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Genesis1「地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた」

創世記1章を読み、最も印象に残ったのは、「闇の存在」である。
神が最初に存在させたものは「光」であった。
光と闇をつくったのではない。
地は茫漠として何もなく、ただ闇が、闇だけが大水の面にあった。
そこには無が、有った。

そして神は、「光、あれ」と仰せられたのである。


私は常々、神の天地創造に少しばかりの違和感を持っていた。
それは「なぜ天地創造したのだろうか」という率直な疑問であった。

天地創造をしなければ、私というものは存在しなかった。
フランスの哲学者、デカルトは「我思う、ゆえに我あり」と語ったという。
我は思う。我々は思う存在である。何も思わずに、在ることはできない。
そして我が存在し、悩み、生きることには、苦しみが伴う。闇がある。

闇を身近に感じてきた私は、なぜ、神が天地創造をしたのかがわからなかった。
まるで、苦しむために生まれさせられたかのような…小さな違和感。
神が人類を愛しているというのであれば、なぜ、我々を創造したのであろうか。

だが今日、私は知ることになる。
神は最初に光を存在させたということ。
それから、良いと思われるものを次々とつくられたこと。

それはまるで、
闇を良いもので埋め尽くそうとするかのような、
黒い世界を神の愛で満たそうとするかのような、

輝くような世界のはじまりだったのだ。


「神は光と闇を分けられた」


それが天地創造であったのだと。


また、神は似たものとして人をつくり、祝福してこう言われる。
「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」

神が闇をたくさんの良いもので満たしていったように、我々も世界を良いもので満たすために存在しているのである。

我思う、ゆえに神あり。
私の中には無がある。闇がある。ゆえに、神はいる。私にも必要だからだ。良いもので満たされることが。


神が闇の中で「光、あれ」と言ったように、私も光になりたいと願う。
そして、ことばで神が世界をつくったように、私もこうしてことばで世界をつくるのである。


「神はご自分が造ったすべてのものを見られた。
見よ、それは非常に良かった。夕があり。朝があった」

夕のあとに、
朝がやってくる。

闇の中で、
光が輝いている。

私の中で、
神の愛が理解できた日。


※4/26 一部加筆
©新改訳聖書2017

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