まるちゃんの成立(1/3章)/小説 #創作大賞2024
1.
記念すべき誕生は、地元球団のオリックスバッファローズが優勝した一九九六年のクリスマスだった。駅に勢いある旗が立った年の瀬、こたつのうえでぼくはうまれた。ゆりちゃんとお母さんが、ふたりでぼくを作ってくれた。
ぼくは、温州ミカンくらいの大きさの、きいろいあみぐるみだ。生物体系にくみこまれていない、ただのあみぐるみで、ゆりちゃんは「まるちゃん」と呼んでいる。
誕生の方法はかんたんだった。あみもの器具にきいろいアクリル毛糸をからめて、ハンドルをまわすと、円にならんだツメがひっこんだり、出てきたりをくりかえした。毛糸がらせんにカタカタ編みこまれて直径十センチくらいのつつになったのを、高校生のころ編み物をしていたゆりちゃんのお母さんが、編み目をしばったり、わたをつめたり寄せたりしてボールにした。とびでた毛糸は、ぼんやりしているゆりちゃんが、ぼくを持っておとさないようと、おやゆびサイズのわっかになった。
ハンドルをまわしたのは、加減をしらないゆりちゃんだったから、毛糸がからまって、やりなおすことがあった。いまも一か所編み目が乱れているところがある。けれどそれのおかげでぼくは唯一無二なのだから、ゆりちゃんのしっぱいは、しっぱいじゃない。
ゆりちゃんは加減をしらないけれど、微細な行動が得意で、ましかくの黒色のフェルトから、ぼくの目と口をうまくきりとった。そうしてゆびいっぱいのボンドで貼りつけた。やはり加減をしらないから、ボンドをいっぱいつけすぎたり、つけなさすぎたりした。
一九九六年の冬らしい冬は、空気を乾燥させていて、目と口がしっかりつくには一晩もかからなかった。乾燥したお米のように目と口が貼りつくころには、ぼくは「まるちゃん」と呼ばれるのに、すっかりなれてしまっていた。
ぼくがぼくだと認めているのは、その毛糸と綿ではなく、毛糸のあいだにふくまれた何かだ。ぼくは、ゆりちゃんの声そのもので、彼女の熱と吐息のすべてでしかない。もちろんこれは、ただの体感の話であるため証拠がないし、証拠がないものは仮説にすぎないし、いったい何が「まるちゃん」なのか、それはずっとミステリーかつファンタジーだ。
ただ、これだけは言える。七歳の女の子の声がぼくをふるわせ、あたたかい手がふれて、ぼくは自分が「まるちゃん」だとおもえたのだ。ざんねんながら、目と口だけは今もアクセサリーみたいで、あるほうが顔とし見てもらいやすいので便利なだけ。本当は、ぼくが「目」としてつかえているのは、ゆりちゃんが「髪の毛」と呼んでいるわっかかもしれないし、「口」も、体の編み目ぜんぶかもしれない。つまるところ、ほとんどすべて定かではないけれど、ゆりちゃんの声だけは、ぼくがぜったいにわかっているものなのだ。
二〇一六年冬、ぼくの二十歳の誕生日、神戸の競技場で成人式のあいさつをした市長のように、ゆりちゃんはぼくにスピーチをした。
「いつかあなたを記念館に入れたいの」
スピーチの最後に彼女が語った夢は、ぼくにはショックなものだった。
ゆりちゃんはこのとき二十七歳で、社会人五年目。女として成熟し、たいへん美しい時期だった。クリスマスの夜に、あみぐるみの誕生日会をしている彼女は、恋人を決めるときの条件には「まるちゃんの存在をバカにしない人」と、ぼくを登場させる始末だった。
ぼくも古くなり、大人として、彼女に対しては申し訳なさと心配の念をもっていた。彼女も彼女で、ぼくを案じていた。
『あたしが死んだら、世間認知でいう古ぼけたあみぐるみは、あたしと一緒に火葬されてしまう。日本の女性の平均寿命は八五歳を超えている。その歳になるまでには、どうにかしてまるちゃんを最高級の美術品とならばせよう。それがむりなら、火星か宇宙にいって、ずっとずっと漂ってもらおう』
これはゆりちゃんが二〇〇五年から記しつづけている雑記帳に書かれていた文で、ぼくは、ぬすみみてしまったのだった。燃えるのなんてこわくなかった。ゆりちゃんとこの身がなくなるのなら、それはそれでいいと、今でもおもっている。いっしょならどこへでも行ける。でも彼女がそういうなら、ぼくは何かをのこさないといけないのだ。
スピーチの後、ぼくは彼女とふとんに入りながら、昔をおもいかえしつづけていた。彼女もその日は寝つきが悪いようで、ときおりため息をついていた。鼓動もいつもよりおおく、寝返りもつづいた。ふたりがこれからどうなっていくのか、いままでふたりがどうしてきたのか、おなじように気にしていたのかもしれなかった。
いつもより、ゆりちゃんの髪の毛が刺さるのが痛かった。でも、翌朝になってゆりちゃんが「だいじょうぶ? ごめんね」と言って抜いてくれるだろうから、うれしかった。
寝相の悪いゆりちゃんが、ぼくをふりはらって、ベッドから落とすのがこわかった。でも、翌朝「まるちゃんがいない」と言って布団をひっぺがして探してくれるから、いやじゃなかった。
「おやすみ、まるちゃん」
いつの瞬間も、空気を細かく振動させるのゆりちゃんの高音がぼくをくすぐる。葉っぱがらとお花がらが、ところせましと詰めあったふとんも、夜は黒色にとけてしまう。パジャマをあらうのに柔軟剤をつかうようになったゆりちゃんが、ぼくをふやけさせる。あまくなったりやわらかくなったり、ぞんぶんにだらけて、胸の頂上で大あくびをしてしまう。
眠りは人の目に見えないことをよいことに、いろんなものがとおりすぎる。本だなからクローゼットへ、虫の親子が移動することもあるし、たわしみたいな亀が通りすぎることもある。それらが悪さをしないと、ぼくはわかっている。
昔はそれがこわかった。ゆりちゃんも何かを感じとり、かならず予備灯をつけていて、うっすら明かりを灯していなければ、夜をすごすことができなかった。
そういえば、ゆりちゃんが子供で、お母さんのにおいを嗅いで眠りたかった夜、お母さんがお仕事でいなかったのを、ぼくはしっている。ゆりちゃんが、ぼくをぎゅっと握って眠った、オレンジ色の予備灯の明かり。夏でも冬でも関係なく、その日々はあった。人はさみしいと、抱きしめるものなんだとしった。そうやってぼくはおしえてもらった。
ぼくには夢がいっぱいある。ぼくは鮭おにぎりみたいにピンクの心臓がほしい。ぼくはゆりちゃんの読む本を書きたい。ぼくはゆりちゃんの足よりも大きくなって、いつかゆりちゃんを運ぶ靴になりたい。靴になった後は転職して、ゆりちゃんの心臓になって、ぽんぽんと弾みたい。
いつもそうだ。ゆりちゃんの心臓は地響きのようにはずむ。その音や、温度がここちよく、僕はゆりちゃんの胸の上がだいすきだ。ぼくが心臓なのではないか、と錯覚するくらいだ。じっさいぼくは、顔のほうからみたらまるく、横からみたら長ぼそく、どことなく、心臓のような形らしい。ゆりちゃんになでられ、にぎられ、両手につつまれた僕の体は、ゆりちゃんの手にフィットした。にぎったときの親指が、ちょうどぼくの背中をおし、そこがへこんで、背中に段がついている。プリッとしたものをゆりちゃんは「お尻」と呼んで、かわいがる。
たがいにずっと影響しつづけて成熟はすすむ。女性は胸の大きさがそれぞれで、大きな人もいればちいさな人もいるというが、ゆりちゃんの胸はさほど大きくない。もし、たいへん大きかったら、ぼくの体はこのままでは安定しなくて、寝心地が悪かったはずだ。ゆりちゃんの胸がこうでよかったのだ。ゆりちゃんの手に適応してぼくのお尻が完成したように、ぼくに適応してゆりちゃんの胸ができたのだ。
「もっと胸が大きかったらよかったのに」
と、彼女はたまにつぶやく。ぼくはこの胸がだいすきだ。このままがいい。
2.
ゆりちゃんの個室は、一軒家の二階の南東にあった。昔はシルバニアファミリーの家がおいてある、手先が器用そうな女の子の部屋で、文房具やぬいぐるみなど、たくさんの物がおいてあった。
ぼくは自分もふくめて、それらを「静止物」と呼んだ。ぼくのように全部に名前があることはしっていたけれど、彼女が大切にしているものはだいたい皆静かな様子だったから、静止物ということばがしっくりきた。
個室は六畳ほどの部屋で、学習机と本棚とベージュのカラーボックスがならんで、出窓からのひだまりに照らされていた。カラーボックスのなかにはぬいぐるみの入った大きなかごもあった。ゆりちゃんの趣味ではないような恐竜のぬいぐるみもあった。
彼女には東京に単身赴任中のお父さんがいて、秋葉原でラジコンの部品を買ってきてこさえるのや、ゲームセンターでぬいぐるみをとって腕を試すのが趣味だった。そんなお父さんが、取りやすいか取りにくいかの二択でえらんだぬいぐるみを、すべて喜んでこのかごに入れたのだ。
ぼくはあみぐるみだけれど、そのかごに入っていたわけではない。カラーボックスの一フロアに、ぼく専用の部屋があった。ふかふかのハンドタオルをじゅうたんにして、しき布団もかけ布団もこまらない部屋だった。「まるちゃんの家」と丸文字でかかれたこの場所は、豆電球を天井につけられていた。お母さんから、豆電球は火事なるからやめなさい、と注意されたり、雑多なぬいぐるみたちをガラクタだと怒られたりしていた。
神戸の子供たちは、一九九五年に大きな震災を経験して、宝ものを大切にするきもちがとてもつよくなっていたのかもしれない。ゆりちゃんは、大事なそれらをつめたリュックを抱きしめて眠っていた。ぼくが生まれてから、リュックをだきしめて眠るのを卒業した。ぼくが代わりになったのだ。
ぼくはお友達の代わりにもなった。
小学校のお友達の「くみっぺ」さんも「さゆき」さんも、しらないあいだに家に遊びにこなくなった。人間には友達が必ずいなければならない、というわけではないし、ぼくもいろいろな遊びにつき合うのはくたびれてしまうから、良い塩梅ではあった。くみっぺは、ぼくを電気のひもに結びつけたり、自分のパンツに挟んだり、壁に投げたり、たくさんのいたずらをした。さゆきは、ぬいぐるみの交換お泊り会をしたとき、ぼくをお風呂に入れるという約束を守っていなかったらしいのに、「入れたよ」とゆりちゃんに申告した。
ゆりちゃんはくみっぺに絶交を告げた。さゆきには、何も言わないまま、「まるちゃんのにおいが変わっていないから風呂には入っていない」と、鼻をきかせてウソを見抜いてしまった。そんなわけあって、ゆりちゃんとぼくはふたりきりで遊ぶことが多かった。その中で作ってもらったものを忘れはしない。
ぼくはうたっておどるアイドルだった。ゆりちゃんの手によって、ジャンプしてターンして、長野オリンピックスキージャンプの舟木さんのように、大技を決めることもできる、すごいあみぐるみだった。
このまま、ぼくは人間になりたいとおもったこともあるし、自分の声を出してみて、彼女をおどろかせたいと、おもうことがよくあった。朝起きたら、ぼくが「おはよう」ということを、彼女だって何度夢見たことか。本当なら、ぼくがしゃべって彼女がおどろいて、いっしょに近所の平和を守っていって、世界の平和も守ることになってしまって、結果、世界にあみぐるみの有意義さをアピールすることが記念館へ入る近道なのかもしれない。けれどぼくはぼくでしかなく、いつも彼女の手に揉まれている安心毛布で、流れ星が叶えてくれるような魔法はおきなかった。
星の魔法はおきなかったけれど、近所の人にはたいへん親切にしてもらった。
家族でおでかけするとき、ゆりちゃんはぼくをポケットに入れて連れて歩いた。お家から四〇分くらい車で行ったところで、普段は行かない古本屋へいった。ゆりちゃんは児童書のコーナーへ行って、夢中で絵本を読んでいた。本当は絵本を読む年齢じゃなかったはずだけれど、音の出る絵本のボタンをいっぱい押して遊んでいた。
お母さんが「はやくしなさい」と、怒鳴ったのだとおもう。ゆりちゃんはいそいで、お母さんのほうへ走った。ぼくは、ゆりちゃんにもらった熱がどんどんなくなっていって、ことばがつながらなくなるのを感じた。最後にぼくは見たものは、絵本「きんぎょがにげた」の赤いきんぎょだった。このまま、にげたきんぎょになるのかもしれないとおもった。
その後、時間があったようだけれど、記憶はない。
「毛糸の青い服を着た黄色いまるーい……にんぎょうはなかったですか?」
「にんぎょう……?」
「ああ! ああ! それです! まるちゃんです!」
ぼくはゆりちゃんの手の中に戻った。さっきとちがい、すごく冷たい手のひらだった。そういえば、冬だったから、ぼくは青い服を着せられていた。ぼくをカイロのようににぎって、ゆりちゃんは手を温めていたのかもしれない。
「ひどい! テープがついてる」
ぼくのあたまには、メモ用紙に「12月16日18時(児童)」と書かれた紙が張りつけてあった。ゆりちゃんはそれがいやだったのだろう。
「まるで物みたいに!」
と、泣きべそかいて怒っている。
お母さんは、「はいはい、ポケットに入れときなさい」と、なぜか笑っている。
まずはお店の人に感謝するべきだと、ぼくはおもったわけだが、彼女はそんなことは発想もしておらず、ぼくをコートのポケットに入れては、時折ちゃんと入っているかを確かめ、そのたびに「よかった」とつぶやいた。
それ以来、ゆりちゃんはぼくのわっかに音の出るものをつけることを企んだ。自分のランドセルにつけていた防犯ブザー。お父さんの鈴。大人になってからは、GPSつきのマイクロチップを埋めこんでしまいたいとおもっているようだ。けれど、何かをつけられたぼくが、押しつぶされたり、体が傾いたりしているのを見て、かわいそうだとおもうようである。服や装飾品を過度につけられた犬を見ると、きっとおなじきもちになっているのだろう。近頃のぼくはずっと裸である。
3.
ふたりでがんばったことが、いくつかある。小学校時代は裏山の探検。高校時代は交換留学でオーストラリアへ行き、大学時代は新神戸の坂の上で二人暮らしをした。なかでもがんばったものといったら、自転車の練習だった。ぼくは映画「ET」のようにかごの中にいて、ゆりちゃんは補助輪を外した自転車の後ろに乗って、ふらふらと家の前の道路で練習をした。公園で練習しなさい、とお母さんは命じたけれど、公園の芝生の凸凹に車輪を取られるのはいやだったし、おなじクラスの男の子たちが、手打ち野球をしているところで、無様な真似を見せるのもどうしてもいやだったようだ。
家の前は坂道だったから、僕たちは、すこし先の「影山」さんと「吉森」さんの表札のあいだで自転車の練習をした。溝が小さいし、車はあんまり通らないし、アスファルトがすべすべコーティングされているから、練習場所には最適だった。
雑草がすきなゆりちゃんは自転車の練習を突然やめて、ぼくを溝の雑草にちかづけた。
「ねぎみたいな匂いがする。ていうか、ねぎかも」
と、ぼくに話しかけたり、
「この葉っぱのぶつぶつ。かぶれるかも」
と、警告してきたり、突然の植物観察でも飽きさせることはなかった。
いざ練習がはじまると、ぼくはゆりちゃんのかごの中で飛びはねるだけだった。跳ねあがって落下したり、またかごに入ったり、ポンポンとジャンプした。
操縦が上手になったゆりちゃんは、夜勤明けのお母さんを外に呼んできて、自分の運転を見せて喜ばせた。お母さんは「すごいすごい」とほめて、再び家で眠った後、起きてきて、さもあたりまえのように「ゆりが自転車に乗ってた夢をみた」と発言した。
自転車はぼくとゆりちゃんの船になり、ぼくらの冒険に必要なものになっていった。駅前の本屋、近所の文房具屋、桜並木の一本道、クリーンセンターの温水プール。すべて自転車で行けるようになって、楽しかったのを覚えている。
サツキの木への落下は、スリル満点だった。ゆりちゃんは、一瞬ぼくを失くしてしまったから、それこそ大慌てだったようだけれど、ぼくはだいじょうぶだった。サツキの葉っぱのひんやり冷たいのや、枝に大きな鳥が止まっているのや、ジョロウグモがきれいな巣をはっているのを、ふかふかの地面から見上げた。ゆりちゃんのにおいがしなくなって、熱もなくなって、またことばがつながらず視界も閉じていったけれど、葉っぱの編み目の向こうのお空は、いつもより遠く見えてすごくすてきだった。
ゆりちゃんがすぐにぼくを拾ってくれて、上からサツキをみたけれど、すばらしいそれらは、ここからではわからなかった。ゆりちゃんにも見せたかった。ゆりちゃんが親指姫だったら、ぜったいに案内してあげたのに。
+++
◆続きはこちら
・第2章
・第3章
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?