見出し画像

ありのままに生きる〜分離から統合へ〜

この記事は認知心理学の叡智を分かりやすくお伝えするものです。第一章には、具体例として、私の認知の変容(トランジション)を描いた物語を示しています。第二章には、メンタルモデルという認知心理学の概念について説明しています。最終章には、自分軸と他人軸という概念について、私の見解を示しています。おまけには、初回のCoaching講座を終えた感想と、HOMEのこれからについて少し書きました。

この記事は
『自分の人生に悩んでいる』
『自分をもっと知りたい』
『自分の人生の軸が定まらない』
そんな思いを抱えた人にとって
何かヒントがあるかもしれません。

そうは言ってもなぜ、私はこの記事を書いているのでしょうか。

私は、あなたを変えたいわけではありません。
善悪を説きたいわけでもありません。

ただ、私という人間をありのままに、お伝えしたいのです。そして私を通して、私が人生を変えるきっかけとなった叡智について、お伝えしたいのです。
大切なあなたに。
未だ見ぬあなたにも。

第一章〜私の認知が変容する物語〜

あなたは『ありのままに存る』ということについて、思いを巡らせたことはありますか。

私は、どうやらこのことについて、思いをよく巡らせてしまう人間のようなのです。そこに私の痛みと情熱があるようなのです。

思えば私の人生は、『ありのままに在れない』人生でした。

もはや原点の記憶が曖昧なほど、私の人生はその体験の連続でした。

私は幼少の頃、父と母、そして2つ上の兄と暮らしていました。家は、私にとって、時に地獄でした。感情のままに暴力を振るう兄。家庭から目を背ける単身赴任中の父。兄の暴力に屈し、父と向き合えない母。私は、理不尽な暴力に絶望を感じながら、望むように愛を感じることができない恐怖や悲しみに暮れ、幼少期の多くの夜を過ごしました。

私は、胸が痛かったのを強く覚えています。心は人の胸にあるのだと、幼いながらに確信し続ける日々でした。そうした日々は、私の無意識下に『ある信念』を与えました。それは『この世界は、無条件の愛を与えてはくれない』というものです。

そうしなくては、この痛みや苦しみ、恐怖から逃れることはできなかったのです。この信念は、確かに思い込みです。しかしこの信念を持つことで、私は自分の絶望的な状況に意味づけをして、客観視することで、この痛みを私自身から分離することに成功しました。『この世界は、無条件で愛を与えてはくれない、だからありのままの私が愛されないのは仕方ないんだ』と。

私は考えました。どうしたら、この世界に適合して生きていけるのだろう。どうしたらこの世界で苦しい思いをせずに生きられるのだろうと。

私の頭の中は、愛されるための戦略でいっぱいでした。ここから私の、愛されるための終わりなきプログラムがスタートしたのです。まるで、コンピューターのように。

そこからここに至るまでの私の人生は、複雑なようで、非常に単純でした。私という人間のOS(オペレーションシステム)は、どうやったら愛されるか、です。愛されるためのに必要な行動が、大量のアプリケーションのように、生成され続けました。

私はあらゆることを頑張りました。学業やスポーツでいい結果を出せば、両親にも同級生にも先生にも彼女にも、褒めてもらえました。プログラムは正常に稼働し、私の愛されない痛みは、こうした他者からの承認によって、和らいでいきました。実際に、人生最高の幸せと感じたこともありました。しかしその幸せは長くは続かず、また次の行動に移らなければなりませんでした。怖かったからなのか、その快楽に酔いしれたのか、いずれにせよ私に『頑張らない』という選択肢はありませんでした。ただ、どこまで頑張っても、一定の達成感はありながらも、完全に満たされるような感覚は訪れず、私はひたすら走り続けるしかありまけんでした。

また私は、皆に好かれる自分を演じました。場の雰囲気を壊さないように慎重に周りの様子を伺い、自分を隠していました。自分に対して向けられる『キモい』『ウザい』などの表現はとても苦しかったですが、必死に適応していきました。空気を読む力、柔軟な会話スキルは、どんどん上達していきました。結果として、仲のいい友人はたくさんできました。しかしどれだけ人の輪の中心にいても、友人が増えても、私に安心は訪れず、どうしようもない孤独への恐怖がありました。

このような実体験は、本当に挙げ出したらキリがないのです。なぜなら私の生命活動の全てが『無条件では愛されない』この世界に適合するための行動として生まれているからです。例外はありませんでした。

悲劇的な点は、私という人間のOSが『無条件では愛されない』である以上、そこから生み出される現実は全て、『やっぱり私は無条件では愛されない』ことの証明になってしまうことです。私が条件付きで愛を感じれば感じるほど、無条件の愛という真の願いからは遠のいていくのです。そして、その条件付きの愛を失う恐怖は増していき、ありのままでいることなど、到底できなくなっていくのです。

医学部受験に合格し、医学部の中での成績にも満足し、課外活動でも成果を上げ、パートナーもでき、周りには人が増え、私の痛みはどんどん軽くなっていきました。

しかし、こうして25年以上使用してきたOSが、転機を迎えます。

私の人生における最大の関心事は、常にパートナーとの人間関係にありました。私は常に、良きパートナー、すなわち相手にとって理想的なパートナーであろうと務めました。それは当然、パートナーの愛を獲得するためでした。しかし、私が人生で最も尽くしたパートナーは、私以外にも愛する人がいると告白しました。その現実を前に私は、愛を喪失したと感じました。そして、どれだけ特定の一人のパートナーを愛したとしても、私は愛されないのだと、絶望しました。

それからの私は、より一層、したたかでした。愛され戦略を広げました。この人は自分を愛してくれるだろうか、他にもっと愛してくれる人はいないだろうか、同時に複数のパートナーから愛を受け取ることはできないだろうか、そんな考えを巡らせ、行動するようになりました。しかし、私は充足感を増しながらも、真に満たされることはなく、築き上げた関係性の全てが、必ず終わりを迎えていきました。

そうは言っても正直なところ、私はどんどん、充足感を得られるようになっていました。愛を手に入れる戦略に長け、失ったとしても次がある、そう思うことで痛みを和らげることができるようになっていったのです。このOSで必死に生きてきた25年間の努力の結晶とも言えます。

ただ、この旅に終わりはないようにも、思っていました。私はいつになったら、十分な愛を獲得できるのだろう。

そんな時でした。私は、なんとなく惹き寄せられるように、とある学舎に入りました。そこで私は、認知心理学を始めとした、人についての叡智に触れ、私自身の心の奥底に触れる機会を得ました。

そうしてようやく、気付いたのです。私には上述したような過去の痛みがあり、私は世界に対する信念を抱くことで、私自信を世界から分離し、痛みを和らげた。私は無意識下のその信念をOSとして、心の奥底にある痛みを回避するプログラムを、ずっと生きてきたのだと。

気付いたのはそれだけではありません。その痛みを思い起こすことで、本当はその時にあったはずの願いにも気づくことができました。その願いとは『私は本当はありのままで愛してもらいたかったし、常に世界と繋がっていたかった』というものでした。そして『あらゆる存在はありのままで愛されるし、全ての存在は繋がっている、そんな世界であってほしい』という祈りが、私の中に新しく生まれたのでした。

この瞬間から少しずつ、私はこの祈りに立ちかえるようになってきました。今の私は、いつどこでも望むままに、私の魂とでも呼ぶべきこの祈りに触れることができます。ここから私は、メンタルモデルではなく、私の祈りを、生命活動のOSとして選択することができるようになったのです。

私が自らの祈りを知らなかった時、私には無意識下に眠る、唯一絶対の信念がありました。そしてその信念に気づくことすらできず、目の前に起こる不快を軽減するための最適な行動を取るコンピューターのように生きてきたのです。

世界は、無条件では愛されないかもしれないし、ありのままで愛されるかもしれない。そう思えている状態が中庸で、どちらかに断定されていない状態です。

中庸には、善悪はなく、ありのままで愛されない恐怖や痛みも、ありのままで愛される喜びや幸せもあります。ただ『あるものが、ある』のです。

ここが実はかなり重要なのですが、決してポジティブシンキングで、『ない』を『ある』に変えているのではありません。世界は無条件に愛され『ない』と感じる私も、ただあるのです。それをもし変えたところで、真の充足感は手に入りません。『ない』が『ある』こともありのままに受け入れるのです。

その上で、その中庸の状態から、どのOSで生きるかを選択するのです。ここで別に、どのOSを選択するかに、善悪はないのです。ただ結果として私は『あらゆる存在がありのままで在れますように』という祈りを出発点にして、生きることが増えました。OSを差し替えたのです。

気づけば私は、世界を善悪で判断することが無くなっていきました。白か黒かは私の関心事ではなくなりました。白と感じることも、黒と感じることもあり、それらは溶け合っていて、ただ私や世界の中にある。これが、あるがまま、ありのまま、という状態です。私はこの世界観を、陰陽の叡智をかりて、見出しのように表現しています。

私は、これまで感じたことのない充足感を感じるようになりました。『この世界は一つであり、愛に満ちている。私は世界と繋がっていて、ありのままで愛される存在なのだ。』そう感じる時に、その充足感を感じるのです。ただ座り、私の中の魂の源に触れれば、いつでもその充足感を感じることができます。これがいわゆる瞑想やマインドフルネスの真髄であると思います。

もちろん、常にこの充足感を感じているわけではありません。むしろ、この充足感は初めのうち、一瞬の奇跡でした。これまでの私のOSが生み出してきた現実に囲まれているうちは『無条件で愛されない』と感じる体験も少なからずありました。しかし、少しずつ新しいOSで現実を創造するうちに『ありのままで愛されるし、世界と繋がれている』と感じる体験が増えました。

私が、大自然の中で仲間と集い、美しい自然の恵みに触れ、仲間と真実を語らい、抱擁を交わすのは、そうすると私のこの祈りが真実であると、より強く感じることができるからです。私はこの内面的な統合を、現実に創造しているのです。

どちらのOSで生きることが、善で悪、ということはないのです。ただどちらのOSの人生もあるのです。その上で、私たちは選択をすることができるのです。

これが私の魂の源から湧き上がってくる痛みと願い、そして私が選択した祈りについてのお話です。私のお話を最後まで読んでくださり、心から感謝申し上げます。もしご縁があれば、『ありのままに在る』を、あなたと共に体験できる日を楽しみにしています。



第二章〜認知心理学『メンタルモデル』とは〜

ここから先は、私の語りをもとに、新たな人間理解のための内的テクノロジーである『メンタルモデル』について解説をしていきます。少しでも、あなたの理解の一助になれば幸いです。下記の本の内容を引用・参考にしています。認知心理学領域では有名な、初心者でも読みやすい本です。


この本で定義する「メンタルモデル」とは、誰もが無自覚に持っている「自分は/世界はこういうものだ」という人生全般の行動の起点になっている信念・思い込みです。(この世界は無条件では愛されない、だから自分は無条件では愛されないのだ、という信念・思い込みを、私は持っています)

私たちは幼いころに「この世界にあるはずだ」と思っている大切なものが、期待していた形では「ここには”ない”」 という何らかの欠損の"痛み" を体験します。(生まれた頃、幼い頃の私は、世界には無条件の愛が存在するはずだ、と期待していたのです。しかし、それがここにはないという体験をしました。)

その際に、「自分は/世界は ◯◯なんだ、(だから仕方ない)」と思考を使って理由づけし、この痛みの感覚を切り離そうとする、という働きが無意識で起こるようです。(私は、自分は/無条件に愛されない、だから仕方ないと思うことで、この痛みの感覚を切り離していました。)

この時に形成される「自分は◯◯だ(だからこの痛みが起きたんだ)」という自分やこの世界に対する"判決" のような完全無自覚な信念・思い込みをメンタルモデルと呼びます。

このメンタルモデルは、それが形成されてから人生に無自覚な行動パターンを生み出し、あなたが体験する現実を創り出す人生のOS(オペレーションシステム)になっています。(私はこれまでの人生の全ての生命活動をメンタルモデルをOSとして創り出してきました。)

自分のメンタルモデルとその元になっている痛みを理解し、その痛みの奥にある真の願いを理解することで、人生のOSを再選択することができます。(私は、メンタルモデルとその奥にある痛みに気づき、真の願いを人生のOSとすることを再選択しました。しかしもちろん、今でもメンタルモデルのOSに切り替わる瞬間は多々あります。その度に、魂に立ち返り、再選択をしたり、しなかったりしています。)

何度も注意深くお伝えしたいのは、ここに善悪は存在しないということです。痛みを理解しなければならない、願いを理解しなければならない、人生のOSを再選択しなければならない、ということはないのです。あらゆることを中庸で捉え、選択するだけ、です。

メンタルモデルと祈りは、個々人に特有のものが存在しますが、大きくはこの4つに収束されます。自分に当てはまるメンタルモデルを探してみてください。この4型は大枠であるため、中心となる型以外にも準ずる型が存在する複合型の場合もあります。あくまで、自分に得意的なメンタルモデルを見つけるための一歩目として参考にしてみてください。

ザ・メンタルモデルを参照

メンタルモデルによる選択は、どこまでいっても消えないかもしれないですし、それも含めて、あるがまま、なのです。ただ私は、痛みを受容し、メンタルモデルを超越して、真の願いから出発した人生がもたらす命の喜びの感覚を、あなたと分かち合いたいのです。



ここからはもう一段、深く、メンタルモデルのお話をしていきます。

私たちは、生まれてから必ず、世界はこうあってほしいと無意識に抱いていた願いを、大なり小なり、打ち砕かれた経験を持っています。赤子であり幼子の無力な私たちには、当然起きてしまうことです。

いつも両親と同じ布団で眠りについて、朝は両親の温もりと共に目が覚める。しかしある日、目を覚ますと、隣には両親の姿がない。その瞬間、表現できないほどの恐怖と焦燥が全身を巡り、大泣きをする。すると、キッチンで朝ごはんの支度をしていた母親が駆けつけてきた。

今にして思えば、なんだそれくらい、のような体験ですが、世界に絶対の信頼と安心を期待していた3歳の子供にとって、これは間違いなく一大事なのです。幼少期という多感な時期であることに加え、親のような特定の個人が絶大な影響力を持っていることが、今にしたらちょっとした痛みを、激痛に変えているのです。

そうして子供は、世界を自分の潜在意識で定義して、その世界と対峙するようになるのです。例えば上記のような体験をした子供は、世界をこのように定義するかもしれません。『この世界には、絶対に信頼できて安心できる繋がりなどない。結局私は、ひとりぼっちなのだ。』そして、このように自分を客観視して、痛みを和らげるのでしょう。『だから今回、私がこうして一人ぼっちにされたのも仕方がないことだ』と。そしてそこから先は、どうすればこの世界に適合できるか、この世界で少しでも痛みや恐れといった不快な感情を感じないように生きられるかという、世界との対峙が始まるのです。

世界との対峙の仕方は2種類しかありません。戦うか、逃げるか、です。それを克服と逃避と呼びます。人間はどちらの戦略も取りますが、必ずどちらかの戦略に偏っています。

例えば克服型の場合、上の子供はやがて大人になり、一人でも生きていけるように、どんどんと力を蓄えていきます。一つ、また一つと一人ぼっちで生きるための力を蓄える度に、不快感はマシになりますが、残念ながら満たされる感覚までには至りません。

あるいは逃避型の場合、上の子供はやがて大人になり、人と離れる痛みを恐れて、世界と関わることをやめ、引きこもる生活を始めていきます。痛みや恐れを感じる機会を減らすことはできますが、残念ながら満たされることはありません。

メンタルモデルは潜在意識にあるため、気づくことができません。その子供が認識できるのは、現実で起きた出来事に対する自分の快・不快だけです。そしてその子供が行える生命活動は、その快・不快に反応して、克服か逃避かの解決策を練り、行動に移すことだけなのです。

そうするとその子供は、自分にとって不本意な現実だけを創り出すことになります。なぜならその子供は本当は『この世界は信頼と安心に満ちていて、私という存在は常に世界と一つで繋がっている』と願っているからです。その願いと正反対の信念で生きている限り、生み出す現実は真の願いから遠ざかってしまうのです。

こうしたメンタルモデルをOSとして、世界と対峙し、世界に適合しようとする人生を『適合の世界で生きている』と表現します。

ザ・メンタルモデルより引用

適合の世界は、自分と世界が別々であるという前提から始まります。ゆえに、その世界で生きるために、世界に適合しようという生命活動が起きます。世界での評価・期待・常識・正しさを知り、そこに合う自分は良い自分になり、そこに合わない自分は悪い自分になります。こうして自分の中に明確な分離が生まれます。これが自己分離です。

戦略は2つしかなく、ダメな自分を隠すか(逃避)、ダメな自分を成長(克服)させることです。そうして、外軸(他人軸)に合わせて、分離した自分を生きていくのです。

ザ・メンタルモデルより引用

では、メンタルモデルではない、真の願いをOSとして選択するとはどういうことかをお伝えします。

ザ・メンタルモデルから引用

目の前で起こっている現実を前にした時、そこに不快感を感じることがあります。放っておけば、無意識のうちに人はメンタルモデルの思い込みに沿って現実を解釈して、課題解決行動を起こします。

あ、これをすると良くない、どうしよう。というものです。例えば、あなたの大切にしている考えを聴取に話しているときに、聴衆の表情に期待通りの反応がないと、不安や怒りが湧いてくるかもしれません。そうするとあなたは、本当はもっと話したかった内容を短く切り上げたり、話のオチを咄嗟に変えたりするかもしれません。

結果として、あなたは聴衆からの拍手喝采や最高の評価を得るかもしれませんが、自分のありのままの想いや考えを相手に伝えたい、というあなたの真の願いからは遠ざかってしまうのです。

この現実を避けるためには、その不快感を感じたときに、自分の魂に立ちかえる必要があります。ああ、自分はこういうメンタルモデル(思い込み)であるから、こういう風に善と悪に自己分離していて、だからこの現実を不快に感じているのだな、と。ただそう感じている自分がいることを、あるがままに受け入れるのです。

真実は、聴衆はあなたの話を興味深く真剣に聞いているかもしれないし、そうでないかもしれない、なのです。真実の行方は中庸にあり、どちらに偏るものでもありません。

そして、自分のメンタルモデルの痛みと共にある、本当の願いを思い出すのです。そうすることであなたははじめて、中庸の状態に至ることができ、本当の願いを選択する準備が整うのです。

真実はどちらか分からないけれど、自分の願いに沿って、ありのままに想いを話してみる。

これが、分離から統合へのプロセスです。世界と自分を分離するのではなく、世界とは自分の投影であり、あるものはある、ありのままでよいのだと自分を受容するのです。そうすると、自分の中の分離も消えていきます。愛も恐怖も、あるものはある、のです。この統合を自分の中に感じるとき、あなたは本当の意味で満たされるのです。



最終章〜自分軸と他人軸とは〜

ここまで話を聞いて、あなたは狐につままれた気持ちになっているのではと思います。それが自然かと思います。むしろ、鵜呑みにせず、疑ってください。いずれにせよ、自分とは何かなど、冒頭のあなたの想いについて改めて考える一助になっていたら、幸いなことです。

最後に、世の中の現状を私なりに分析したことについてお話します。



自分軸と他人軸、という話があります。

メンタルモデルの話を前提に、これを説明するのであれば、他人軸とは、外側の世界の軸に適合する人生を意味します。つまり、メンタルモデルをOSとする人生です。世の中のほとんど全ての人が、このOSで生きています。メンタルモデルのOSで生きている人のうち、克服型の人は、適合能力をぐんぐんと伸ばし、社会的成功を収めていきます。世の中で成功している人の殆どは、この克服型の人なのです。

そして私にとって残念な真実は、世の中ではこの他人軸の克服型のことを、自分軸で生きる人、と呼んでいることです。世の中的な自分軸というのは、この世界に適合して成功者になるために、戦略的に自分の人生をデザインしていきましょう、という考えです。キャリアデザインや自己啓発セミナーなどの内容は、殆ど全てがこれです。しかしこれでは、どれだけ頑張っても頑張っても、マシになることはあっても、満たされることはないのです。

さらに残念な真実は、この他人軸は、連鎖するということです。他人軸で生きる親や師、先達は、往々にして、子供や教え子に対して、世界によりよく適合する方法論を説きます。もし見せかけだけで、ありのままでいいよ、と説いたとしても、子供はその嘘と矛盾を見抜きます。在り方と言説に乖離があるのです。究極的には人は、自分と向き合うようにしか、他者と向き合えないのです。なぜなら、人が創造する現実は、全て自分の内面世界の投影でしかないからです。

一方で自分軸とは、自分の願いをOSとして選択して生きる人生を意味します。自分の魂に立ち返り、痛みと願いをあるがままに受け入れ、選択する人生です。自分軸に、社会的成功は無縁です。するかもしれないし、しないかもしれない。社会的成功は全く別物として、そのための努力をすれば手に入るし、しなければ手に入らない。両者は、共存できるほどに無縁です。

人が他人軸の人生から自分軸の人生を選択するように認知を変容させていくことを、トランジションと呼んでいます。あなたがこのトランジションを、理想論だ、修行だ、ともし感じるのであれば、それはとても自然なことだと思います。

実際に、人がトランジションを起こすためには、奇跡のような条件が必要です。世界に対する信念を持ち始める多感な幼い頃に、あなたの周りに信頼と安心に満ちた環境があり、ありのままのあなたが受容されるという体験を積み続けることで、あなたは自分の本当の願いを出発点として生きることの喜びを全身で感じていくのです。まさしくそれは、魂が癒やされるような喜びです。

わかりやすく言うならば、例えば、教育、家庭、地域社会、国家といったあなたの周囲の環境が、どれほどその理想的な環境に近いかが影響を与えるのです。

残念ながら、日本の教育も、家庭も、社会通念、文化、国の制度すらも、理想とは程遠いのが現状です。むしろ私たちは、メンタルモデルというOSを搭載する人間として、非常に優秀になってしまいました。そんな私たちにとって、これが修行のように思えるのは当然だと言えるのです。私たちは世界という外側の世界で生き抜くように生きてきたにもかかわらず、実は世界と自分は一つであり、世界とは全て自分が創造している現実であるというのは、受け入れがたい真実なのです。

ただ、逆に言えば、それぞれの存在にとって、周囲に理想的な環境が整えば、統合はもっと身近に感じられるものとなり、魂が癒やされるような統合の感覚が世界全体に広がっていきます。

例えばそれは、地域社会におけるWell-Beingや幸福の差となって現れてきます。ありのままで満たされるという統合の感覚は、Well-Beingや幸福という感覚に近いです。

もちろんWell-Beingや幸福には、種類や次元が存在します。生理的な充足から自己実現まであり、最も高次のところに、統合による充足があるのだと考えられます。統合は自己受容と自己超越と表現することもできます。自分と世界の分断を超越し、自分の本当の願いが叶うことを感じるという意味です。

決して統合さえ目指せば、生理的欲求の充足は不要だというような、精神論を唱えているわけではありません。生理的欲求の充足は不可欠です。ただ、むしろ私たちの社会のように、物質的な充足が満たされるようになった社会において、統合による充足感は、Well-Beingや幸福において、より一層重要な意味を持つのだろうと感じるのです。

統合は内的なテクノロジーによって実現可能であり、本質的にサステナブルと言えます。一方で、少しでも生理的な不快を除去したいなどの、物質的な欲求には際限がありません。

私は、医療の現場にあっても、そのようなことを感じて生きています。この人は今、それ(診断・治療・ケア)を望んでいる。それはそれとしてありのままに受け入れ、向き合いながら、しかしこの人の魂の充足と、どのように向き合えるだろうかと。どうすればこの人は、あるがまま、ありのままを受容し、魂の充足を感じることができるだろうかと。共にその充足を感じたいと。

そうやって私は『あらゆる存在が、ありのままであれますように』という祈りを胸に、日々生きています。

トランジションの鍵は、ありのままの自分として生きる体験です。しかしその体験は、この世界の日常では、とても困難なはずです。

おまけ〜HOMEについて〜

MATSURIのCoaching Community HOMEは、究極の穏やか空間という、宇高彩の祈りを出発点とする場です。私は彼女の祈りに、私自身の祈りを重ねて、ただありのままにそこに在りたいと思っています。

私の講座では、何かを私が教える、ということが中心ではなく、ただ皆さんと一緒に、ありのままで在る時間を大切にしたいと思っています。私がしつらえるのは、そのための仕掛け程度です。

自分の痛みや願いに触れるワークを行ったり、そこで見つけたことや感じたことを、心理的に安全な場で共有するということをしたり。

私自身、皆さんの前でありのままにお話しするのは、正直緊張しましたし、怖かったです。でも話せて、皆さんから温かい言葉をいただいて、満たされた気持ちを感じました。

そうした勇気や穏やかさを感じながら、皆さんとこの場を共につくっていけることを、心から楽しみにしています。







この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?