多様性のある社会に生まれる幸福感と苦しみの強要

多様性のある社会に生まれる幸福感と苦しみの強要

私が社会人になって約25年が過ぎた。この現代社会において、色々な場所や識者、マスコミも含めこの現代社会は「多様性のある社会」を目指し、そして一昔前では考えられなかったほど、実際に各人々の持つ多様性を認めある社会になってきたと思っている。

それは、以前のように、人として、また社会人としてというような価値観や考え方に縛られることなく、人間として自らの生き方、生きる存在としてそして他人に否定されることの無い世の中になったと思っている。

このこと自身は、今までの固定概念に縛られていたかのような、このように生きるべしと言ったような、本来の人の幸せを追求できる、人間が持つ幸福の追求が心理的にも社会的にも阻害されるようなことの無い素晴らしいことだと思っている。

しかしよく熟考すると、上記に書いた通りにそのままに皆が否定されず好きに生きていくということとは違うことを気付かされることが多々ある。

多様性そのものを考えると、その多様性の前提となるものにあることは、まず「各個人が自分のことを認めるということが必要となるかと思う。

自分は自分、他人は他人、要は、自分と他人は違うものであり、その自ら持つ価値観や考え方、そして各人が目的とするものは他人と別であること、それが認めることがこの現代、生きる為の最低限必要なものではないかと常に思う。

人は当然ながら、自分の価値観を持つ。しかし、それを他人に押し付けてはならない。

これが、綺麗に聞こえる「多様性のある社会」に過去にはなかったある潜む点につながる。

「多様性がある」ということは、その先に確実に選択肢が増えることになる。
それ自体がなにも悪いことでなく、むしろこれからの時代進むべきところだと思っている。

しかし多様性というものを分解していくと、人がいわゆる普通でも精一杯に幸せに生きようとする生き方と、そしてこの現代の世の中の多様性を活かす生き方を見ている自分自身が心の中に存在する。
この葛藤に、今の時代の生きづらさのベースになるものが隠されているのが、この数年の世の中を見て感じる時がある。

当然、それには、普通というものがあると、今まででは普通じゃなくなってしまった今の世界に生きる自分自身に対し、「今に生きる為に修正の必要な人間」に思えてくるのではないかと思っている。

世の中が多様化すると、結果的にどうしてもそこには、普通じゃない点との葛藤を持つことになる。

そして、この多様化した現代の世の中では、自らが修正の必要な人間であると感じてストレスを感じ、全員がこの多様化された世界に適応できない世界になってくる。

そしてその葛藤の本質は、ありのままの自分は、修正の必要な人間であり、そして修正すればこの現代に適応できる普通の人にはなれるが、それは自分らしくないと感じる。

今までの学校教育は小学校、中学校、高校、大学と、普通が最高に生きやすく、スムーズに歩める、悩むところはどこの学校に行くかぐらいで、選択肢はほとんど必要の無い世界である。

社会に出て、いきなり「多様性」という別世界に放り込まれる。そして、上記に書いた葛藤に巻き込まれる。

人は全員、器用に生きている人達で構成されていない。しかし、器用に生きている人がこの多様性の重要さを述べられても実は結構な割合で潰されているという事実はおそらくこの世の中の方向性を鑑みても問題にできないところもあるのだろう。

ネットの世界だけでも、Twitter等のSNS、日本で流行っているオンラインサロン等自らに素晴らしいと思える情報であれば参考にするのは重要だ。有料のオンラインサロン等、無料のSNSには絶対に上がってこないレベルの高い情報がある。
しかし決して大勢の参加者や権威者の意見や考え方に、言い方はよく無く恐縮だが、結果的にその思考や思想に知らずと洗脳されたり、本人が意図せず、自分の思想を塗りつぶされる時も発生することも多いと聞く。当然主催者はその意図が無いと信じ入会し、有益な情報を得、私は満足をしている。無料のSNSと有料のオンラインサロンは会員の質と情報の違いでサービスを使い分ける価値がる。
ただし、「自分の生きる根本としている思想そのもの」をよっぽどのことがない限り変えることはしない。なぜなら、上記に書いた通り、ネットの権威のある先生やメンバーからの意見を見ていると自分に対し考えを強制的にでも修正をしなければならないのかと葛藤を持ってしまいがちになるからだ。これは私の感覚の話であるが、そのまま自分の適正を考えずになにも考えずに読んで発言すると思想が染まりやすい性質を持つ。良いところだけ考える素材でいいと思っているし、主催者もそう思っているだろう。

実は、最近のTwitterを見ていると思想が染まりやすいと言われているのは、こういう点なのだろうか。

これらすべて、「多様性のある社会」に結びつく「自分の責任」なのである。

だからこそ多数の人達の意見や価値観に流されることなく、自分の自立性とその為の積極的な能動的行動が以前に増して必要になっているのではないかと思う。

そして、この地球に住む人類は、全員が器用に生きることはできない。みんな人それぞれ、今まで生きてきた人生も違えば、育ちも違い、考え方も違い、行動力も違う。

人が今現在、楽しい人生を送っているわけでもなく、そして人はみんな楽しい人生を選択できる能力を持てることが絶対にない。自分だけ楽しければよいというのは人としてどうかと思う。

人は人を助ける、助け合うということができることができる。それでないと生活強者しか幸せを享受できない世界になってしまうことだけを危惧することがある。

幸せかどうかは、絶対的に「その人の心が決めるもの」である。

地球上の人の皆の心が、「自分は幸せだ」と思える世の中になるように。

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