まるちゃんの成立(3/3章)/小説 #創作大賞2024
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7.
二〇一七年春、ゆりちゃんは東京へ溶けこみ、人の多いところへぼくをつれていった。おそらくぼくへの教育であり、自分への訓練だった。ふたりきりで、この先本当にだいじょうぶなのかと、ぼくを連れてすごす効果を試しているようだった。
勢いで決めた転職先には、初勤務の日まで一か月半時間があった。それまでは平日の昼間から、東京駅からちかい芝生の上に座って、おひさまに当たってのんびりすごした。
彼女は地面を芋虫が張って歩いているのをいやがりもせずに、まるで魚を釣ったり、青い鳥がやってくるのを待ったりするかのように、ときどき自販機でウーロン茶を買ってきてトイレに行く以外は、みどりの上で黙想していた。
自分に足りていない決定的な素材を探していたのだ。それはぼくもそうだった。
飽きたら移動して、神保町へ行って気になる本すべてを買った。しらない小劇場の当日チケットを買って、なんとなく拍手をすることもあった。ぜんぶおもしろかったけれど、登場人物がキスしようが恋しようが、死のうが勝とうが、実体験には関係がなく、圧倒的にひとりぼっちだった。
神戸にいたとき、ゆりちゃんはいつもお父さんとお母さんのことを語っていて、気をつかったりわがままをいったりしていて、完全に竹内家の一部だった。彼女はそこから外れてしまって、ころがった付属品のようになってしまった。美しかった神戸の彼女とぼくだけの世界は、もうおもいでの中にしかないのかもしれなかった。
ぼくはぼくの力を過信していた。ぼくさえいれば、ゆりちゃんは幸せなのだということが、ちがったとしった。本当にぼくが記念館に入らなければ、彼女の生きた証は失われる気がした。
ただ、ぼくは彼女の前を行きかう通行人の声を聴いてわかった。ここはさわがしいから、こんなところでは永遠には放っておかれない。公共の芝生の上にいるのだから、いつか誰かに声をかけられる。
予知は当たって、ちかくにオープンしたカフェの店員が試飲券を配り歩いていたのを、ゆりちゃんももらうことができた。ゆりちゃんは吸いこまれるようにその店へ行って、その日はやっと人と会話ができたようすだった。
新居に大きな家具は置かなかった。地震がきて倒れたらこわいと、彼女はつぶやいていた。六畳間で、小さな家具たちとふとんとの共同生活がはじまった。
話し相手がいなくて喉の力が弱っていくとき、彼女を笑わせたのは朝ドラと深夜の喜劇番組と、ぼくへのアテレコだった。ひとりぼっちだったから、自分の耳に僕をおいて、スマートフォンでねらいを定めて写真を撮ったり、道端の花とぼくのツーショットを撮ったりして専用のフォルダに集めて遊んだ。また、ぼくの口を耳にあて、ふんふん、へー、とあいづちをうち、あてずっぽうにぼくのセリフをアテレコした。そんなことばかりの春だった。
8.
東京の住まいはちかくにちいさな空き地があって、すてきなアパートだったとおもうけれど、とうぜん神戸の実家よりも狭く、窓も玄関もちいさかったので、ゆりちゃんのにおいが充満していた。掃除機で埃を吸うこともすくなかったので、ぼくから出た埃は、ぼくのきもちをもったまま、この部屋に漂っていた。そんなバラバラになっても、ぼくはぼくだったので、暇さえあれば他のものになりきって静止物の世界を学習した。
電動自転車の鍵や、新型イオンドライヤーのスイッチや、麻のワンピースの光るボタンや、ノートパソコンのエンターキーは、いつのまにかすべてぼくになった。この現象について、ぼくは「ぼくの分散」と名づけた。一方で、明らかに二〇一七年の夏至をすぎたころから、あみぐるみとしての感覚は、夜の添い寝どきだけに呼びおこされるものになって、ぼくはまるで幽体離脱するかのように部屋中の静止物に乗りうつり、きもちの行き来をくりかえした。
こんなふうにできたのは、部屋中ゆりちゃんのにおいがある環境だったからだと推察しているけれど、ふりかえれば、離脱のきっかけのようなことはあった。
夏の終わり、ぼくらは鎌倉へ旅行にいった。家族がつきそわない、はじめての旅だった。彼女は黒い帽子をかぶって、リスの住む寺や名物の大仏、江之島の潮に触れまわった。狭い道のわきに置かれた小さなガチャポンをまわしたら、江ノ電のマスコットの入った、とうめいのスーパーボールが出てきた。
夕方、海水浴を終えた人たちが、地面を濡らして去っていく中、彼女は砂浜海岸の階段に座り、スーパーボールを取りだして、夕日に照らした。ぼくはその膝の上にいて、ハンドタオルをかぶっていた。夏は手汗がひどく、彼女もぼくを汚すまいとして、そんなふうにしてくれるのだった。
じゅわじゅわと押し寄せる浜の水は、ぼくらには大きすぎた。彼女はひらべったい体に潮風を胸いっぱい吸いこんで、巨大なものにあこがれるように上を向いた。
空高く飛ぶ大きな鳥に、スーパーボールを見せつけるように右腕を掲げた。すると、きらりと光った鳥がやってきて、器用に足でボールをわしづかんで奪っていった。
ぼくは襲撃におどろいた。彼女は声を出さなかった。
遠くにいくということは、こんなに突然のことなのかしら、とおもった。もしかしたらこのとき、捕まえられたのはぼくのほうで、彼女の手元にあったのがスーパーボールだったのかもしれない。ぼくの本体であるべき何かは、鳥の巣の素材になってしまったのかもしれない。
もう一つ、気になることがあった。
秋のはじまったころ、ぼくはゆりちゃんのアパートにいて(正確にはいた気がしていて、)しきっぱなしのふとんの枕のそばに転がっていた。長年そうしてきたように、うつらうつら、ゆりちゃんのにおいを染みわたらせて、彼女の帰りを待っていた。
ゆりちゃんはこの日たいへんな寝坊をしてしまって、十分に物事の準備が終わらずに出かけた。窓も開きっぱなしで、かすかに風が入れかわり、部屋の空中には見えない渦ができていた。
空き地からの金木犀の香りに酔いかけたころ、冷蔵庫の下から亀のようなものが這いでてきた。それはたわしのような風貌ではなかった。首元がずいぶんと太かった。
これを再会とおもってぼくはよろこび、そのために何か食べ物をあげたくなった。昨日、ゆりちゃんは部屋でたこ焼きを食べていて、落っことしたまま眠っていたから、それを食べればよいとおもった。案の定、その生き物はたこ焼きを見つけて、何を迷うこともなく噛んだまま、窓のすき間から部屋を出ていった。たこ焼きは連れていかれてしまった。コンクリート壁の隅の穴は、かわずが冬眠している穴だった。生き物は懸命にその穴に入りこんだ。見しらぬ穴と、未体験の雨水の湿り気に、たこ焼きは浸されていった。
もしかしたらこのとき、連れていかれたのはぼくのほうで、枕のそばにいたのがたこ焼きだったのかもしれない。ぼくはとうとう、亀にまるっと食べられてしまったのかもしれない。というより、亀はあの亀ではなく、近所の穴に住むかわずだったのかもしれない。
本当のきっかけは以前として不明だけれど、こうしたぼくの分散で、ぼくはすべての静止物のアテレコができるようになった。お洋服として、ゆりちゃんのすべてに触れることもできるようになっていた。おこがましいことだが、ぼくはいつか、ゆりちゃんのきったツメくらいにならなれるのではないかとおもった。
静止物の中でも、本が特別だとわかったときには、不思議ななつかしさがともなった。眠る彼女のそばにあって、手の内で開かれてあたためられている複数の本は、ぼくと境遇が似ていた。文字は正直で、行間に意味をふくんでおり、それは香りや空気をふくむぼくの編み目と似ているものだったのだ。
似ているから本のきもちになりやすかったのもあるだろうけれど、埃の増える冬は、ページごとの細かい分散にも好条件の季節だった。なじみ深い毛穴はページとページの隙間部分に共感し、頭のわっかは本にくっついているしおり紐の神経を得た。たまにつけられているふせんは、昔、古本屋の店員に張りつけられたテープと似ていてよくしっている感じがしたものだった。文字体は、やさしい筆のタッチでかかれた、ほんのり小ぶりのものがしっくりくるようになった。活版印刷には、その文字判の経験を感じとり、尊敬の念さえいだいた。
ぼくは本にちかくなることに楽しさを覚えてしまった。本から本へと意識を分散し、文字の行列にこころをくすぐられるのは、快感そのものだった。
ある時は「怒りの葡萄」で「残響」で「美しいプランクトン図鑑」だった。また、ある時は「ナジャ」で「11人いる!」で「宮本佳林写真集」や「しょうぼうじどうしゃ じぷた」でもあった。他にもあったけれど、あまりおもいだせないのは、読んでいるゆりちゃんが、それを手に持ったまま別のことの妄想をはじめたり、眠ってしまったりするようなことがあったからだろう。
実はひとつ、本の文字たちにおねがいして、メッセージを紙にうつしだしてもらう約束をしている。いつかゆりちゃんが死んでしまう日までに、彼女に伝えたいことを、メッセージに載せて伝える作戦だ。おばあちゃんになったゆりちゃんが見て、おどろいてくれることを楽しみに、普段めったに開かないページに印字をおねがいしたのだ。
それは、愛する人にだけ伝えることばですこし照れくさいから、ここではひかえよう。
9.
いつかゆりちゃんに家族が増える日を、なんとなくかんがえてみる。
きっとぼくのようなあみぐるみが作られて、その赤ちゃんには新しいあみぐるみが贈られる。隔世遺伝というやつで、ゆりちゃんのお母さんみたいな子に育ったら、きっとその子のあみぐるみの将来はテニスボールだろうか。ゆりちゃんのお父さんみたいな子になったら、ラジコンの操縦席に置かれてミニタリーな風景を見せつけられるんだろうか。
もし、ゆりちゃんにそっくりな子になったら、そのあみぐるみもいつまでもいつまでも大切にされて、お尻ができるんだろうか。
いつかゆりちゃんが死んでしまう日は、きっとぼくも死んでいる。
彼女の葬儀は、たとえこの先の未来に旦那や友達がいなくても、誰かが棺に人形を入れてくれるはずだ。彼女のぬいぐるみ愛は親戚内で有名だったから、ぼくがそこにいなくても、よく似たきいろくてまるいぬいぐるみをあてがって、彼女の孤独な生涯にすこしばかりの同情心を見いだしてお祈りを捧げてくれるだろう。
彼女が死んだら、ぼくはにおいも温度も失って自己をなくし、ただの毛玉になるのだろうから、神保町の古本屋に売られる本や、海外の中古の電化製品屋で売られるドライヤーや、電動自転車のカギの紛失などは、まったくしらないところで起こるのだろう。
彼女の眠っていた部屋のすべては大なり小なりぼくだったから、彼女とぼくが死ぬ時は、部屋の皆も死ぬのだ。
だからぼくは死者の代表みたいな気分になって、今のうちにねがっておく。
公園やデパートの屋上で本を読むのがすきだったゆりちゃんのために、彼女の霊を迎える盆は、東京の表面をなでてすすむ風になりたい。胸いっぱいに物語の変動を受けとめる彼女の魂を乗せる靴になって、おもいでの本の中を旅して読みきかせたい。
ぜいたくだけれど、LEDの光に照らされる広告塔の文字をくみかえて、愛のあることばで歓迎できたら最高だ。そんなお盆はわくわくしてしょうがない。
ただ、ぼくが、ゆりちゃんが死ぬより先に消えるときはどうだろう。
あみぐるみの形が粉々になる日は、いつだろうか。
子供や猫のいたずらで体の綿を引きずりだされたり、まちがえて燃えるゴミに出されてしまったり、悪いことを想像してみる。
けれどそれはぼくにとっては、次の自分のはじまりみたいなものだ。
ぼくはプランクトンのように浮遊生物の一部になって、単細胞から新しい生体をはじめられるかもしれないのだ。光の粒子を駆けぬけて、ダークマターの中をゆらゆら漂って、しらないあいだにおおきなものになっているかもしれないのだ。
人工衛星にキスのようなものをして、隕石なんかを間近で見られるかもしれない。それならいいな、とおもう。
ひだまりについて.
大きな木々に囲まれたUR団地の四階の、子守唄のながれる小さな部屋で、あかちゃんがぐずりはじめた。
ベビーベッドのメリーが、ブラームスの子守唄を流していて、フェルト地のスマイリーマークが揺れて、あかちゃんはきいろいタオル地のツーウェイオールを着せられている。ベッドの横の椅子には、赤色のまるいあみぐるみが置かれて、その体内にはミルクの匂いが充満している。
彼女はあかちゃんをあやすために抱っこして、そのきいろい温かさから、ふと昔のことをおもいだす。
あの日まるちゃんは急にいなくなった、と。
何者かによってどこかに連れていかれたのかもしれないし、わたしがうっかりしてなくしてしまったのかもしれないし、まるちゃんが自分で出ていってしまったのかもしれない。でも、たとえどんな物語があったとしても、わたしがまるちゃんを大切にした時間は変わらないから、だいじょうぶよ、と。
ふと、あみぐるみも父もしらなかった秘密を、静かに胸の内にひろげる。
仕事で疲れて帰ってくるであろう匠さんにぺらぺらしゃべって、不思議な話で混乱させても悪いし、ぼーっとしている間に、またわが子が泣いてしまうかもしれないから、かんがえるのはやめたいとおもっている。でも、そうやって、すぐにかんがえずに済ませられるような簡単なものでもないようだ。
彼女には大人になるまで、ずっと気になっている人がいた。
おなじクラスになるはずだった「安田香」くんという、しらない男の子のことだ。この子は小学校の入学式の前の日に、交通事故で死んでしまった。お花の飾ってある明るいクラスで、入学式用の白いスーツを着た山口先生が発表したことだった。
だれも信じはしないけれど、彼女は会ったこともない死者の姿を想像して、出会うことなく死んでしまったクラスメイトの存在を、グランドの遠くのほうの陽炎にうつしだしていた。あの辺に香くんがいたかもしれないのにと、友達になりたかったのにと、その姿を想像した。
心の中には死者の一息つく場所があって、人肌くらいの風に呼ばれるように彼らはやってくる。すこし一休みして、また弔いのことばに乗ってたびだっていくのだと、彼女は信じている。
そうして、心の中でもいいから香くんに会いたい、と、ねがうまま小学一年生になった。ちょうどその頃に、あみぐるみをお母さんに作ってもらった。お母さんの機嫌がよくて、すごくうれしかったのを覚えている。まるで、ひだまりのあかちゃんみたいなものが作られて、ひとめ見たときから、だいすきとおもった。香くんもこんな人だったかもしれないとおもった。
「わたし、ゆりちゃん。あなたは、まるちゃん」
ひだまりのあかちゃんは、まんまるだったのに、どんどん細くなってお尻もできて、よけいにかわいくなった。
クラスでは、きせかえ人形を卒業する子が多かった。小学生にもなれば、人形あそびは幼い子のやることのように言われてしまった。当然クラスメイトにはなじめず、
「学校やだな」と、弱音を吐いてみたり、
「魔法をつかえたら、まるちゃんを話せるようにするのに」と、夢をみた。
でも、もし魔法がつかえたら、香くんに会いたい、ともおもった。
『ご両親はお辛いでしょうね』と、入学式終わりの校門でひそひそ話していた大人の声が、小学三年生になっても頭のなかにひびいた。
会っても絶交したくなるほどいやな相手だっているのだから、せめて会いたい人には会いたかった。香くんがいたら、きっと楽しかったにちがいないと執拗におもいこんでいたのだ。学年が上がってクラスが学級崩壊のようになっていたときも、香くんがいたらあの子達に何か言ってくれたかも、と、いつまでも叶わないことをねがった。
スーパーヒーローやスーパースターはなかなかいないものだとしった。自分がそれになれたら、とおもうけれど、そんなものになれる気配はまったくないまま、彼女は大人になった。香くんのことをかんがえない時間が増えていった。
大学卒業後に就いた仕事は、学校の事務員だった。あんなに学校がすきじゃなかったのに、また学校で働くなんておかしい、と自覚はしていたようだ。けれど、なんとなく勤務の希望を出して受けいれていただいたのだから、がんばらないといけないともわかっていた。学校は気の強い人ばかりで、締めきりと外部対応に追われて、ときどき怒声が聞こえてくるところだった。ごくまれに優しい声をかけられるとうれしくて、一方で自分が場ちがいにおもえることは変わらず、遅刻してきた子供とお昼すぎの校門ちかくですれちがうと、「わたしもだよ」と言いたくなった。
学校以外で出会う人は、コンビニやスーパーの店員ばかりになった。あいかわらず遊ぶ相手はいなかった。たまに一人でカラオケにいって、アイドルの歌をうたった。昔、あみぐるみの歌をうたっていたことをおもいだして恥ずかしくなった。そんな夜は、いつもよりすこし強めに、あみぐるみをだきしめてみて、「まるちゃんだけだよ」とおもった。三十歳を目前にして、香くんを想い人にするには、人生は長すぎたと悟った。さみしい夜に、彼女はやっと失恋みたいなものをした。
家に帰ることが楽しいことでなくなったのは、お父さんとお母さんに老いる自分を見せたくなかったからだ。このままここにいて、孤独からの気だるさで、娘の将来を幻滅させてしまうのはつらいことだった。あみぐるみは古くなってもかわいい。でも、人間はそうはいかない。
学校の事務員をしていた関係で、さいわい、私立の学校の事務員に転職することができた。給料は安くなったけれど、前よりは居心地がよかった。経営に苦しんでいるという噂を聞いたけれど、どことなく不安な表情をしている人がいるほうが、同僚に優しくなれたし仕事に精を出せた。
東京の電車はいろいろな色があっておもしろい。建造物もめずらしいから、出かける場所にはこまらない。この場所こそ、友達がいなくても楽しめて一生をすごしたいと感じるところで、出かけることが楽しいとしった。
年の瀬のにぎわいを感じ、若い女の人が髪の毛を巻いているのを見て、彼女もそういうおしゃれがしてみたいと興味がわいた。やってみたら、案外違和感がなかった。
ならば、あこがれのトレンチコートも買ってみようか、と三十歳までに揃えたいとおもっていたファッション用品を揃えだし、部屋には花の香りが舞うようになった。マグノリアの香水はきもちを高ぶらせ、恋をしてみたいとおもうきっかけにもなった。
ただ、男の人に声をかけることなどできなかった。ひとまず婚活アプリに登録してみて、自分のことを語った。相手は、スポーツがすきな人は除外して、手芸がすきな人を望んだ。そんな趣味を持つ人は実はいるもので、時間はかかったけれど、編み物をたしなむ匠さんを見つけることができたのだった。
はじめてのデートで会話した主な話題は、二十年連れ添ったあみぐるみのことだった。
匠さんは、あみぐるみに会ったことがなかったけれど、宝ものをなくした彼女を勇気づけてくれた。
「まるちゃん、きっと今頃、だれかに拾われているんじゃないかな。あるだろう。勘のようなものがやけに自分の中で真実味を増していて、ぜったいにそうだとおもってしまうこと」
「あの、でも、わたしは、旅行しているとおもっています。もしかしたら、海に落ちて、今頃、ガラパゴス諸島なんかにいるんじゃないかなって」
ガラパゴス諸島は彼女がいつか訪れたい場所だった。あみぐるみが、固有の進化をした生物たちのようになればとねがっていた。
「ガラパゴスは遠いな。行ってみたいけど」
「わたしたちがつく頃には、べつの海を漂っているかもしれません」
「日本のちかくをながれる海流に乗ってきているかもしれない」
「ええ。だから、わたしがここだとおもって探しても、きっと見つからないとおもいます」
「見つからないとも言い切れないよ」
「なくしたことがありますか? 大切にしていたもの」
「あるよ」
「どんなものですか?」
「昔、君のまるちゃんのような、クジラのぬいぐるみを持っていたんだけど、公園に持っていったら、なくしてしまったんだ。野良犬のいるところだったから、遊び道具にされたのかもしれない」
「つらかったでしょう」
「代わりになるものがあったから、だいじょうぶだったよ」
「代わりってどんな?」
「なわとび」
「ぬいぐるみじゃないんですか?」
「だって、またなくしたらさ」
「そうですね」
「そうだろう? だから君も、新しいあみぐるみを作らないんだろう?」
「わからないです。作るかもしれません」
「いや、そうだな……。できれば作らないでいて。代わりにぼくと遊びませんか」
彼女はおどろいた顔で、じっと匠さんを見ていて、次第に彼の方がこらえきれずに笑いはじめたので、彼女も笑ってしまった。
「ごめん。今一瞬、怒りましたか? 眉毛が動いた」
「びっくりしたんです。あまりにも匠さんは、まるちゃんとちがうでしょう」
「ごめん。そうですよね。ああ、変なことを言ってしまった」
「あと、君って呼ばれるのははじめてだったから、なんかすごく……おもしろくなってきて」
「え、それも?」
「あと、なんで急に丁寧語になったのか、わからなくて」
「ああ、それも」
「わたしもう、たえられないので、ひととおり笑わせてください」
「ぼく、なんだか格好悪いな」
「そんなことないです。すごくいいです。すごくいいだなんて、上から目線でごめんなさい」
「笑ってもらえると救われる」
結婚式のブーケには、きいろい花をたくさんつかった。あかちゃんへも、その色の持つイメージを与えたいとおもって服をえらんだ。あみぐるみがいなくなったことを、代替品でまぎらわしているのではない。彼女はもう、だいじょうぶだった。
たまに母から電話があった。いたずらっぽく「まるちゃん、見つかった?」と聞いてこられ、「見つからないなんておかしいわよ。あんた、部屋をまた汚くしているんじゃないの」と想像だけで非難されることもあった。それでも、昔ほど傷ついたり、泣いたりはしなかった。わたしの母だっていずれしらないところへ逝ってしまうのだから、と、大切なものとの別れをしった彼女は、ほとんどのことを笑って済ますようになった。
ただ、近所の文学記念館へ出かけた日はちがったのかもしれない。
その文学館は入場料が無料で、道の広い公園に併設されているものだった。あかちゃんをベビーカーに乗せて歩くと、ちょうどよい振動が眠りをさそうらしく、昼寝をしてもらう目的も兼ねて、散歩の際には立ちよった。
蔵書はほどほどに、地域を象徴する文学作品が並べられていた。ちいさな図書館のようだったから、学校帰りの学生が寄って、本を読んですごしていた。ここに来る学生はたいてい一人で、前髪が長くてマスクをしていた。赤ちゃんをそばにちかづけると、学生の目は半月のようにほころんだ。
彼女はうれしくなりながら、じゃまをしてはいけないと、立ち並ぶ原稿用紙を見ながら去った。作家たちの愛用品がショーケースの奥に並んで、札を貼られて紹介文が書いてあった。めがね、たばこ、てぬぐい、万年筆があった。
あみぐるみはなかった。
この記念館のどこかで、きいろいあみぐるみが『待ってたよ』と言わんばかりに笑っていたら、とおもった。そんなものを見てしまったら、わたしは少女に戻って、ベビーカーにあみぐるみを結びつけてしまうわね、と想像した。
家に帰って、絵本「しょうぼうじどうしゃ じぷた」を開いた。幼稚園児だったころ、毎日この絵本ばかり連続で借りてくるからと、両親が買ってくれて、それ以来ずっと大事にしている。あかちゃんにも絵を見せて、紹介をした。がんばれ、じぷた、わたしもがんばる、とおもえる本だった。
匠さんが家に帰ってきて、床の上においてあったそれを拾った。
「あれ。らくがき?」
と、おどろいたようすで、彼女へ、あるページを見せた。
それはちょうど、じぶたがかなしんでいるページだった。
あまりにもかわいそうだったので、彼女がすぐにめくってしまうページだった。
本を受けとってみると、かなしそうなじぷたの横に、うねうねした文字列がならんでいる。これは匠さんには文字列には見えていなかったようだが、彼女には読めるものだった。
「あ……」
うねうねした文字列には、『ゆりちゃん、せかいでいちばんだいすきな、ゆりちゃん』とかいてある。まるで手習いのように、彼女の名前が複数回かかれてある。そして最後の最後で、『おやすみ、ゆりちゃん。あなたのまるちゃんより』と、読める文字がある。それは、いくら伝えても、匠さんには伝わらない文字だったようで、もしかすると錯覚なのかもしれないが、彼女はそこにあみぐるみがいると信じた。
あみぐるみがいなくなって、さみしくなかったわけがないのだ。手の中におさまる、ぴったりのあの子がいないということは、自分の体の一部がなくなったこととよく似ている。けれど、彼女は少女から恋人になり、恋人から親になった。むりをしたのではなく、自然に。けれど本当は、何も変わってなどいないのだ。すこし自分を隠すのがうまくなっただけだ。笑うのがうまくなって、愛され方を覚えただけだ。
何十年か後、年寄りになった彼女は、宝ものの中からこの絵本を取りだすのだろう。乱れた文字列を、まるで髪をとかすようにやさしくなでるのだろう。
「わたしだってだいすきよ」
と、つぶやいて、少女の顔になってほころんでいるのだろう。
「あなたはとってもかわいかったわ」
と、ほほえんで、
「うん。おやすみ、まるちゃん」
と、うっとり幸せそうにお昼寝をするのだろう。
〈了〉
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