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自由な発想の為に思考を分散させない判断枠を。

インターネットが日本で一般化され、25年程度経つ。

当時、インターネットはすべてのIP(端末と考えてもいい)への到達可能な完全にオープンなネットワークであると学んだ。

しかし、いま現状、世界を変えるレベルまで発達、普及し、再度顧みると、この平和的オープンさが、オープンであるが所以に発想までも分散化してしまう傾向がある気がしてならないときがある。

当然、平和的にオープンであることを性善説的に考え、そのインフラを活用するシステム、アプリが開発される。

逆に、グレートファイアーウォールのように、理由により一部通信の遮断等、すべてをオープンにせず、ある一定の枠と制限において自由なインフラとして発達させることも可能である。それはインターネット自体がオープンであることで、閉鎖もオープンだからである。絶対的にオープンに接続しなければならないという決まりごとはないのは、企業に設置されているセキュリティ上のファイアーウォールが存在することでわかる。

よってそこには、すべてにおいて到達性があるわけでない。

あることを自由に発想するということは、すべて自由な環境で行うことが邪魔をすることがある。例えば、砂漠の真ん中で、なんでもして良いと言われてもなにもイメージがわかないと想像がつく。しかしこの都市の中でビジネスを考えろと言われると、その都市が持つ機能上制限の中で都市の性質を意識できることで初めて発想の種が生まれ、そこから思考が広がっていく。

クリエイティブなことは、なんでもできる自由な環境の中でできるものでもないと思っている。その人の経験、思想、環境等々という自我で意識できる制限の中で初めて無意識に発想が出てくる。

自由な環境は非常に重要なファクターであると思っている。

しかし、発想をする時、考えたりする時、その自由すぎた枠も制限も無い環境で生みだす力が本当に出るのかと常に考える。

かつて、ユダヤ民族は、土地もモノも持つことができず、その制約の中で、「金融」という土地もモノも概念としてまったく異なるものを発明した。
厳しすぎる制約の中で民族が生き延びていく為に、金融という概念を発明し、今の世界での地位を確立した。

完全な民主主義をとっていない国では、政府が政府を守るために制限を作る。その制限の中での知恵で、人々は活動し、世界でビジネスを展開している。使う知恵のレベルは、一般的な国の人のレベルの比ではない。

何が言いたいのかというと、自由は非常に大切であるが、自由すぎることで、自由な発想を妨げることがあるということ。

だから、比較的自由な立場にいるのであれば、そこに自分がやりたいことでの判断枠を作り、その外側に思考を分散させないこと、思考を内向きにベクトルを向かせ、思考同士を有機的に結びつかせることでの化学反応を作り出し、結果的に、クリエイティブな発想に結びつかせる。

これが、我々日本人が非常に自由に考えることができる国民であることの大きなメリット、自由に自ら制限を作ることができるメリット、いかにして面白い発想ができるかという自由を持っているその自由を活かしていきたい。

今の世界を見ていて、そう思った。

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