愛の限界

【ジェンダーに関するnote】
ジェンダーフリーについて思う事恋愛という幻想と呪いフェミニズムとミサンドリー愛の限界

ここ最近、フェミニズムや女性差別についていろいろ考えたんだけれど、最終的にたどり着いたのは、「~~愛」で物事を片付ける事の限界です。今回はいつも以上に考えがまとまっていないので、思っている事を羅列するだけになります、、、

「愛の幻想」は人間を解放するよりも、むしろ縛ってくるのではないか?という疑問だ。

前回のWの悲喜劇で議題に出していた「愛情」問題(1時間29分くらいから)で、あまりうまく話がまとまらなかったけれど、「嫌い」という感情を持つ事も人間の権利だと思うのです。「愛が無くても責任があればいい」でヤリマンに詳しいおじさんと田嶋陽子は同意しているのに、「親からの愛が子供には必要でしょ」と言うりゅうちぇるで意見が分かれる。

育児の問題を、「子供への愛」だけで片付けようとするから、親は子供を愛して当たり前という前提を作るから、親の愛情を受けて育って健全な成長とか思ってるからこそ、救われない子供も出てくるんだと思う。

差別は良くない!と、とても綺麗な主張をしている人たちが、親であれば子供を愛して当たり前と普通に信じているって、けっこう怖い事だなと思うのです。
番組の中で「僕は人生のテーマが愛なんです」と言うりゅうちぇるの考え方では男女の緩衝材にはなり得ても、問題を解決する事は出来ないと思ってしまった。

嫌いになる権利

男性差別、女性差別の問題に、男性嫌悪、女性嫌悪が絡んでしまってはいけないと思うのですが、根本的にはそういう生理的嫌悪を含んでいるという事は上野千鶴子の時代から言われていた。しかし「嫌悪」してしまう人は人として間違っているのだろうか?何かを嫌悪する権利もあるのではないかという事です。

簡単に言うと、

全ての男が嫌い
全ての女が嫌い
自分の親が嫌い
自分の子供が嫌い
全ての他人が嫌い
自分が嫌い

こう思う事は人として間違っているのだろうか?

今のご時世では言いづらいのかもしれないけど、LGBTQなんて「生理的に気持ち悪い」と思う人がいる事も認めた上で話を進めなければなければならない。たとえばこの記事を見てほしい。

これをいわゆるLGBTQの人たちは非難している。でもよく見てほしいのは、

「女子の競技に男性の身体で、心が女性だからっていって競技参加して、いろいろメダル取ったり、そういう不条理なこともあるので少し慎重に。」

これは正しいよね?男と女の決定的な違いは、筋力と子宮でしょ。競技に筋肉が関わるものは、生物的な性で判断して当たり前。
もちろんこの下の文の内容はあかんと思う。でもそれはこの人が言ってるわけじゃなくて、こういう声もある、と書かれていますよね。

「人間は生物学上、種の保存をしなければならず、LGBTはそれに背くもの」

「生物学上、種の保存をしなければならず」がまず根本から間違っていて「国家運営上、奴隷の確保が最優先なので」が前提なんだよね。たぶんだけれど、奴隷労働させられてる事を改善した方がいい。「あ、もう奴隷使えないのか、じゃあ次は、、、」ってなるじゃん。

「社会運動化・政治運動化されると、いろんな副作用もあるんじゃないでしょうか」という点も決して間違いとは言えないと思う。現に立憲、共産はLGBTを利用しているし。社会運動している人たちは、どこかでうっすら相手を「人として間違ってる」と糾弾しているのだなと感じてしまうのです。これも単に自分たちの都合の良い点だけをチェリーピッキングしてるだけ。だから発言がダブスタになる、「他人がやったら不倫、自分がやったらロマンス」じゃ誰も共感しない。

知らないものを気持ち悪いと感じるのは、人間という動物にとって重要な傾向なんだ。だからこそお互いの理解が必要なんだけど、「お前は間違っている!」と突きつける正義の快感を忘れて、根本的な問題を見つめようよ。

たとえばLGでの結婚が認められて、生い立ちの不幸な里子をもらって育てるための法整備は、共通の利益に通じるよね。解決出来そうな問題をつなげていく事だって出来るじゃないか。

声が大きくなる事、軍勢が増える事を喜んで、本質を忘れて解決を忘れている人が多すぎる。

嫌いでいい

嫌なら嫌でいいんだよ。私は以前も書いたけど父親が嫌いでしょうがない。でももう嫌いでもいい、わかりあわなくてもいい。法律上しょうがない部分はやるけど、それ以外はやらない。それでいいんだ。

父と私はお互いを好きと思える関係を構築出来なかった。でもそれに罪悪感を感じる必要はない。それを実現するには、いち早く自立して自分で生活をしていく必要があった。同世代から見たらかなり苦労は多かったけれど、私は「親に助けてもらわない」を選んだ事で自由になれた。

決して「嫌だ」と思う気持ちを親に解消してもらおうとはしなかった。正解を相手に求めるから、説得しようとしてしまうし、自分に正義があると信じるからこじれる。これじゃ何も解決しない。

被差別者の刃

被差別者の刃は非常に効果が高い。反論してくる人を「差別者」と糾弾する事が可能になるからだ。

そして道徳的に相手を納得させたときよりも、嫌悪している相手をやり込めた方が絶対的に気持ちいいんです。本当は「気持ちいい」って思ってるでしょ?でも、そうではないふりをしますよね。「嫌い」ってすごいパワーを持ってるんです。その「嫌い」という感情に「正義」の剣を与える事で悲惨な事になってしまいます。

きれいな意見は見た目は良いけれど、汚い意見を排除する力もある。それこそ差別の始まりなわけで、被差別者の刃を気持ちよく振り回す差別者がいわゆるツイフェミみたいになってしまうだと思う。

そういう浮ついた理想論についはてエヴァンゲリオン旧劇場版での会話に通じるものがある。

レイ「都合のいい作り事で、現実の復讐をしていたのね」
シンジ「いけないのか?」
レイ「虚構に逃げて、真実をごまかしていたのね」
シンジ「僕一人の夢を見ちゃいけないのか?」
レイ「それは夢じゃない。ただの現実の埋め合わせよ」
シンジ「じゃあ、僕の夢はどこ?」
レイ「それは、現実の続き」
シンジ「僕の、現実はどこ?」
レイ「それは、夢の終わりよ」


やっぱり、お互いの理解を深めていくのに必要なのは、綺麗ごとではなく「笑い」だろう。ゲイの人がどう思ってるのかわからないので的外れかもしれないけれど、巨乳好きな人が女性の胸を服の上から見るのと同じように、男性のブリーフの盛り上がりを見ているのかもしれない。なんというか、自分はそうは思わないけれど、こう言われたら納得出来るし、下ネタとして笑いに変換してくれたら理解も深まって「ああ、そういう考え方もあるんだな」みたいになっていくのではないだろうか?共感ってそういうものじゃない?

相手の「好き」も「嫌い」も認めてこそ、差別はなくなっていくはず。

だから自分みたいなおっさんが、女性のおっぱいが好きで、ふとももが好きで、パンチラが好きで(これは冷静に考えると何がうれしいのかわからないんだけど、やっぱりきっと見えたらラッキーな気持ちになる)あっても許して欲しいのです。

アニメのキャラで胸が強調される事におぞましさを感じる人がいるのもわかる、でもそれがつるぺただったらいいの?むしろそっち方が興奮する人もいるけどいいの?自分の気持ちだけが正しいの?と思う。

正常性バイアス


人間が予期しない事態に対峙したとき、「ありえない」という先入観や偏見(バイアス)が働き、物事を正常の範囲だと自動的に認識する心の働き(メカニズム)


私は自分の子供が好きだし愛情を注いでいきたいと考える。でもこの気持ちの根源となるものがどこに根ざしているかといえば、育ってきた環境の中であって、いわゆる道徳や宗教といった社会通念であったりもする。そこで育った「当たり前の考え方」が、正常性バイアスがかかってる事を忘れてしまうんですよね、、、、

夫婦間も同じで、「愛し合っている前提」で制度が組まれると、そこからはみ出てしまう人が救われない事が出てくる。

手塚賞を受賞した「妻が口をきいてくれません」を読んで、この妻と夫の二人の個人として確立されていなさが、ものすごくイライラした(狙って描いてる作者はすごい)。どちらも相手に依存したまま結婚という制度に組み込まれているのです。これは本当に地獄だなと思った。

愛と権利の問題を混同しない

差別はきれいごとでは解決しない。だからこそ、道徳的に相手を責める事は結果的に解決が遅くなる。田嶋陽子はその辺をちゃんとわきまえていて本当は結構恋多き女なのに最初っから「愛が無くてもパンがあればいい」と言っている。「パン(権利)」主体の主張なんだよね。パンがあって(自立出来れば)こそ、愛が成立するという思想です。でもTVでは男相手に切った張ったをする姿をフィーチャーしていたし、私の母親もその姿を「かっこいい」と言っていた。その発言の根本には「男性への恨み」がこもっていたのだと理解できる。

私たちの世代は、そういった力を政治的に利用する人たちがいる事も理解しているはずで、もうそうならずに本当に公正な世の中を目指せる土台はあると信じたい。
被差別の刃は分断しか生まない。BLMだってANTIFAだって、結局はより分断が進んで、距離が一時的に離れただけでなんの解決にもなってない。

男女差別を解決した先にはすごく良い世界が待っているように言うけれど、その先はもっと難しい問題に立ち向かう必要が出てくるのだろう。

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