フランク・オズ『ステップフォード・ワイフ』(2023/4/14ゼミ)
郊外
アメリカでは、郊外(suburb)は上層中流階級が暮らす地域として形成された側面がありますが、優雅な暮らしをしたいという動機が背景にあるので、「人工的」になりがちです。綺麗で整ったステップフォードのまちも、その人工性を象徴しています。人間のロボット化は、それを誇張しているともいえるでしょう。
アメリカ映画には郊外の様子がよく描かれます。ティム・バートン監督『シザーハンズ』も綺麗すぎる郊外のまちが印象的です。(この作品で描かれる植木は「アート」作品、つまり「人工」です。)
『ステップフォード・ワイフ』のエンディングにあった巨大なスーパーマーケットも、郊外を象徴する施設です。
最近、郊外をモチーフにしたアメリカ映画を論じる書籍が発売されました。大場正明さんの『サバービアの憂鬱』という、30年前に出された本の復刊です。参考になると思います。
著者のページで、序章・第1章・あとがきが読めるようです。
読書クラブ
読書クラブでクリスマスの本を話題にするシーンがありました。読書クラブは、20世紀の前半、大学への進学が難しかった女性たちにとって知的活動をする貴重な場となりました。女性の進学率や学位取得率が上昇した20世紀の後半以降は、大学で培った知識を活かす場として機能しています。
『ステップフォード・ワイフ』が描く郊外の暮らしは、おそらく、1950年代をモデルにしています。第二次大戦で混乱した社会を立て直すため、人々の生活が保守化し、専業主婦も多かった時代です。
郊外の暮らしでは主婦は日中、広い家に一人で過ごすので、生活も単調になります。それを克服するため、主婦同士が集まっておしゃべりするクラブのようなものが作られたのでしょう。郊外の暮らしが理想とされつつ、主婦の日常は孤独と隣り合わせだったわけです。
一方、1950年代ごろからアメリカでは女性の進学率や学位取得率が上昇しはじめます。『ステップフォード・ワイフ』の原作小説の出版と最初の映画化は(以下でも触れる)フェミニズム運動が高まりを見せた1970年代。この流れを踏まえると、読書クラブのシーンには、1950年代の保守的な暮らしを風刺する意味がありそうです。
なお、このシーンでは、ユダヤ人のボビーがジョークを飛ばしているのも印象的です。(=ユダヤ教なので、キリスト生誕を祝う必要がない。)ユダヤ人は知的な営みとしてジョークを用いることで知られています。ともすれば同質化しがちなクラブのなかの、スパイス的な役目といったところでしょうか。
『ヘアスプレー』のパンフレット
ゲイのロジャーがロボット化されて姿を見せなくなる場面で、『ヘアスプレー』のパンフレットが捨てられていました。『ヘアスプレー』は、市民運動が盛んになった1960年代(1962年)のお話で、人種の多様性(弱者の権利)を認めようという内容です。教室でも紹介したベティ・フリーダンの著書(『新しい女性の創造』)が発売されたのが1963年、アメリカで第二波フェミニズム運動が本格化した時期と重なります。
ロボットになったロジャーは出馬演説で「ゲイでもフェミニストである必要はない」と言いますが、『ヘアスプレー』のパンフレットを捨てる行為が、そのセリフの伏線になっています。なお、このパンフレットは映画版ではなく劇場ミュージカル版のものです。(本作『ステップフォード・ワイフ』が2004年公開なので、この時点で映画版『ヘアスプレー』(2007年リメイク版)は制作されていません。)
ジョアンナのファッションとウォルターの身体
ジョアンナがピンクの衣装でお菓子作りをしますが、その数は度を超えていました。これは綺麗で「完璧」な郊外の暮らしを、ある意味でグロテスクに(=歪めて)表現したものと考えられます。本作品のレビューに、そうした様子をcampyと表現したものがありました。campとは、あえてけばけばしく飾り立てるファッションなどを指す語です。スーザン・ソンタグの「キャンプについてのノート」というエッセイがこの語を広め(そこではこの語の意味する内容はファッションに限らないのですが)、現在でもよく使われます。数年前にはコムデギャルソンのコレクションのテーマにもなっていたようです。
ジョアンナがステップフォードのまちに来る前の容姿が、キャリア・ウーマンを誇張した表現だとする、以下のような説明もあります。
ウォルターがちょっとマッチョな身体つきをしているのも面白いところです。ジョアンナに何をやっても敵わないので、自信をつけるために身体を鍛えていたのかもしれません。
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