見出し画像

小説 無題

 
 老いた人が穴を掘っている。花びらは無意味に美しく舞っている。
 わたしはいつからかそれをただ眺めている。ついさっき目について冷やかしに来たような、幼い日に迷子になった遊園地からそのままここにやって来たような、そんな気がする。
「今日私の目が覚めるときに聞こえてきたのはあなたの産声かな?」
「そんなはずはありません。わたしが生まれたのは何十年も前のことですから」
「ふむ、そうか。ならやはり私の産声だったかもしれないな」
 老いた人は穴を掘り続けている。遠い国に星の光が落とされてたくさんの命が蒸発した。
「どこまで掘るつもりなのですか?」
 暖かな潤んだ目がわたしに向く。
「どこで死ぬのか、あなたは決めているのかな?」
「そんなの、決められません。だっていつ死ぬのかも決めていないものですから」
「穴は掘ったことがあるかな?」
「はい。恋人を埋める時に」
 
 若い人が穴を掘っている。虹の始まりを誰かが見つけたらしいという噂が街を包む。
「どうして上に向かって掘っているのですか?」
「落ちてくるんです」
「落ちてくる?」
「そう。落ちてくるんです」
「そうですか。何が落ちてくるのですか?」
 若い人はこちらを一度も見ない。わたしには見えない穴の先を見つめている。
「本当の意味、本当の熱、本当の価値、本当の青、それらを全部ギューっと、わかりますか?こうギュー!っと絞るんですよ。ほら、寺の坊主が廊下を拭くまえに布を固く絞るあの感じですよ。そうするとですね、ひとつだけ、たったひとつだけ、雫が落ちます。その雫がですよ、この上から落ちてくるはずなんです。だからワタシはここで掘り続けていなければならないのです。え?その雫が欲しいのか?ですって?違います違います、ワタシのようなモノには勿体無い。あれは世界が終わるその前夜、何も知らずに愛をさがして喚く、親のいない赤子の口を濡らすために落ちてくるのですから」
「赤子は喜ぶでしょうね」
「穴は掘ったことがありますか?」
「はい。父親から逃げる時に」
 
 帰り道、
 産まれたばかりの人が穴を掘っている。世界はついさっき戯言になってしまった。
「どうして掘っているのですか?」
「わたしはここで春の風を待っている」
 
                       了

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?