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なぜヨルシカの幽霊は飛ばないのか

※ この記事では内容を理解していただきやすくするため、途中途中で楽曲のリンクを載せています。記事を読むついでに再生すると、記事の内容をより理解できるかと思われます。また、YouTubeで当該の楽曲が見つからなかった際にはApple Musicのリンクを載せましたが、同様の楽曲はSpotifyにもありますので、アクセスできる媒体で聞いてただければと思います。



水溜りに足を突っ込んで
貴方は大きなあくびをする
酷い嵐を呼んで欲しいんだ
この空も吹き飛ばすほどの

ヨルシカ,2021,『又三郎』.



ヨルシカというアーティストをご存知だろうか。


ヨルシカのロゴマーク

出典:宮沢賢治,2011,『新編 風の又三郎』新潮文庫.(ヨルシカ×新潮文庫 コラボレーション限定カバー)


ヨルシカとはコンポーザーのn-buna(なぶな)とボーカルのsuis(すい)の2人を中心とした音楽ユニットである。2017年に活動を開始し、『だから僕は音楽を辞めた』や『ただ君に晴れ』などといったの楽曲はYouTubeで1億回再生を突破している。

また、n-bunaは2012年からボーカロイドPとしても活動しており、『透明エレジー』や『ウミユリ海底譚』など、数多くの代表曲を生み出している。



最近ではヨルシカの楽曲が『魔法のリノベ』(カンテレ・フジテレビ)などといったドラマ作品の主題歌に加え、『僕の心のヤバイやつ』などのアニメ作品の主題歌に起用されることが多くなっているため、ヨルシカを知らなくても何かのタイミングで彼らの楽曲を聞いたことがある人もいるのではないだろうか。



そして(お読みの方はある程度察しているかもしれないが)、私はヨルシカの大ファンである。しかしそうであるがゆえに、私が「ヨルシカのファンである」と言うと、次のような質問に必ず出くわすことになるのだ。



おそらく全てのアーティストの名前に夜を想起させる言葉が入っているのに加え、どれもがボーカロイド文化を下敷きにしているがゆえに出てくる質問なのだろう。

実は、この質問に答えるのはかなり難しい。

上記のうちのどれかのアーティストのファンなら分かっていただけると思うのだが、それぞれが作り上げる楽曲の違いは明確に分かるのに、「具体的に何がどう違うか」と言われたら少し悩んでしまわないだろうか。

そしてそれは自分も例外ではない。私はヨルシカの楽曲がYOASOBIやずっと真夜中でいいのに。の楽曲とは違うというのは何となくわかっているのだけれど、「どう違うのか/何が違うのか」と聞かれたら悩んでしまう。

おそらく、これら3つのアーティストの違いは簡単な言葉で説明できるものではないのだと思う。もししっかりとした回答を用意するのなら、かなり筋道だった言葉を用意しなければならないように私は感じてしまう。



そういうわけで、この記事は「ヨルシカの特徴って何?」というような旨の問いに対して、私なりの回答を綴ったものになる。

ただ、私もYOASOBIやずっと真夜中でいいのに。の楽曲はある程度は聴いているものの、ヨルシカの曲ほど聴いているわけではないので、回答を示すにあたっては十分な比較検証ができないのも事実である。

したがって、この記事はヨルシカの楽曲だけを、もっと言えばそのうちの「一曲だけ」を深掘りして、「ヨルシカの特徴って何?」という問いに対する答えを提示するものになっている。

この記事を通して、ヨルシカのことを知っている人も、まったく知らない人も、ヨルシカというアーティストに興味を持ち、(私の個人的な主張の範囲内ではあるけれども)その特徴をわかっていただけるのなら幸いである。

前置きが少し長くなってしまったけれど、早速本題に入っていきたい。


『雲と幽霊』の飛ばない幽霊


ヨルシカの楽曲の1つに、『雲と幽霊』というものがある。



実は、この楽曲は「ヨルシカ」という名前の元になった作品なのだ。2番サビ終わりの「夜しかもう眠れずに」というフレーズから、「ヨルシカ」という名前がつけられている。

そしてこの『雲と幽霊』という楽曲では、幽霊となった「僕」が世界中を旅する内容が歌われている。楽曲のMVにおいても、「僕」がスウェーデンやロシア、アメリカや中国といった世界中の国々を旅する様子が描かれている。

しかしながら、冷静になって考えてみると、この楽曲のMVで幽霊となった「僕」が歩いて旅をしているのがどうも不思議に思えてしまう。

というのも、昔から日本のアニメやマンガにおいては、幽霊が「浮遊するもの」あるいは「飛ぶことのできるもの」としてよく描かれてきたからだ。


空を飛ぶお化けのQちゃん

出典:藤子・F・不二雄・藤子不二雄A,2015,『オバケのQ太郎 1』小学館.


そういった「飛ぶ幽霊」の一例として、お化けマンガの古典的名作である『オバケのQ太郎』を挙げることができる。

上に載せた画像のように、『オバケのQ太郎』では初回からオバケ(=幽霊)のQちゃんの飛ぶ姿が描かれているのだが、周りの登場人物からは「どうしてQちゃんは飛べるの」などとは問いかけられない。

それは、少なくとも当時の人々の共通認識として、「幽霊は飛ぶことのできる存在だ」というものがあったからだと考えられる。当たり前のことすぎるがゆえに、誰も問おうとはしなかったのだろう。

このように、日本の表現作品(特にマンガやアニメといった視覚的なイメージを中心とするような表現作品)においては幽霊が「物理法則を無視できる存在」として当たり前のように描かれてきたのにも関わらず、世界中を回るような長距離の旅をする上で「歩く」という移動手段を選んでいる『雲と幽霊』の幽霊のイメージには少し違和感を覚えることができるように思う。


『雲と幽霊』の「歩く幽霊」

出典:ヨルシカ / n-buna Official ,2018,「ヨルシカ - 雲と幽霊 (MUSIC VIDEO)」,(https://www.youtube.com/watch?v=JJaCwW4HyVs,2023年8月31日閲覧).


ちなみに「幽霊が歩く」という表現がされているのは『雲と幽霊』のMVに限った話ではなく、以下のように、楽曲の歌詞においても述べられている。


幽霊になった僕は あの頃の景色を見に行くんだ
遠い街の海辺 子供のとき見た露店街
歩き疲れた脚で そこらのベンチでバスを待って
その後はどうしよう 何で歩いてたんだろう

ヨルシカ,2018,『雲と幽霊』,太字は塩戸.


『雲と幽霊』という楽曲が作り上げる作品世界の全体に漂う、この「飛ばない幽霊」というイメージの不思議さは、どのように理解できるだろうか?


歩くことの異化効果

このような不思議さについて、「『雲と幽霊』では『歩く』という行為に対して一種の『異化効果』が働いている」とまとめ直すことができるだろう。


いか-こうか【異化効果】:ブレヒトの演劇論用語。日常見慣れたものを未知の異様なものに見せる効果。ドラマの中の出来事を観客が距離をもって批判的に見られるようにするための方法の意に用いた。

デジタル大辞泉


つまり、『雲と幽霊』では日常的に見慣れた「歩く」という行為を非日常的な「幽霊」に行わせることによって、「歩く」ということを未知の、異様なものであるように見せているのだ。

そうであるのならば、『雲と幽霊』は「歩く」という行為に対して私たちが批判的な視線を向けるように促し、そこに含まれた特殊な意味合いを浮かび上がらせようとしているのではないか。

では、この「歩く」という行為に含まれた特殊な意味合いとは何だろうか。それは、「なぜヨルシカの幽霊は飛ばないのか」という問いに対する答えを探すことでもあるようにも思える。

ここから、少しそのことについて考えていきたいと思う。


「歩く」ことは時間に関わることである


先に結論のようなことを言ってしまうと、「歩く」という行為には一定の「時間性」のようなものが付与されていると言える。

つまり、私たちが「歩く」という行為を考えるときには、同時に「時間」という要素をも意識せざるを得ない、ということだ。

特に「歩く」ことが真横から映される形で、平面的な(横スクロールのアクションゲームのような)形で描かれたときに、この「時間性」を強く感じることができると考えられる。

言葉だけでは不十分だと思うので、このことを理解するにあたって少し例を挙げてみたい。

例えば映画『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』における「ひろしの回想」のワンシーンがその一例として挙げられる。


「ひろしの回想」のワンシーンの再現絵


味のありすぎる絵で恐縮だけれども、このシーンでは主人公・野原しんのすけの父親である野原ひろしの学生時代の恋の展開が、季節の変化(=「時間」の表現)とともに、ひろしが「歩く」姿に合わせて展開される。

そして、このシーンはひろしが「歩く」その様子を真横から映した構図になっている。

別の例としては、有名な「進化論」の図式を挙げることができる。


「進化論」の図式


ここでは、サルがヒトへと進化するプロセス(=「時間性」の表現)が彼らの「歩く」姿と共に描かれている。そしてこの図もまた、彼らが「歩く」姿を真横から描いたものとなっている。

以上の例から、「歩く」ことが真横から捉えられる際、そこには一種の「時間性」のようなものが付与されることがわかる。


時間が直線的であること

では、どうして「歩く」という行為に対して、特にそれが真横から平面的に描かれたときに、一種の「時間性」が付与されてしまうのだろうか。

そのことを考えるために、ここで社会学者である真木悠介(まきゆうすけ)の『時間の比較社会学』を参照してみたい。


手元の『時間の比較社会学』の表紙絵

出典:真木悠介,2003,『時間の比較社会学』岩波書店.


この本は近代社会の時間のあり方(時間の意識のされ方)が歴史的に見て普遍ではないことを指摘しつつ、それを他の社会の時間のあり方と比較することによって、近代社会の時間のあり方の特徴を浮かび上がらせている(真木 2003)。

そして、そのような形で議論が展開する中で、真木は近代社会の時間のあり方の特徴とは「時間が直線的であること」だと指摘する(真木 2003)。

どういうことか。かなり雑にまとめてしまうのならば、それは「時間はこれまでにもずっと続いてきたし、そしてこれからもずっと続いていく」ということだ(真木 2003)。

少し分かりにくいので、ここで理解をしやすくするために、いったん横道にそれて「直線」の意味を考えてみたい。その上で、ここでは似たような言葉である「線分」も同様に取り上げてみる。

「直線」および「線分」の辞書における定義は、それぞれ以下のようなものである。


ちょく-せん【直線】:まっすぐな線。

デジタル大辞泉


せん-ぶん【線分】:二点で限られた直線の一部分。有限直線。

デジタル大辞泉


少しややこしいけれども、本当に大雑把に理解するのなら、同じ「まっすぐな線」でありながら、「線分」には範囲があり、「直線」には範囲がないということだ。図に表せば、以下のようになる。


「線分」と「直線」の違い


このことを念頭におくと、「時間が直線的であること」が少し理解しやすくなったように思える。

つまりそれは、まるで限界の存在しない直線のように、「時間が絶えず現在まで続いてきて、そしてこれからも無限に続いていく」ということだ。

「えっ、時間って普通そういうもんじゃないの」と思う方もいるかもしれないが、『時間の比較社会学』を参照すると、実はその理解は歴史的に見て普遍ではないことがわかる。

例えば、ヘブライズムの社会では時間に始まりと終わりがあり、それより前とそれより後には時間が存在しないと理解されているという点で、「線分的な時間」というものがあることを真木は指摘している(真木 2003)。

他にも、いくつかの未開の社会では「昼」と「夜」が2つの異なる世界で、時間はその世界の間を揺れ動くものだと理解されており、それを「振動する時間」と名づけることができると主張した先行研究を真木はこの本で取り上げている(真木 2003)。


真木は直接言及していないが、昼夜の境界の「黄昏時」は2つの異なる世界の境界であるために、不思議なことが起こると言われるのだろうか


そうであるがために、「時間が絶えず今まで続いてきて、これからも無限に続いていく」とする「直線的な時間」の意識は、私たちが暮らす近代社会に特有なものなのである。

このことを踏まえて、先ほどの2つの例をもう一度考えてみよう。


「ひろしの回想」のワンシーン


「進化論」の図式


見返してみると、実はどちらも「歩く」ことの始まりと終わりが明確に描かれていないことがわかる。

形式にしか注目しないけれど、彼らがいわば真っ直ぐに「歩く」姿が描かれるとき、そこで「歩く」ことの始まりと終わりが描かれないことで、わたしたちはこれまでもずっと彼らが歩き続けてきて、そしてこれからも彼らが歩き続けるように錯覚してしまうのではないか。

そして、彼らの姿に見られる「真っ直ぐ」で「始まりと終わりがない」という特徴は、どちらも「直線」の特徴として見られるものであった。それゆえに、そのような表現には一種の「直線性」を見出すことができると考えられるのである。

まとめるのならば、「歩く」ことのイメージが近代社会の時間のあり方と合致するがために、それに対して「時間」のイメージが付与されやすくなったのではないかと考えられる、ということだ。


生の有限性

以上から、「歩く」ことのイメージに「時間」のイメージが付与される理由がある程度わかった。今度はそれを踏まえて、「幽霊」が「歩く」とはどういうことかを理解してみたい。

このことを考えるにあたって、再び『時間の比較社会学』を取り上げたい。
真木はこの本の中で、次のようなことを述べている。


〈私〉の生命の延長を人類の生命のうちに実感し、あるいは私の人生の「意味」を人類の未来のうちに見出しえたとしても、その人類の生の時間も、永遠であるという根拠はない。〈私〉の生の時間が一瞬にすぎないという視座をとるかぎり——すなわち「永遠」を視座にとるかぎり、——人類の生の時間もまた一瞬にすぎないはずである。

真木,2003,『時間の比較社会学』,p.2.


少し難しい文章だが、真木はここでこの本の大きなテーマである、「直線的な時間を意識してしまうがゆえに、人生を虚しく儚く感じてしまうこと」について触れている。

また真木は同書の別の箇所において、近代社会の人々が「時間は全てを消滅させる」あるいは「人生はみじかく、はかない」と思っていることを指摘している(真木 2003)。

そして、こういった考え方の前提となっているのは、真木が上記の引用で「人類の生の時間も、永遠という根拠はない」と述べているような、「自分の人生が有限に思えてしまう」という意識である。

このような「生の有限性」とも呼べる意識は、『雲と幽霊』の「飛ばない幽霊」を考える上で1つの大きなポイントとなる。


真木は「生の有限性」のはかなさを述べる過程で、花々の一生と私たちの一生を対比させている(真木 2003)


ここで、時間と「生の有限性」の関係を述べたもう1人の論者として、ボーカロイド楽曲を中心に評論活動を行っている音楽評論家の鮎川ぱての議論に触れたい。

鮎川は自身の著書において特徴的な時間論を展開しているのだが、そこでの議論の軸として、鮎川は2015年に急逝したボーカロイドP・ぽわぽわP(椎名もた)の楽曲を取り上げている。

その議論の中で、鮎川は『Award Strobe Hello』というアルバムに収録されている『Human』という楽曲を取り上げる。



そして、そこに込められているメッセージについて次のように解説する。


 人間は、人体模型である。そう考えるなら、「連れ出してみせようか」というのは、遺伝のチェインの外に連れ出すという意味になる。「宇宙人」だと自称する主人公は、有限性に囚われる人間に対して「その外があるんだよ」と言っているのかもしれない。
 けれども最後には、その主人公は「さよなら もう行かなくちゃ」と繰り返すことになる。どこに「行かなくちゃ」いけないのか。主人公は人の世界の外——無限の側からささやいていそうなのに。これも「lifeworks」[塩戸注:ぽわぽわPの別の楽曲]と同じ図式ではないでしょうか。いまいるところから、有限な生の方へ「行かなくちゃ」いけないのではないか。

鮎川,2022,『東京大学「ボーカロイド音楽論」講義』,p.490.


鮎川はここで、『Human』という楽曲は「『宇宙人』という『有限な生の外=無限の側』にいる存在が人間をその場所へと連れ出してくれることを歌った曲」であると説明している。

ここで注目したいのは、鮎川が1つの対立軸として「有限な生=人間/無限な生=宇宙人」という図式を持ち出している点である。

ただし1つ付け加えておくと、鮎川がここで述べる「無限」とはいわば「時間のない領域」と理解できるものであることに注意しておく必要がある。

つまり、少しややこしいかもしれないが、先述した「時間が無限に思えてしまう」という意味での「無限」と、鮎川の用いる「無限」は少し異なるということである。

そのため、鮎川の述べる「有限な生」とは「時間的な生」であると理解する必要があるのだ(と私は思っている)。


鮎川の「無限」の意味を踏まえると、人間と宇宙人はこのように対比できる。


このような対立軸を踏まえるのなら、幽霊はすでに死んだ存在であるため、それらは「有限な生」の反対側である「無限(無時間的)な生」の側にいると理解できるだろう。

しかしながら、『雲と幽霊』の「幽霊」はそれとはまったく異なるのだ。『雲と幽霊』の「幽霊」は「歩く」という時間的な行為をするという点で、まるで「有限(時間的)な生」の中にいるような立ち振る舞いをしている。

つまり、本来は「無限(無時間的)な生」を生きるはずの「幽霊」が『雲と幽霊』では「有限(時間的)な生」を生きる者のように行為しているのだ。

そういうわけで、私は『雲と幽霊』の「幽霊」が『Human』の「宇宙人」と同じ位置にいるようには思えない。本来「幽霊」は「無限」を生きるはずなのに、『雲と幽霊』の「幽霊」はなぜか「有限」を生きている。


「近代社会の力学」

ここでもう少し議論を深めるために、再び鮎川の議論を取り上げたい。

鮎川は自身の著書の中で、先述の時間論へとつながる「残響論」という議論を展開しているのだが(鮎川 2022)、そこでは議論の軸として『Alice in 冷凍庫』などで有名なボーカロイドP・Orangestarの楽曲が触れられている。

その中で、鮎川は『アスノヨゾラ哨戒班』という楽曲を取り上げている。



そして、鮎川はこの曲のMVで描かれている「落下する少女」に言及する中で次のように述べる。


 哲学者のヴァルター・ベンヤミンはこう書きました。天使は翼があるからこそ、強く吹き付ける風の力を被って、飛ばされていってしまうのだ。どちらへ?未来のほうへ。天使の顔は過去のほうを向いていて、そこにとどまりたいのだけれども、それは許されない。眼前の過去になにが起こっていても、手を出すことができない。手は届かない。
 あなたは時間を生きる。それはあなたが選んだことではなく、外力が強いることだったのだ。

鮎川,2022,『東京大学「ボーカロイド音楽論」講義』,p.412-3.


個人的にとても好きな文章なのだが、ここで注目したいのは太文字で強調した最後の2文である。ここで鮎川は、「時間を生きる」こととは「外力が強いること」であると主張している。

鮎川は『アスノヨゾラ哨戒班』においてはこの「外力」が「重力」という形をとって描かれていることを指摘し、この曲のMVで描かれている少女の自由落下は時間への無抵抗であると解釈している(鮎川 2022)。

それでは、鮎川によるこの一連の議論を念頭に置くのなら、「歩く」という時間的な行為をしている『雲と幽霊』の「幽霊」にも、何らかの「外力」の影響が見られると理解することができるのではないか。

こうしたことを踏まえて本記事では、先ほどの真木の議論を念頭に置いて、『雲と幽霊』の「幽霊」には「直線的な時間」の大元にある「近代社会の力学」という「外力」が働いていると理解したい。

(もっとも、鮎川もその著書において『時間の比較社会学』を参照しているため、このことを意識していることは十分に考えられるのだが。)


鮎川は次のように述べる。
「翼を得ることは、重力に抗うことでも、時間に抗うことでもなかった。[中略]画面が切り替わり、重力で少女をいざなう少女が地球が朝焼けで晴れがましい姿を現し、その映像はなにも悲しげではない。」(鮎川 2022: p.413)

出典:Orangestar,2015,『Orangestar - アスノヨゾラ哨戒班 (feat. IA) Official Video』,(https://www.youtube.com/watch?v=XogSflwXgpw,2023年8月31日閲覧).


それでは、「近代社会の力学」とはいったい何か。端的に言ってしまえば、それは「合理性」や「資本主義」と呼べるものだと考えられる。

もちろん、「近代社会の力学」としていきなり「合理性」や「資本主義」を持ってくることに対してちょっとした思想の強さや恣意性を覚えてしまうかもしれない。

しかしながら、実際にヨルシカは『雲と幽霊』以外の楽曲の中で「合理性」や「資本主義」といったテーマに肉薄しており、それゆえに私はこのような要素を持ってきたのだ。

そして、これは個人的な感覚ではあるのだが、ヨルシカは特に「合理性」や「資本主義」といったものに収まってしまうことに対する苦悩や辛さを克明に描いてきたように思える。


「収まることの苦しみ」を歌う

ヨルシカの個別の楽曲について述べる前に、ここまでで議論が非常に大きく膨らんでしまったので、一旦ここで整理しておきたい。

これまでの議論はざっくりと次のように整理できる。

  1. 「歩く」ことには(それが真横から描かれる際に)「直線」のイメージが付与される。ここで真木の主張を踏まえると、それは「直線的である」という特徴を持つ「近代的な時間」と密接に関連しうると理解できる。

  2. そして鮎川の主張を踏まえるのなら、そのような形で理解できる「歩く」という行為を実際に行なっている『雲と幽霊』の「幽霊」には、それが本来は無時間的な存在であるために、そこには何か「歩く」ことを強制させるような力=「外力」が働いているのではないかと思えてしまう。

  3. そして真木の議論を思い出すのなら、その「外力」は「近代社会の力学」として理解できるのではないか。


以上を念頭において、ヨルシカの他の楽曲を見ていこう。


まず初めに、ヨルシカが明確に「合理性」や「資本主義」に収まることの苦悩を歌っている事例をいくつか取り上げたい。

例えば、有名な『だから僕は音楽を辞めた』ではその点が非常に明確に謳われている。



考えたってわからないし
生きてるだけでも苦しいし
音楽とか儲からないし
歌詞とか適当でもいいよ
どうでもいいんだ

ヨルシカ,2019,『だから僕は音楽を辞めた』.


僕だって信念があった
今じゃ塵みたいな想いだ
何度でも君を書いた
売れることこそがどうでもよかったんだ
本当だ 本当なんだ 昔はそうだった

ヨルシカ,2019,『だから僕は音楽を辞めた』.


「儲か」ることや「売れる」ことは、資本主義のシステムにおける成功である。しかし、「音楽とか儲からない」と断言し、「売れることこそがどうでもよかったんだ」と叫ぶことで、ここではそのシステムに収まることの苦しさが激しく強調されている。

また別の例として、『盗作』という楽曲を取り上げたい。



聴いてみたらわかるように、『盗作』は楽曲のテーマそれ自体が「現代社会における価値の倒錯」という、明確な資本主義・合理性批判となっている。

しかし、この曲ではそうした資本主義・合理性批判と同時に、合理の対極に位置する非合理な「衝動」・「感情」が強調されているのも特徴的である。


嗚呼、まだ足りない。もっと書きたい。
こんな詩じゃ満たされない。
君らの罵倒じゃあ僕は満たされない。
まだ知らない愛を書きたい。
この心を満たすくらい美しいものを知りたい。

ヨルシカ,2020,『盗作』.


「まだ足りない」・「満たされない」・「知りたい」というフレーズを矢継ぎ早に入れることで、合理性が優位に置かれる社会の中で劣位に置かれてしまう非合理なもの(感情・欲望・衝動)を強く求める様子がここでは歌われている。


飛ぶことの難しさ

また、ここでは先ほどの鮎川のアイデアを少し参照し、この「近代社会の力学」が「重力」として描かれうる可能性について考えてみたい。

そうすると、「資本主義」や「合理性」と言った「近代社会の力学」に収まることの苦しさや辛さを上記の例のように直接的に歌うだけではなく、「重力」という比喩を介して歌うケースもありうることになる。

そして実際に、ヨルシカは「重力の強さ」=「空を飛ぶことができない」という表現を楽曲の中によく取り入れているのだ。

深読みのしすぎかもしれないが、それが「近代社会の力学」の強さのメタファーだと見ることができるようにも思える。

例えば、『靴の花火』という楽曲の歌詞には次のようなフレーズがある。



僕の食べた物 全てがきっと生への対価だ
今更な僕はヨダカにさえもなれやしない

ヨルシカ,2017,『靴の花火』.


ここでの「ヨダカ」は宮沢賢治の『よだかの星』が元ネタになっている。元ネタにおいて、ヨダカは空高く飛んで星になるが、それに「なれやしない」と述べる形で「空を飛ぶことができない」ことがここでは歌われている。

他にも、「空を飛ぶことができない」という表現はいろいろな形でヨルシカの作品の中に登場する。


空を飛ぶことができない代わりに、紙飛行機を飛ばす

出典:ヨルシカ / n-buna Official,2019,『ヨルシカ - だから僕は音楽を辞めた (Music Video)』,(https://www.youtube.com/watch?v=KTZ-y85Erus,2023年8月31日閲覧).


空を飛ぶ潜水艦「ノーチラス号」という一種の反実仮想

出典:ヨルシカ / n-buna Official,2019,『ヨルシカ - ノーチラス (OFFICIAL VIDEO)』,(https://www.youtube.com/watch?v=j83OVgv6woA,2023年8月31日閲覧).


そして『雲と幽霊』においてもそれは例外ではなく、次のような形で「空を飛ぶことができない」ことが歌われている。


君と座って バス停見上げた空が青いことしかわからずに
雲が遠いね ねぇ
夜の雲が高いこと、本当不思議だよ

ヨルシカ,2017,『雲と幽霊』.


本当なら飛べるはずの「幽霊」が「雲が遠い」と思ってしまうのは、彼が飛ぶことができないからではないのだろうか。そこには、「幽霊」を巻き込むほどの強い「重力」が働いているように思えてしまう。


なぜヨルシカの幽霊は飛ばないのか


ここまでの議論は、次のように整理できる。

つまり、ヨルシカの作家性としては「資本主義と合理性に代表される近代主義の力学に抗えない」ことを描く点が挙げられる、ということだ。

そういった作家性のために、『雲と幽霊』の「幽霊」もまた「歩く」存在=「飛べない」存在として、すなわち「重力=近代社会の力学」に抗えない存在として描かれているのだと考えられる。

したがって、「なぜヨルシカの幽霊が飛ばないのか?」という問いに対しては、次のように答えることができる。

それは、「幽霊が(近代社会の力学に抗えずに)飛べないからだ」と。
















……いや、はたして、本当にそうだろうか?


ここまでの議論は妥当か?


どうして結論づけるのを辞めたのか。

なぜなら、上記の結論があまりにも悲観的だからだ。

実際に『雲と幽霊』を聴いてみるとわかるように、この曲に対して悲観的なイメージを付与するのは個人的に無理があるように思えてしまう。

むしろこの曲はどこかポジティブな形で、「幽霊」であることを肯定的に捉えているように思える。

曲の中で奏でられている音も全体的にポップに聞こえ、さらにそこには清々しさを覚えられるような透明感がある。それゆえに、ネガティヴな意味は逆に出しづらくなっているように思えてしまう。

つまり、「曲を聴いた時の印象」と「導き出した結論」の方向性が一致していないのだ。

もちろんそれは悪いことではないが、ここまでの議論を一応自分なりに論理的に導き出したはずなのに、方向性の不一致のためにどこか無理矢理感を覚えるような結末になっている。私はそこにどうしてもモヤモヤしてしまう。

このようなモヤモヤを晴らすためにも、一旦「歩く」という表現からは距離を置いて、もう少し別の角度から「飛ばない幽霊」について考えてみたい。


「夏」が意味しうるもの


というわけで、ここからは「歩く」という行為ではなく、全く別の「夏」という要素をスタート地点として「飛ばない幽霊」を考えてみたい。

実はヨルシカの楽曲を考えるのなら、「夏」という要素には触れないわけにいかなかったりする。

というのも、ヨルシカの楽曲の多くはその舞台の季節として「夏」が設定されていて、さらにそれは楽曲の作品世界を作り上げる大事な要素として機能しているからだ。それは『雲と幽霊』においても例外ではない。

「あなたがヨルシカの大ファンだからそう感じるのでは?」と思う方もいるかもしれないが、実際に「ヨルシカは名前とほんの数曲しかしらない」という友人をヨルシカのライブに連れて行った際、友人は終わった後に「ヨルシカってめっちゃ夏のこと歌うんだね」と述べていた。


友人を連れて行ったヨルシカのライブ『前世』


私の友人の個人的な感想でしかないけれど、ヨルシカの曲をあまり知らない人が一連のヨルシカの楽曲を聴いてそう思ってしまうほどに、そこには「夏」のイメージが強く付与されているとも言えるだろう。


「終わらない夏」の物語

それではここから『雲と幽霊』における「夏」という要素を考えていきたいのだが、まずは一旦ヨルシカから離れて、日本のポップカルチャーの全体を概観する形で議論を進めていこう。

ふと考えてみると、日本のポップカルチャーでは結構な作品において「夏」が「時間の進まない物語」と一緒に描かれていることがわかる。

パッと思いつく限りでも、『涼宮ハルヒの憂鬱』の「エンドレスエイト」(2007)や『カゲロウデイズ』(2012)、アニメ版の『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』(2017)などの作品を挙げることができる。



そしてこれらの作品では、基本的に「時間の進まなさ=終わらない夏を終わらせる」ことが登場人物たちの目的となって、物語が展開していく。

それでは、どうして「夏」が「時間の進まない物語」とよく一緒に描かれるのだろうか。

1作品ならまだしも、複数の作品においてこういった想像力が表れているのを見ると、「夏」という要素にまるで時間の概念を捻じ曲げてしまうほどの不思議な魅力が込められているように思えてしまう。

もしかすると、このようなところに「近代社会の力学に抗えない」結論とは別の結論を用意する糸口を見つけ出すことができるのかもしれない。


「セカイ系」の探求

それでは、「夏」が「時間が進まない物語」と一緒に描かれるとき、つまり「夏が終わらない物語」が描かれるとき、それは一体何を意味することになるのだろうか。

このような「終わらない夏」の意味を考えるにあたり、先ほど取り上げた作品たちが「セカイ系」と呼ばれるジャンルに属していることに注目したい(pixiv大百科の「セカイ系」項目を参照)。


後述するように、『君の名は。』もまた「セカイ系」の物語の1つとして理解される。

出典:新海誠,2016,『君の名は。』東宝.


最近では「セカイ系」という言葉はあまり聞かなくなったのに加え、この言葉の定義が人や媒体によって異なってしまっている。そのため、一旦ここで「セカイ系」の定義づけをしたいと思う。

数ある「セカイ系」の定義の中でも、この記事では社会学者の大澤真幸(おおさわまさち)による定義を採用したい。大澤は以下のように「セカイ系」を説明している。


つまり主人公たちのきわめて小さな、インティメイトでプライベートな関係や、あるいはその関係の中の何かの要素、ある特別な人物が世界の運命に関わったり、世界を破滅から救出するための鍵になっていたりする。

大澤,2018,『サブカルの想像力は資本主義を超えるか』,p.300.


すなわち、大澤によれば、「セカイ系」とは登場人物の間の小さな(プライベートな)関係が世界の命運などといった非常に大きな規模の動きと直接的に関わる物語を指す、ということである。

そして、大澤は「セカイ系」の一例として新海誠監督の『君の名は。』(2016)を取り上げている(大澤 2018)。

確かに、大澤が述べるように、『君の名は。』では瀧と三葉という2人の小さな関係が糸守町の住民の救出という大きな規模の動きを駆動させる鍵となっていた(大澤 2018)。


故に少女は押し入れから世界を歌う

このような「セカイ系」と呼ばれる物語について、それが何を意味するのかをめぐって批評の分野では実際にこれまで様々な解釈が行われてきた。

けれども、今は一旦そのような先行の解釈を保留し、この記事では「セカイ系」を「10代の若者が抱いている社会参加への期待を表した物語」であると理解していきたい。

つまり、「セカイ系」を比較的小さな関係のなかで生きている10代の若者たちがなんとかして「社会」(大澤が言っていた「世界」)へと参加し、それを変えてやろうという希望や期待を表現した物語として捉えたいのだ。

ちなみに、ここで対象を「10代の若者」と設定したのは「セカイ系」の物語に登場する人物たちのほとんどがその年代の若者だからだ。


「セカイ系」に属する物語の登場人物は基本的に10代に属する

出典:IA PROJECT,2013,『じん / ロスタイムメモリー (IA)【OFFICIAL MUSIC VIDEO】』,(https://www.youtube.com/watch?v=yJTQuDCnMjg,2023年8月31日閲覧).


では、どうしてそのように理解できるのか。その点に関しては、現実の社会における10代の若者の立ち位置に理由を求められる。

実際に現実の社会の動きを考えたとき、社会に対する10代の若者の影響力は確かに小さい。選挙権が18歳に引き下げられたとは言え、ほとんどの10代は社会に直接的な影響を与える手段を持っていないように思える。

ゆえに(そしてかつての私がそうだったように)、10代の若者は現実的に自分の行動が社会に直接大きな影響を与えるとは思えないだろうし、システムの面においても中高生は社会参加をある程度留保された状態として位置付けられている。

そういった状況のために、「直接的な影響を社会に与えるような形で社会参加を果たしたい」という意識は現実の社会の中ではなく、むしろフィクションという虚構の中に、「セカイ系」の形をとって現れるのではないか。

現実の世界における10代の若者の直接の影響力の低さが反転して、非現実的な虚構の世界へとその意志が表れているのではないか、ということだ。



余談になるかもしれないが、『ぼっち・ざ・ろっく!』の主人公である女子高生の後藤ひとりがASIAN KUNG-FU GENERATIONの『転がる岩、君に朝が降る』をカヴァーするのは、そのような意識の表れであるように思える。

というのも、『転がる岩、君に朝が降る』は次の歌詞から始まるからだ。


出来れば世界を僕は塗り変えたい
戦争をなくすような大逸れたことじゃない
だけどちょっと それもあるよな

ASIAN KUNG-FU GENERATION,2008,『転がる岩、君に朝が降る』.


「セカイ系」というジャンルをこのように「若者の社会参加への希望・期待の表れ」として理解するのならば、「夏が終わらない」物語において描かれている「夏を終わらせる」という大規模な行為は、「10代の若者の社会参加」を意味していると理解できるのではないか。


「大人になる前」の時間

このような形で「夏が終わらない物語」を理解すると、「夏」という要素を「それが終わることによって社会参加が果たされるもの」として解釈することができる。そうであるのなら、「夏」は何を意味するのだろうか。

この点を明確にするにあたって、評論家・哲学者である東浩紀(あずまひろき)の議論を参照したい。

東は自身の著書である『ゲーム的リアリズムの誕生』において、「セカイ系」でなおかつ「時間が進まない」展開を含む作品について次のように主張している。


手元にあった『ゲーム的リアリズムの誕生』の表紙

出典:東浩紀,2007,『ゲーム的リアリズムの誕生——動物化するポストモダン2』講談社.


閉鎖空間に閉じ込められ、宙づりの時間を生きる主人公という造形は、成長を拒み、幼児性に固執する(少なくともそう見られている)オタクたちにとって、とりわけ感情移入をしやすいものなのかもしれない。

東,2007,『ゲーム的リアリズムの誕生——動物化するポストモダン2』,p.160.


少し厳しい言い方ではあるけれど、東はここで「終わらない夏」のような「繰り返される時間」の表現を「宙吊りの時間」と述べ、そこに生きる登場人物たちを「幼児性に固執する者」として理解している。

感情移入うんぬんの話には触れないが、東の主張について、「繰り返される時間」としての「終わらない時間(終わらない夏)」が成長の拒否という一種の「幼児性」の表れとして理解できることには納得がいくように思える。

ただし、本記事では東のこの主張を少し変形させ、「夏」それ自体を「社会参加より前の段階」の時間の表現(メタファー)として理解したい。

個人的な考えを含めて言い換えるなら、「夏」を「大人になる前の段階」の時間の表現(メタファー)として理解したいということだ。


n-bunaが描いてきたもの

それでは、「夏が終わらない」ことをテーマとした「セカイ系」の諸作品の分析から導き出せた「夏とは『大人になる前の段階』の時間のメタファーである」という解釈を『雲と幽霊』の「夏」の理解につなげてみたい。

と言いつつも、おそらく読んでいる方の中には「どうしてそうした解釈をいきなりヨルシカの楽曲に適用できるのか」と思った方がいるかもしれない。

私がいきなり上記の解釈をヨルシカの作品へとつなげたのは、それがヨルシカのコンポーザーであるn-bunaが「夏」に見出しているものであると、彼の過去の作品を参照することでわかるからだ。

というわけで、『雲と幽霊』における「夏」を考える前に、ここでは視点のレベルをもう少し広げて、過去にn-bunaが作り上げてきたボーカロイド楽曲における「夏」の意味を考えていきたい。


『花と水飴、最終電車』

n-bunaの作品に、『花と水飴、最終電車』というアルバムがある。これはn-bunaが2015年にリリースした初の全国流通アルバムであり、そこには『ウミユリ海底譚』などの代表曲が数多く収録されている。




このアルバムの特徴は、公式ウェブサイトでも触れられているように、それが「夏の終わりの1日」を模したものになっている点である(『花と水飴、最終電車』公式ウェブサイトを参照)。

具体的に言うのなら、アルバムが1曲目、2曲目、3曲目…と展開していくにつれて、楽曲の中で描かれる作品世界もまた朝から昼へ、昼から夕方へ、夕方から夜へ、夜から朝へ…と進んでいくのだ。


『花と水飴、最終電車』では「花火」がキーワードとなっている


実はこのような形で「夏の終わりの1日」を描こうとすると、音楽の再生機器のシステム上、それは自然と「終わらない夏」を描くことになる。それはどういうことか。

一般的な音楽の再生機器には、繰り返し再生の機能である「ループ機能」がついている。それは一曲だけとは限らず、アルバム全体をループにかけられることもできるケースが多い。

ここで先ほどの『花と水飴、最終電車』の特徴を踏まえると、このアルバムをループ再生にかけることは、自然と「終わらない夏」を描き出すことにならないだろうか。

私たちがこのアルバムをループで再生するとき、確かにそこで描かれる「夏の終わりの1日」は何事もなく進んでいくが、ループ再生にかけているがために、最後の曲が終わると同時に1曲目の再生が始まることになる。

つまり、最後の曲で「夏の終わりの1日」の終わりが示されたとしても、完全な季節の変化(夏の終わり)が果たされることはなく、再び同じ「夏の終わりの1日」が始まっていくのだ。


『花と水飴、最終電車』の構造


すなわち、『花と水飴、最終電車』では再生機器のシステムに影響を受ける形で「終わらない夏」が描かれるのである。

そうであるがゆえに、「セカイ系」の「終わらない夏」から導き出せた「夏とは『大人になる前の時間』のメタファーだ」という主張をn-bunaの楽曲にも適用させることができると考えられるのだ。

付け加えるなら、このアルバムの最後の曲である『花と水飴、最終電車』(アルバム名と同じタイトル)では、次のようなことが歌われている。


この話はこれで終わりだ 
結局君を忘れないまま
少しずつ大人になっていく 
夏が終わるみたいに

n-buna,2015,『花と水飴、最終電車』,太字は塩戸.


そう、実はn-bunaは明確に「夏の終わり」とは「大人になること」の比喩だと述べているのである。

このような点から、n-bunaの作家性の1つとして、彼の作る楽曲においては「夏」が「大人になる前の時間」のメタファーとして描かれていると言えるように思える。

ちなみに、『花と水飴、最終電車』において言えることをn-bunaが作る楽曲全体に敷衍させられるのは、同様のことがn-bunaのボーカロイド楽曲に限らず、ヨルシカの楽曲においても見られるからである。

例えば、『夜行』という楽曲には次のようなフレーズがある。



君立つ夏原、髪は靡くまま、泣くや雨催い夕、夕、夕
夏が終わって往くんだね そうなんだね
そっか、大人になったんだね

ヨルシカ,2020,『夜行』.


以上のような議論を展開できるがゆえに、『雲と幽霊』においても「『夏』とは『大人になる前の時間』のメタファーである」という理解を適用できると考えられるのだ。

さて、ここまでの議論を踏まえて、ここでようやく『雲と幽霊』の話に戻りたいと思う。


『雲と幽霊』の「幽霊」は何者か?


『雲と幽霊』を改めて聞き返すと、そこに付与された「夏」のイメージが非常に強いことがわかる。「入道雲」や「夜に涼む」など、歌詞とMVの双方において、「夏」を想起させる要素がふんだんに取り入れられているのだ。


『雲と幽霊』にて「入道雲」を眺める「僕」

出典:出典:ヨルシカ / n-buna Official ,2018,「ヨルシカ - 雲と幽霊 (MUSIC VIDEO)」,(https://www.youtube.com/watch?v=JJaCwW4HyVs,2023年8月31日閲覧).


そして、そのような強い「夏」のイメージを一身に背負っているように見える「僕」という存在は、ある意味で「夏」のイメージが凝縮された存在であるように思えてしまう。

ならば、この曲における「僕」=「幽霊」を「夏」、すなわち「大人になる前の時間」の象徴として理解できるのではないか。つまり、「幽霊」である「僕」は「夏」のイメージを請け負っているために、「大人になる前の時間」の化身として感じられるように思えるのだ。

何が言いたいか。すなわち、『雲と幽霊』における「僕」=「幽霊」は「大人になる前の時間に立つ存在」だと理解できる、ということである。

そして反対に、『雲と幽霊』における「君」は「大人になった後の時間に立つ存在」であると考えることもまたできると考えられるのである。

どうしてそう考えられるのだろうか。このことを深めていくにあたって、「大人になる」とはどういうことかを少し考えてみたい。


「社会化」のプロセス

社会学の用語に、「社会化」という言葉がある。これに関しても色々な定義がされているのだが、ここでは次の定義に基づいて話を進めていきたい。


社会化
しゃかいか
socialization
人間が、集団や社会の容認する行動様式を取り入れることによって、その集団や社会に適応することを学ぶ過程をいう。社会化は、基本的に学習である。諸個人は、他の人々との相互作用を通して、行動の仕方、ものの考え方、または感情の表出や統制の仕方を学習するが、このような社会的場面における学習の過程を社会化というのである。

日本大百科事典(ニッポニカ)


少し難しい言い方がされているが、平たく言えば、「人間は周りのすることや考えることを取り込むことで周りに溶け込むことを学ぶ」ということだ。

そして、この「社会化」は子どもが成長するプロセスで行われるとされる。

子どもたちは「ごっこ遊び」(「ままごと」など)を通じて自分に近しい人(両親など)の行為や考えを取り入れる。そして、取り入れる対象が近しい人からどんどん他者一般へと広がることで、子どもは社会のルールや価値を会得していく、ということだ(友枝・浜・山田編 2023)。


子どもたちの「社会化」のプロセス


言ってしまえば、「大人になる」ということは「社会のルールや価値を自分のうちに取り込む」ということになる。

このとき、子どもたちが取り込む「社会のルールや価値」としてはさまざまなものを考えることができると思うが、近代の社会においては「科学的な合理性」がこの位置にあるように思える。

つまり、近代社会では「それが科学的に見て合理的かどうか」というルールや価値が「大人になる」過程で私たちのうちに取り入れられると考えられるのだ。

この主張もまた恣意的に思われるかもしれないが、実際に「幼少期に見えていた非科学的なものが大人になると見えなくなってしまう」という想像力は日本ポップカルチャーのフィクション作品でよく表れている。

これはある意味で、近代社会の人々が「社会化」のプロセスで科学的な合理性を内包してしまうことの裏付けとも言えるのではないか。


トトロもまた、私たちが大人になってしまうと見えなくなるものである


見えないから「君」は大人なのだ

「社会化」、つまり「大人になる」過程で人々は科学的な合理性の価値基準を取り込んでしまうことで、非科学的なものや非合理なものが見えなくなってしまう。

それゆえに、非科学的で非合理な「幽霊」という存在は「社会化」を経た人々によって捉えられないのかもしれない。

むしろそれを捉えることができるのは、そういった価値基準を取り入れる前の段階、つまり「大人になる前」の段階にいる人々なのだろう。

このことを念頭に置いて、『雲と幽霊』の次の歌詞を考えてみたい。


幽霊になった僕は、明日遠くの君を見に行くんだ
その後はどうだろう きっと君には見えない

ヨルシカ,2017,『雲と幽霊』.


「幽霊になった僕」が「君には見えない」のは、「君」が大人である(科学的な合理性を取り入れている)からではないだろうか。

つまり、「幽霊を見れない」という点において、「君」は「大人になった後の時間に立つ」存在なのだ。「君」は「幽霊」が見れないから、「大人」と言えるのだ。


「大人になった後」の時間に立つ「君」と「大人になる前」の時間に立つ「僕」


そして、ここからはさまざまな解釈が可能だろうけれども、私はここで「僕」と「君」が同一人物であるという解釈を取り入れたい。

つまり、『雲と幽霊』は大人になる前の「僕」が大人になった後の「僕」=「君」に対して向けた曲だと理解したい、ということである。

なぜか。実はそうすることによって、「近代社会の力学に抗えない」という1つ目の結論を乗り越えるようなもう1つの結論を出すことができるように思えるからだ。


MVを見た限りでは「僕」と思わしき人物と「君」と思わしき人物の性別は異なるように見えるのは事実だが、一旦その点は保留しておきたい

出典:出典:ヨルシカ / n-buna Official ,2018,「ヨルシカ - 雲と幽霊 (MUSIC VIDEO)」,(https://www.youtube.com/watch?v=JJaCwW4HyVs,2023年8月31日閲覧).


忘れたはずの非合理がまだ残っている

ここでもう1度「幽霊」が「大人になる前の時間に立つ存在」であるという主張を考えていきたい。

先ほど述べたように「大人になった後の時間」が「科学的な合理性」に支えられているのだとしたら、自然と「大人になる前の時間」は「非科学性や非合理性」に支えられていると理解できないだろうか。

そうであるのなら、「大人になる前の時間」に立つ『雲と幽霊』の「幽霊」は「非科学性」や「非合理性」それ自体を請け負った者として理解できる。

ただし、ここは「非科学性」や「非合理性」を「ファンタジックな幻想や空想」として理解していることを付け加えておきたい。そのため、この言葉は科学や合理を否定するものではないことには注意していただきたい。

ともかく、『雲と幽霊』の「幽霊」は「大人になる前の時間」の象徴であると同時に、「(ファンタジックな幻想や空想という意味での)非科学性・非合理性」それ自体の象徴であると理解できるのだ。

そして先ほども述べたように、日本のポップカルチャーでは「人は幼少の頃(大人になる前)には非科学的で非合理的なものを見ることができる」という想像力がたびたび表れている。

それは言い換えるのなら、「幼少期には近代社会の科学的な合理性に基づかない形で人は生きている」ということになるのかもしれない。


ボーカロイド楽曲の分野においても、幼少期と非科学性・非合理性を結びつける想像力は見られる

出典:R Sound Design,2018,『エイトリアム/R Sound Design feat. v flower-Atrium』,(https://www.youtube.com/watch?v=z4C0z__DSqQ,2023年8月31日閲覧).


以上を踏まえて、『雲と幽霊』の次の歌詞を考えてみたい。


何も知らなくたって
何も聞けなくたって
いつか君が忘れても
それでも見ているから

ヨルシカ,2017,『雲と幽霊』.


この一連の言葉が「幽霊」である「僕」の口から出たものであり、なおかつ先ほど述べてきたように「君」を「大人になった後の『僕』」として解釈するのなら、この歌詞は次のように理解できないだろうか。

つまり、それは「いつか『大人になった後の僕』が『大人になる前の僕』を忘れてしまったとしても、『大人になる前の僕』が消えることはなく、ずっと『大人になった後の僕』のそばに居続けている」と主張していると。

それは言い換えるのなら、「忘れてしまったはずの非合理性・非科学性がまだ残っている」ということにならないだろうか。


「幽霊」とは力学を回避する道である

実は、このような「忘れてしまったはずの非合理性・非科学性がまだ残っている」というテーマは『雲と幽霊』に限らず、他のヨルシカの曲でも歌われている。

例えば、先に挙げた『盗作』にはこんなフレーズがある。


音楽の切っ掛けが何なのか、今じゃもう忘れちまったが
欲じゃないことは覚えてる。何か綺麗なものだったな。

ヨルシカ,2020,『盗作』.


「今じゃもう忘れちまった」けれど、自分の音楽のきっかけが「何か綺麗なものだった」という非合理なものだったことはなぜか覚えている。それは、かつての非合理性が記憶の中に残り続けていることにならないだろうか。


アルバム『盗作』の初回限定版。n-bunaによる書き下ろしの小説が付いており、そこでは主人公の少年時代の記憶が語られる(n-buna 2020)。

出典:ヨルシカ,2020,『盗作』.


そして、このような「忘れたはずの非合理性・非科学性がまだ残っている」という想像力は、「近代社会の力学に抗えないこと」を乗り越えるための重要な鍵となる。それはどうしてか。

なぜなら、それは「『大人になった後の僕』が近代社会の力学としての科学的な合理性に収まることへ苦しさや辛さを覚えていたとしても、自分のすぐ近くには『大人になる前の僕』という非合理性・非科学性への逃げ道が用意されている」と言った形で、それに対する解決策を提示しているように考えられるからだ。

そう考えるのならば、『雲と幽霊』の「幽霊」は「近代社会の力学に抗えないこと」よりも、むしろ「近代社会の力学に抗えること」を意味している存在だと理解できるのではないか。


本当に幽霊は飛べないのだろうか

色々と議論が複雑になってきたので、ここで一旦整理してみたい。

  1. 「夏が終わらない」ことを問題する「セカイ系」の作品と「セカイ系」の解釈から、「夏」が「大人になる前の時間」であると理解できる可能性を導き出すことができる。

  2. 「夏」が「大人になる前の時間」なら、『雲と幽霊』の「僕」とは「大人になる前の時間」の表現として理解できる。そして、「社会化」によって「幽霊」という非科学的・非合理的なものが見えなくなるのなら、『雲と幽霊』の「君」は「大人になった後の時間」の表現として理解できる。

  3. 「僕」と「君」が同じ人物であると解釈することで、「忘れたはずの非合理性・非科学性がまだ残っている」という主張を示すことができる。そしてそれは、「近代社会の力学」に抗う可能性となる。


ここまでの議論を踏まえて、「なぜヨルシカの幽霊は飛ばないのか」という問いに対するもう1つの答えをやっと用意できるように思える。

というより、ここまで来ると答えも何もないのかもしれない。

なぜなら、これまでの議論を踏まえるとこの問い自体が無意味なものとなってしまうからだ。

それはどういうことか。

科学的な合理性の枠組みの中に居てしまうと、どうしても不思議なこと(「幽霊が飛ばないこと」)に対して何らかの理由を求めてしまう。

しかしそこを論理的に理解しようとすると、「近代社会の力学に抗えない」というネガティヴな結果に陥ることになる。

そうではなく、「幽霊は非科学的で非合理的な存在なのだから飛んでいてしかるべきだ」という科学的な合理性を前提とした考えを一旦捨てて、「幽霊が歩いていること」に疑問を抱かずにいれば、むしろ「近代社会の力学には抗えることができる」というポジティヴな結論を出すことができる。

そう。「なぜヨルシカの幽霊は飛ばないのか」という問いを提起したその瞬間に、ネガティヴな道筋に足を踏み込んでしまうことになるのだ。それゆえに、この問いが無意味なものになってしまうのである。

もし仮にこの問いに無理やり答えを出すのだとしたら、おそらく「そもそも幽霊が飛ぼうと思っていないから」とでもなるだろう。

「幽霊」の「僕」が歩いていることには理由などないのだ。

「僕」はただ歩きたいから歩いているのであって、「僕」が飛ぼうと思えば飛べるのかもしれない。


「幽霊」が雲を眺めるのは、行けない場所への羨望ではなく、行く先の確認なのかもしれない。

出典:ヨルシカ / n-buna Official ,2018,「ヨルシカ - 雲と幽霊 (MUSIC VIDEO)」,(https://www.youtube.com/watch?v=JJaCwW4HyVs,2023年8月31日閲覧).


むしろ大事なのは、新たな結論によって示された、「幽霊」は「近代社会の力学という科学的な合理性への抵抗」を意味しているという考えである。

1つ目の結論と対比させるために「抵抗」という言葉を使ったが、きちんと言うならば「非科学的・非合理的なものの価値は劣位に置かれるものではない」ということが『雲と幽霊』の「幽霊」で示されているのだ。

もちろん科学的な合理性で生まれ発展していく世界もあるけれど、反対に、それと同じほどの価値を持った、非科学性・非合理性で生まれ発展していく世界もまたあるのだと、『雲と幽霊』の「幽霊」は言っているのだろう。

「それは流石に深読みだよ」と言われてしまうのを覚悟で、『雲と幽霊』のあるフレーズで「幽霊」はこう言おうとしていたのではないかと言いたい。

「だからさ、(科学的な合理性に収まらなくて)いいんだよ」と。


ヨルシカの特徴


最後に、ヨルシカのある楽曲を取り上げながら本記事を締めくくりたい。

その曲とは、2021年に発表された『又三郎』という楽曲である。



個人的に、ヨルシカの楽曲の雰囲気はこの『又三郎』を境にガラリと変わったように思える。

何度も言っていることだが、それまでヨルシカの楽曲では『だから僕は音楽を辞めた』や『盗作』などのように、既存の社会(今までの言葉で言うのなら「近代社会」)で生きることの苦しさや辛さが歌われてきた。

しかし、この曲ではそういった意識が消え失せ、別のことが歌われている。

特に、次の歌詞が非常に印象的である。


風を待っていたんだ 型に合った社会は随分窮屈すぎるから
「それじゃもっと酷い雨を! この気分も飛ばす風を」

ヨルシカ,2021,『又三郎』.


読んでわかるように、『又三郎』からヨルシカは「社会への抵抗」や「社会に収まらないこと」を歌い始めるようになったのだ。それはいわば、「社会からの自由」とでも呼べるようなテーマだ。

そしてさらに、n-bunaは新潮文庫とのコラボカバーにおいて、次のようなメッセージを『新編 風の又三郎』に寄せている。


私たちの心に根付いたイメージとしての又三郎は、大きな風を身に纏って空を駆け抜ける。現代に蔓延る閉塞感を物ともせず、人々の心に寄り添う風を吹かせ続ける。

宮沢賢治,2011,『新編 風の又三郎』,ヨルシカ×新潮文庫 コラボレーション限定カバー裏表紙.


又三郎もまた、「幽霊」と同じように「非合理性」の側の人間だろう。彼が風を吹かせられることには何の科学的な・合理的な根拠もない。

しかし、明確な「抵抗」を主張せず「非合理的・非科学的なものの価値」を示そうとしていた『雲と幽霊』の「幽霊」とは異なり、『又三郎』の「又三郎」は「社会からの自由」という「抵抗」の可能性を私たちに示しているように思える。

『雲と幽霊』で示された「近代社会で劣位に置かれている非科学的なもの・非合理的なものの価値の認可」というテーマは4年の月日を経て、『又三郎』における「社会からの自由」というテーマへと変容した。


加藤隆氏によって描かれた、『又三郎』のジャケット。
ここで「又三郎」が空を眺めているのは「空を飛べないこと」の表れであるよりも、
「あそこへ飛んでいってやる」という「空を飛ぶこと」の強い意思なのかもしれない。

出典:ヨルシカ,2021,『又三郎』.


冒頭で述べたように、この記事の目的はヨルシカの楽曲を深掘りすることによってヨルシカの特徴を示すことにあった。そしてそのための軸として、「なぜヨルシカの幽霊は飛ばないのか」という問いが設定されていた。

ここまででおおよそ25000字。正直書き過ぎてしまったと反省しているが、ようやくヨルシカの特徴をはっきりと言えるところまでたどり着くことができたように思える。

では、ヨルシカの特徴とは何か。



[終]



[参考文献]
鮎川ぱて,2022,『東京大学「ボーカロイド音楽論」講義』文藝春秋.
東浩紀,2007,『ゲーム的リアリズムの誕生——動物化するポストモダン2』講談社.
真木悠介,2003,『時間の比較社会学』岩波書店.
宮沢賢治,2011,『新編 風の又三郎』新潮文庫.(ヨルシカ×新潮文庫 コラボレーション限定カバー)
大澤真幸,2018,『サブカルの想像力は資本主義を超えるか』KADOKAWA.
友枝敏雄・浜日出夫・山田真茂留編,2023,『社会学の力〔改訂版〕——最重要概念・命題集』有斐閣.
※ 画像の参照元に関しては、画像のキャプションにそれぞれ記載している。

[参照した辞書]
デジタル大辞泉
日本大百科全書(ニッポニカ)[電子版]

[お借りしたもの]
画像:「人類」(イラストAC,https://www.ac-illust.com/
フォント:851テガキカクット、なごみ繊細ゴシック

[記事サムネイルの元ネタ]
アルバム『だから僕は音楽を辞めた』ジャケット絵


※ この記事はある作品の解釈の可能性の1つを提示するものであり、特定の考えや立場を押し付けるものではありません。


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