書くとしたら、こういう戯曲を書きたい。そう思った。個人的な世界観を構築するための言葉ではなく、世界にすでにあるものを結び直し、場の媒介になるための最小単位としての戯曲。こうした視点で具体的に戯曲を捉えたのは、初めてのことだった。
 後半の滞在をどう過ごすかを考えていると、世田谷美術館のエントランスに刻まれたラテン語“ARS CUM NATURA AD SALUTEM CONSPIRAT”(芸術と自然はひそかに協力して人間を健全にする)の言葉が気になり、何度も頭にめぐった。
 ラテン語のニュアンスを詳しく知りたかったのでオンラインでラテン語研究者の方に家庭教師をしてもらい、文法やそれぞれの言葉の意味や語源を教えてもらいながら、自分なりに翻訳をしてみた。ARS CUM NATURA AD SALUTEM CONSPIRATは、自分なりに訳すと、「命のために自然の摂理と調和する。それこそが芸術である」。訳してみてようやく、このラテン語の何が気になっていたのかが分かった。それは、「健全にする」という訳だった。
 内井昭蔵は、「健康な建築」という言葉をよく使う。「健康・健全」あるいは、「well-being」という形容を、上演芸術の形容としてつけるのは難しい、とわたしは思う。それをつけてしまったら、零れ落ちてしまうものがあるからだ。“健全さ”や、あらゆる真っ当さも超えて包摂しうるのが「上演」だと考えているからだ。それは、形がない時間芸術である上演だからこそ、可能なのかもしれない。
 内井の装飾論に共感し、「健全・健康」の言葉が気になってしまう自分は、今回、世田谷美術館にどんなに小さなものでも「上演」として応答することが必要なんじゃないかと思った。内井さんから、「今、君はどう思う?」と問われているような気がした。共鳴と批判があるならば、実践で呼応する以外の選択はない。
 上演に向かうには戯曲が必要だが、後半滞在日までにわたしが戯曲を事前に用意してそこから後半のクリエイションをスタートする辿り方は違うだろうと思い、滞在がはじまるまでは具体的に戯曲を書くことは進めず、参考資料を読みながら何を大事にしたいか、核心部分だけを考えることにした。
 後半の滞在は、戯曲のないところからはじめた。俳優上演部分を担ってくれた坂口彩夏さんや、レジデンスの企画制作チームと話をしながら上演について検討し、上演をいくつかのパートに分けることに決めた。そして、俳優との上演部分については、上演の形、上演台本のようなものを坂口さんと共に作り、上演として完成したあとで、来場者に配布する「戯曲」を書いた。
 滞在最終日にひらいた「上演」は、最終的に下記の三部構成となった。
①これまで世田谷美術館で出会った方のうちの3名(最初に案内してくれた学芸員の鈴木さん、オープンラボに参加してくれた鑑賞リーダーの中村さん、開館前から現在に至るまでを見つめてきた現副館長の橋本さん)と藤原が世田谷美術館について語る時間 
②世田谷美術館を来場者が自由に散歩する時間 
③俳優による人形を使った上演の時間 
 この企画がはじまる前から坂口さんとは、イスラエルによるガザでの虐殺や能登半島の震災についてよく言葉を交わしていた。国外でも国内でも人が切り捨てられるメッセージを大量に浴びるこの状況下で、わたしたちはどんな上演に向かうことができるかを何度も話し合った。
 生も死も消費され、留まる時間もなく日々が過ぎていくことが怖かった。わたしたちの中にある生/死を、共に見つめて留まる場にできないか、と思い、一人の人形と一人の俳優が共演する上演に取り組むことにした。生物と無生物、ヒトとモノ、死者と屍、生と死、往来を見つめるには、人形が必要だった。人形遣いの長井さんにアドバイスを貰いながら人形に向き合い、坂口さんと共に歌を作り、③の上演に向かった。「戯曲」としては、坂口さんと歌を作ったプロセス自体も戯曲と捉えるのがよいと思い、出来上がった上演台本から戯曲を書いていく中で、

《※》で歌われる死者の歌は、上演者たちが今見つめる必要がある死について言葉を交わし、共に見つめ、作詞・作曲するものとする。

と注を書き、今後の上演者に委ねることにした。
世田谷滞在の上演の第三部「俳優による人形を使った上演部分」の上演台本と戯曲はこちらです。

世田谷美術館の講堂に集った人たちで、美術館に関係してきた人たちの声を聴く。その後、美術館をそれぞれのまなざしで触れる時間を経て、改めて集い、俳優と人形の上演を囲んだ。
今、ここにあるものを今一度見つめて、その奥へ連なる時間に触れ直す、というのが、今回の応答だった。
以上が、長くなってしまいましたが、「世田谷美術館を戯曲だと捉え、それをいま、上演するとしたら?」の問いと実践に対する補足です。

上演① 写真:加藤甫
上演② 写真:加藤甫
上演③ 写真:加藤甫

滞在を振り返って

 今回、世田谷美術館をじっくりリサーチする時間を経て、これまでの上演では、作品に具体的に影響する要素としてしか空間や建築を捉えてこなかったことに気づいた。建築を戯曲と捉えることで、そこに編まれた時間や人の歴史を見つめ、建築に宿る様々な声と共に過ごすことができた。この機会を経て、今後の上演での建築への接し方が変わるだろうと思う。
 また、人形アドバイザーとして人形遣いの長井望美さんに協力していただいたり、俳優の坂口彩夏さんと創作したり、これから協働したいと思うアーティストと手を動かしながら実践できたのは、本当にありがたい時間だった。
 上演の出演者である人形は、一本足の簡素なものだ。世田谷美術館に隣接する砧公園に落ちていた桜の木の枝と、坂口彩夏さんが過去に上演した衣装で使った靴を結んで作った。上演時、人形の舞台として人形の下に敷いた布は、世田谷美術館の年間講座「美術大学」のワークショップで使用済みの雑巾を縫い合わせたもの。上演がすべてが終わったあと、桜の木の枝は公園のもとあった場所に返し、靴は坂口さんに返し、雑巾も美術館に返却した。ほとんど捨てることなく、人形が解体され元の場所へ帰っていく、というのが、終わってからもなんだか心地よかった。
 クリエイション期間、わたしも坂口さんも何度も公園に行って、木の下でぼんやり考えたり、地面に寝転がって歌ってみたりした。人間以外の生き物や、風、日差しが感じられる中で上演を考えた時間は重要だった。
 すでにあるところからはじめよう、と進めてきたが、一連のこうしたふるまいを可能にしたのも、世田谷美術館という環境だからこそだと思う。そう思うと、わたしたちも世田谷美術館という戯曲の中で上演させられていた、とも言える。
 この世界はそもそも全て戯曲だと考えてみると、当たり前だと思って見過ごしている目には見えない様々な戯曲をどう編み直していくかが、わたしたちがどう生きるか、ということなのかもしれない。
 世田谷美術館とアートネットワーク・ジャパンの手厚いサポートのもと、こうしてじっくり考え、場をひらく機会をいただいたが、予想以上にさまざま挑戦をすることができ、気づきが生まれた。自分の創作と向き合う時期としても、非常に良いタイミングで滞在の機会に恵まれたと実感している。この時間は、今後の創作人生に大きく影響するはずだ。
 滞在時のインタビューでは、東谷千恵子さん、関義朗さん、遠藤望さん、橋本善八さん、野田尚稔さんにご協力いただき、世田谷美術館について、学芸員という仕事についてじっくりお話を聴かせていただいた。お話を伺いながら世田谷美術館がこれまで重ねてきた時間に触れ、文化を創るのも歴史を創るのも人だけども、一人では叶わず、人の熱が重なった地点からようやく生まれるのだということを痛感した。今、このタイミングで世田谷美術館と出会えたことに、心から感謝しています。

写真:加藤甫

テキスト:藤原佳奈

(※1)内井昭蔵『建築家のドローイング 1《世田谷美術館》』、駸々堂出版、1993、p.4-5。
(※2)同上、p.4。
(※3)同上、p.5。

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