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自分に寛容になるということ

寛容になると、
いろんな人の考えや価値観、視点や視野が自分の中に入ってくるようなイメージが湧いたから、この写真のようにたくさんの人が居る感じがしっくりくるな〜と思った

寛容とは
心が広くて、よく人の言動を受け入れること。
他の罪や欠点などをきびしく責めないこと。
また、そのさま。

寛容とはそういう意味らしい。
じゃあ、自分に寛容になるってどういうこと?となると、

日常でいうと…
夜、もう寝ようと思ってハミガキをして寝る準備は万全!と寝床についたのに、チョコが無性に食べたくなったから食べちゃう…
とか、
仕事中に作業ミスをしたり、間違えてしまったときに、ただ自分のミスに対して卑下したり、過剰に悪いと思いすぎることなく、今からより良く作業するためにどうしたら良いか?を振り返り作業する
とかかな…

今回、ひとのこと専修ゼミ《チャクラ》
自分に不寛容になっているところがはっきりした

今、星読み講座を準備中なんだけど、
私がサロン・ド・フォンセで開催したい講座は、
いわゆる一般的に、星読みの講座と言われるような講座内容とは違うことをやってみたいなと思う

西洋占星術をメインに、星を自分で読めるようになる知識を伝え、その知識を使って実際に星読みをやってみる実践をして、プラス雑談!
星のことやら占いのことやら自分の人生のことやらその他のことやら、その人が疑問に思っていることや不思議に思っていることなんかを、講座の内容に沿っていなくても、いろいろおしゃべりできる時間になると嬉しいなと思う

そんな、講座と言われたら講座のような、そんなやつがやりたいんだと思っていたけど、なんか、本当にそんな内容で良いのか?
と、頭や心の片隅のどこかでずっと思っていたから、

こんな自分に対して"寛容になる"とは?
となったときに、

『そんな内容でも役に立つと喜ぶ人もいるだろう。ただし、役に立たないと怒ったり不満足だと思う人もいるだろう。

様々な人が喜び、役に立つような講座ができない自分が今日いたとしても、それで講座を開催することを諦める必要はなくて、いつの日か今よりも成長した自分が、様々な人が喜ぶような講座を開催しているかもしれないから、今日の今日の自分に寛容さを持ってみようよ』

との話があり、
なんか、寛容になることは、今出来ないことを諦める、というふうに漠然と繋げていた節があったから、まずはそんな必要なんてないんだと知りホッとした
→こちらは寛容プラス忍耐が必要になってくる

あとは、相手に対して私が思う
わかりやすい、受け止めやすいことをすることが大事だと思っていたが、そうでもないんだとも知った。
野球で例えると、私が投げたボールが相手がグローブを構えているところにドンピシャで届かないことがあっても良い。
暴投するときもあれば、なんなら球速が落ちてグローブに届かないときもある。
それでも、
「ボール取ってきて〜」と取りに行ってもらうときもあれば、相手が取りに行きたくないというなら私が取りに行くことがあっても良いってこと。

そして、私が思う
わかりやすい、受け止めやすいことが、必ずしも相手にとっても同じとは限らない。
だって、人は様々。多種多様なのにね。

私にとって、自分が自分に寛容になるということは、自分のやり方も相手の受け止め方もどうであってもよくて、ただ、どうでもよくないのは、

私はどうしたいか?どうありたいか?

その他はどうでもよかったりするんだということを思い出した。
自分に不寛容だったから、どういうやり方が良いのか?と、やり方に拘りすぎていたし、自分の大事なことを軸に考えていなかった

前回投稿した
『理想が高く視野が狭い』
になっていた私

まずは自分に寛容になってみよう
まずはそこからかな…

補足:
そういえば、先日、寝起きに
「寛容に」
と浮かんできて、その後に
"清廉潔白"という言葉が浮かんだことがあった

清廉潔白とは、
心が清くて私欲がなく、後ろ暗いことのまったくないさま。
「廉」は私欲がなく、けじめがついているさま。
「潔白」は心や行いがきれいで正しく、やましいところがないさま。

自分自身に寛容なときって、清廉潔白な状態に近いんじゃないかと今日思った