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『君たちはどう生きるか』:フィクション世界の構築と受容をめぐって

※ この記事は『君たちはどう生きるか』の内容を前提としているため、大量のネタバレが含まれます。
※ また、視聴してから時間を置いて書いているため、詳しい内容に関しては記憶の齟齬があるかもしれません。



先日、友人と一緒に『君たちはどう生きるか』を見てきた。

元々見る予定はなかったのだけれど、すでに1度見ている友人が「君の感想を聞きたい」という理由でお誘いしてくれたため、「見た人に他の人の意見を聞きたくなるように思わせるということはすごい映画なんじゃないか」と思い、その誘いに乗って見てみることにした。

そして、それは本当に「すごい映画」だった。

何をどう「すごい」と思ったのかを、ここで書いていけたらと思う。

時間が歪んだ「塔」の世界

時間構造の異なる空間

自分なりに一言で映画の内容をまとめるのなら、『君たちはどう生きるか』とは「フィクションに関わることをメタ的に捉えた映画」なのだと思う。

おそらく、作中の「大叔父」が宮崎駿本人、「塔」が宮崎駿がこれまで作り出してきた作品の世界、「眞人」が作品の受け手のメタファーとなっている(そして作中に登場する「墓」はおそらく高畑勲の墓だろう)。

そして、作中における「塔」がこれまで宮崎駿が作り出してきた作品世界=フィクションの世界のメタファーとして機能しているのが本作において重要であると考えられ、そのように解釈したのには理由がある。

それは、「塔」の中の世界が現実世界とは異なる時間構造を形成している点である。

作中において、「塔」の中の世界の時間は「塔」の外の現実世界の時間とは切り離されたものとして存在し、そこでは直線的な時間進行の影響を受けることがないような、独自の時間が進行する様子が描かれていた。

終盤のシーンがその一例として挙げられるだろう。眞人とヒメが再開した後、彼らは大叔父のところへと歩んでいくのだが、そのとき彼らの頭上には夜空が広がっており、星々が輝いていた。しかし、彼らが大叔父がいる丘にたどり着くと一瞬にして空は青空に変わっている。

一瞬のうちに時間帯を夜から昼へと変化させることによって、このシーンは「夜が開けるまで彼らが旅をした」ということを意味しているのだと考えられるが、一方で「『塔』の中の世界の昼夜というのは時間としての内的な意味を持たない形式的なものでしかない」ということを示しているようにも思えてしまう。この点において、現実世界の時間のルールが「塔」の中の世界で通用しないのは明らかだ。

また、劇中で家の世話係である老婆の1人が述べていたように、ヒメ=眞人の母が1年間失踪していた、つまり彼女が「塔」の中で1年間過ごしていたのにも関わらず、彼女が失踪した時と同じ姿で戻ってきたという点もまた「塔」の中の世界が現実世界と異なる時間構造を持つことを示す一例であると言える。

この発言は「身体的な外傷もなく無事に戻ってきた」という意味合いで述べられたことだとは思うが、「全く成長していない姿で戻ってきた」、すなわちヒメ=眞人の母が現実の世界とは異なる規則の下で時間が展開する空間で1年を過ごしていたという形で理解しても問題はないように思える(少なくとも、私はそう理解した)。そして、ここで言う「現実の世界とは異なる規則で時間が進む空間」とはまさに「塔」の中の世界のことである。

以上のようなシーンが描かれていたことから、私は「塔」の中の空間が現実世界の時間構造が通用しない領域として存在しているように思えた。

そして、実際にフィクションの世界では現実の世界と時間のあり方が異なる。

フィクションで描かれる世界は現実の世界とは切り離された空間であるがゆえに、現実世界の時間的な影響を受けることはない。現実世界の時間がどれだけ進んだとしても、フィクション世界の時間はそれ独自のものとして存在し続ける。

これに関しては、いわゆる「サザエさん時空」が良い例だろう。現実世界が何十年経ったとしても、「サザエさん時空」の下にあるフィクション世界の時間は永遠に同じ時間を繰り返し、その世界独自の時間構造を構築する。

いつの時代からもアクセスできる空間

また、「塔」の中の世界をフィクションの世界のメタファーとして理解したもう1つの理由として、異なる時代から来た人々が同じ時間と空間を共有していた点が挙げられる。

「塔」の中では、1940年代から来た人々(眞人・夏子)とそれより昔の時代(おそらく30年前くらい)から来た人々(ヒメ・桐子)が同じ時間と空間を共有していた。

これも、「塔」の中の時間が歪んでいる、つまり現実とは異なる時間構造が「塔」の中で成立していることを示している一例だと言える。

そして、これに関してもフィクション作品の世界では同様のことが言える。というのも、「塔」の中の世界と同じように、フィクション作品へはどの時代からもアクセスが可能だからだ。

例えば、現代を生きる私たちは宮沢賢治の童話を読むことによってそれらが構成するイーハトーヴというフィクション世界へとアクセスすることができるが、このアクセスは現代だけで行われていることではなく、宮沢賢治の童話が世に放たれた瞬間から、さまざまな時代でそこへのアクセスが繰り返されてきた。

このような点で、「塔」の中の世界に別時代の人間が同居していたことはおそらく「フィクションの中の世界へはいつの時代からもアクセス可能である」ということの比喩なのだと考えられる。

忘れてしまうことと没入すること

ちなみに、このような映画におけるフィクション性の自覚の問題を巡って、私と友人が映画の感想を述べ合っている中でお互いが挙げた作品がある。

それは、『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ!夕陽のカスカベボーイズ』(以下『カスカベボーイズ』)だ。

前節のような形で『君たちはどう生きるか』の諸要素を踏まえると、双方の作品は物語の構造が非常に似ていることがわかる。

どちらの作品も主人公(眞人/しんちゃん)がフィクションの世界(「塔」/西部劇)の中の世界を冒険する形で物語が展開し、そしてその世界の時間構造が現実の世界の時間構造とは多いに異なる様子が描かれる。『君たちはどう生きるか』では昼夜が曖昧で世界の中の人物が成長しない「塔」の中の世界が描かれ、『カスカベボーイズ』では太陽が動かず、作中世界では年近くの月日が経過しているのにも関わらず一向にしんちゃん達が成長しない西部劇の世界が描かれる。

そして双方の作品において、世界が終わりを迎えることによって世界からの脱出が達成される(積み木の崩壊に伴う世界の崩壊/「おわり」の文字の解放によって終わる映画)。

このように双方の作品を比較していくと、『カスカベボーイズ』におけるある要素もまた『君たちはどう生きるか』に含まれるように思えてくる。

それは、「元の世界のことを忘れてしまう」という要素である。

『カスカベボーイズ』の前半部分で中心的なテーマとなっていたのは、「春日部防衛隊のメンバーたちが元の世界の記憶を失っているため、彼らの記憶を取り戻す」というものだった。そして「記憶の消失」はしんちゃんたちも例外ではなく、しんちゃんもボーちゃんと一緒に元の世界を忘れぬよう懸命に努力するシーンも見受けられた。

このような「元の世界を忘れてしまう」という表現は、「作品に没入する」ということのメタファーであるように思われる。小説やマンガなどを読んでいるときに生じる、現実世界に対する認識が曖昧化し、まるで自分が作品世界の中にいるかのような感覚である「没入」を過度に表現すると、「作品世界に入り元の世界を忘れてしまう」という描写になってしまうのだろう。

この「忘れてしまう」という描写は『君たちはどう生きるか』でも描かれていたように思える。たとえば、桐子の「ずっと前からこの世界に暮らしている」という台詞や「あなたなんて大嫌い」という夏子による眞人の急な拒絶は、一見すると物語の展開と噛み合わないように思えてしまうが、「彼女らが元の世界の記憶を失いつつあるから」と理解すれば、うまく飲み込めるように思える。

ちなみに友人は夏子の急な拒絶のシーンについて、眞人による「夏子母さん」という呼びかけが『カスカベボーイズ』における「春日部防衛隊ファイヤー!」、すなわち元の世界とのつながりを呼び戻す言葉と同位置にあると考えられると述べていた。

このように、「元の世界を忘れてしまうほどの没入」をその世界への参加者に与えてしまうという点から見ても、『君たちはどう生きるか』における「塔」はフィクション作品のメタファーであるように思える。

セカイ系のようで、セカイ系ではない

また、『君たちはどう生きるか』を見ている時、私は作品の雰囲気にどこかセカイ系っぽさを感じた。自分の中で宮崎駿監督作品とセカイ系はあまり結び付かなかったため、セカイ系の空気を感じ取れるのは少し新鮮だった。

ただ、それはセカイ系のような空気を感じたというだけで、物語の構造がそのまんまセカイ系的かと言われたら、そうでもないように思える。

セカイ系の定義はさまざまな所で、さまざまな形で行われているが、自分の中では、セカイ系とは「個人間のミクロな関係が世界のマクロな動向と直接的に結びつく物語」であると理解している。

実際、『君たちはどう生きるか』も眞人と夏子(およびその背後に眞人が見出している亡き母の幻影)という個人間のミクロな関係が「塔」の中の世界のマクロな動向と密接に関係しており、この作品をセカイ系の一種として理解できないこともない。

ただし、『君たちはどう生きるか』で問題となっている世界は現実の世界ではなく、「塔」の中の世界である点には留意する必要があると思う。

眞人と夏子の関係によって大きく変動するのはあくまで「塔」の中の世界であり、2人の関係が現実の世界に影響を及ぼすことはない。眞人と夏子の関係がいかに変化しようが、現実世界には何の効果もなく、大叔父が告げていたように、現実には史実の通りに「辛いこと」が訪れる。

もしセカイ系のルールに完璧に則っていたのなら、眞人と夏子の関係は現実の世界にも影響を与えていただろうが、そのようなことは一切起こらず、それによって変化する世界は「塔」の中という小さな世界だった。

さらに言うのならば、『君たちはどう生きるか』で描かれている現実世界は極限まで後景に退いている。作品の時代設定は戦時中であるのにも関わらず、その時代の雰囲気を感じさせてくれるものは出征の見送りや戦車隊の様子、父親の工場で作っているであろう戦闘機の部品のみで、それらは「物語の時代設定は戦時中である」ということを受け手に示すだけの小道具レベルのものにとどまっているように思える。

このような点から、この作品がフォーカスを当てている世界は現実の(国際情勢が絡んでいるような)戦時下の世界ではなく、むしろ「塔」の中という小さな(けれども大きく広がる)世界だと言えるのではないか。

そして、こうした「歪なセカイ系」という構図は、創作という営みそのものを示していると考えられる。

作家の手によって作り出されるフィクションという小さくて大きな世界は作家という個人に完全に委ねられた世界である。そのため、個人とそれを取り巻く人々との関係の変化に応じて、彼が作り出すフィクション世界は大きく変容することだってあり得る。

このように、「塔」の中の世界の描写だけではなく、作品内における「塔」の構造的な立ち位置からも、「塔」がフィクションのメタファーだと言えるのである。

持ち帰った「石」の意義

「石」とは「何か」である

最後に、なぜ私がこの記事を書いているのか、noteに記事を書いて投稿するということを滅多に行わない私が(最後に投稿したのが半年以上も前…)、どうしてこの記事を書こうと思ったのかを述べて終わりたい。

私がこの記事を書いている理由は、眞人が現実の世界へ持ち帰った「石」に求めることができる。

物語の最後に眞人は「塔」の中の世界で拾った「石」を現実世界へと持ち帰る。そして青サギによれば眞人は「石」を持ち帰っているからこそ、「塔」の中の世界の出来事を覚えていられるのだそう。

では、この場面における「石」は何を示しているのだろうか。

端的に言えば、ここで眞人が持ち帰った「石」は「私たちが宮崎駿の監督作品を見ることで得ることができた『何か』」を示しているのだと思う。

「何か」と濁したのはそれが具体的に「これだ」とは言えないものだからだ。「何か」は作品を見たときの純粋な感動であってもいいし、特定のシーンを見て抱えてしまったトラウマ的な恐怖でもいい。感情だけではなく、特定のキャラクターへの興味、あるシーンを見たことによって引き起こされた聖地巡礼への展望、特定のシーンの構図やショットへの感嘆、あるいは作品から学んだ身の振り方でもいいかもしれない。

そして「石」を持ち帰った眞人が「塔」の中の世界を覚えていられるのも、「石」がフィクション作品から得られた「何か」として機能していることによると考えらえれる。

というのも、「何か」を得た作品ほど、その内容をよく覚えているということが実際にあるからだ。自分が衝撃を受けたりした作品ほど、どれだけ昔の作品であっても、その内容を覚えていたりする。

逆に、何も得なかった作品ほど、その内容を忘れてしまいがちである。

このように、「塔」をフィクションの世界(つまり宮崎駿の作品世界)のメタファーとして理解することによって、眞人による「石」の持ち帰りはフィクションの受容体験を表していると理解できるのではないか。

『君たちはどう生きるか』

物語の最後で、眞人は大叔父の世界を引き継ぐことを拒否し、自分自身の世界を作り上げていくことを宣言する。

では、ここで眞人が述べた「世界」とは、何を意味するのだろうか。

1つは大叔父が構築した世界が表しているような、フィクションの世界のことを指しているのだろう。実際、「何か」に触発されて新たなフィクション作品を作るというプロセスはよく行われている。

これは宮崎駿の監督作品に限った話ではなく、一般的な話でもある。

有名な話だが、ゲーム『MOTHER2』のラスボスであるギーグが糸井重里の幼少期の映画体験に基づくトラウマから生まれていることは、フィクションから得た「何か」が別のフィクションを生み出したことの一例と言えるだろう。その意味では、『君たちはどう生きるか』とは現代のクリエイターに向けた映画であると言える。

ただし、「世界」とはおそらくフィクション作品に限った話ではないように思われる。

先ほど、私たちが宮崎駿の作品から得た「何か」の1つとして「作品から学んだ身の振り方」を挙げた。おそらく、私たちが「石」を元手に構築する「世界」は作品に限らず、自身の生活実践であってもいいのだろう。

宮崎駿の監督作品から説明し難い「何か」を得て、それを自身の生活の実践に取り入れ、その過程で自分の生きる主観的な世界を構築していくこともまた「石」を持ち帰ることに入るのではないだろうか。

だからこそ、『君たちはどう生きるか』というタイトルになるだと思う。

私たちは宮崎駿の作品を見て、彼が作り上げたフィクション世界への「没入」から何かしらの「石」を持ち帰る。そしてその「石」を元手に、私たちは自分達の生活実践としての主観的な世界を構築していく。

それは、「生きる」ことに他ならない。

眞人が持ち帰った「石」はおそらく彼が夜空の丘で拾ったものであり、大叔父が世界構築のために使用していた積むための「石」とは別のものなのだろうが、その形が積むための「石」と同じであったため、それが拾ったものであろうと、眞人はそれを自分の世界の構築のために使ってもいいのだろう。

『もののけ姫』から自然への畏怖の念を抱き、『天空の城ラピュタ』から冒険心の尊さを覚え、『となりのトトロ』から日常に潜む非日常の可能性を知ったように、宮崎駿の作品は私たちの世界の見方を大きく変容させてきた。

彼の作品から持ち帰った「石」をどのように使っていくのか。それは「石」を土台にどのような生活を組み上げていくのかという「生」をめぐる問いであり、タイトルで問われている「君たちはどう生きるか」という問いなのだろう。

「石」を土台にテクストを編む

そして持ち帰った「石」から新たな「世界」を構築することの範疇には、この記事のように、「作品を見て思ったことを自分の言葉にまとめて書く」という行為もおそらく含まれるのだと思う。

なぜなら、作品から得た感動をもとに構築されたこの記事というテクスト世界もまた「石」を土台とした私の「世界」だからである。

つまり、私がこの記事を書こうと思ったのは「作品が記事を書くことを奨励しているように思えたから」なのだ。あくまで個人的な見解だけれども、このような形で自分の感想を言葉にしないと、映画の意図をうまく読み込めていないことになるように思えてしまったのだ。

もちろん、感想を言葉にすることが必須の選択肢ではない。行為に落とし込む・新たなフィクション作品を作る・テクストを編む…という無限に広がる「世界」の構築の選択肢のうち、私はその中の1つを選んだにすぎない。

ただ、1つだけ言えるのは、この作品が極めて肯定的にフィクション作品の受容と構築を表現した映画だということだ。

もちろん、「塔」の崩壊を「誰も宮崎駿の作品世界を受け継ぐものがいない」という諦念の表現だと解釈してもおかしくはないし、その可能性だって十分にあり得る。

しかし、私はそのような諦念よりもむしろ作品の受け手の背中を押していくような、送り出す意図を映画が持っていたように思える。

なぜなら、宮崎駿の作品世界は宮崎駿にしか作れないからだ。それゆえに、奨励されるのはむしろ宮崎駿の作品世界を完璧に模倣するのではなく、そこから受け取った何かを元手に受け手自身の新たな世界を構築していくことなのだろう。

その意味では「塔」の崩壊は半ば必然的だったと言える。

まとめ

ここまでの内容を整理するなら、「『君たちはどう生きるか』とはフィクション作品の受容とそれに伴う新たな世界の構築という巨大なダイナミクスを可視化した作品である」ということになるだろう。

これは人生を通じてずっとフィクションと向き合ってきた人しか描けないような内容だし、実際にそのような人生・歴史の重みがずしりと伝わってくるような映画だった。「ダイナミクス」という言葉を用いたのも、そのようなマクロな流れをひしひしと感じることができたからだ。

このようなことを感じておきながら一言でまとめるのはやはり気が引けてしまうが、私が「すごい」と思ったのは、このためである。

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