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2020.9.20 戦後、石油業界を支配した7人の魔女

1945年8月15日、日本敗戦。

東京の焼け野原で全てを失い、一人立ち尽くす起業家がいた…。
明治の創業以来、34年続けてきた彼の事業は風前の灯だった。

朝鮮、中国大陸、アジアに築いた資産は、配線と共に跡形もなく吹き飛んだ…。
本業の石油業は自由に行うことができず、残ったのは海外事業に投資した265億円(現在のお金で数十億円)の借金と本社ビル。
そして、仕事のない1,000名の社員のみ。

一体、どうしたらいいのか…。
しかし、敗戦から1ヶ月後…この男は
「1人のクビも切ってはならない」
と社員の前で宣言。

同業者は、
「とうとうアイツは自殺するらしい」
と陰口を叩き馬鹿者扱い。
社員や知人、友人でさえも本気で自殺を心配するようになった。

誰もが敗戦の衝撃に打ちひしがれ、自信を失っていた中、この男だけは確信めいた勝算を抱いていた。

それは、明治以前の先人から学んだ日本独自の経営思想と哲学によるものだった。

この男の名前は…
出光佐三。

かくして、
『7人の魔女(セブン・シスターズ)』
と呼ばれた巨大な力を持つ欧米石油メジャー7社と出光の激しい戦いの幕が開けた…。

「これは第二の敗戦だ…」
「日本という国は、石油のために戦争を始め、石油が無くて戦争に敗れ、今度は石油によって支配される…」

当時、戦後復興を遂げる兆しが見えてきた日本には、自動車やトラックが急増。
ガソリンの需要が著しく伸びていた。

その状況に目を付けた7人の魔女は、巨大な財力と資源をバックに日本の石油市場に触手を伸ばしていく…。
圧倒的な力の差を前に国内の大手石油企業は、
「その方が楽に金儲けができる」
と、軒並み欧米メジャーと提携を結ぶ道を選んだ。

直ちにメジャーは日本企業へ重役を送り込み経営に介入。
わずか1年余りで日本の石油業界は、欧米の息が掛かる企業にほぼ独占される状況が出来上がった。

すると、日本に持ち込まれるガソリンは意図的な粗悪品ばかりとなり、自動車は少し走るとエンジンを焼き、直ぐにエンストを起こす始末…。

さらに、本来は安定供給のために定められていた石油カルテル(販売協定)制度を悪用。
各社の談合によって、わざとガソリン価格を高騰させた。

日本の消費者は、何ら情報を与えられないまま、粗悪で高価なガソリンを買うほかなく、売る側が暴利を貪る状況だった。

この石油カルテルに、ひとり異論を唱えていたのが出光佐三だった。
安易な道を選ぼうとすれば、メジャーの傘下で一緒に金儲けをすればよい。

しかし、創業時から
「消費者のために高品質で低価格なものを提供し、社会国家に示唆を与える」
という企業理念を基に会社を運営していた彼にとって、ただ自分たちの金儲けに走るやり方は、到底受け入れられない。

出光は日本の消費者のために、石油市場をメジャーの独占と搾取から守らなければならなかった。

だが…。
圧力に屈しない出光に想像を絶する逆風が待っていた。

GHQの経済科学局に根回しをしたメジャーは、日本政府にも圧力をかけ、三社一体で出光を潰しにかかる。

まずは、同業者からなる組合から出光を排除。
出光の石油直売反対を政府に提出し、その販売手法を非難する記事を新聞に載せるなどして、徹底的に攻撃を行っていく。

更には、船舶業者に対し
「出光にタンカーを貸してはならない」
と圧力をかけたことで、出光は石油の商いが出来なくなり、倒産寸前の危機に陥るまで追い込まれた…。

孤立無援となった出光…。
この状況を打破するには大きな武器が必要だった。それが、タンカーの建造だった。

「自前のタンカーさえあれば、石油メジャーの不当な独占と搾取に対し、断固戦うことができる」
「海外の高品質なガソリンを日本の消費者に届けるには、この方法しかない」
戦前、出光興産には3隻のタンカーがあったが、それらは全て戦没。
戦後、国内でタンカーを持つ石油企業は1つもなかった。
当時、行政の許可が必要だったタンカーの建造。

突破口を開くべく、彼は経済政策を司る行政へと乗り込んだ。
そこで彼は、日本の石油業界の実情と出光興産の置かれた状況をこう説明した。

「私は今、米英を中心とする国際石油メジャーのカルテル支配、またそれらと提携を結んだ日本の石油会社とも戦っています。私が彼らに頭を下げれば、出光興産は生き延びることができるでしょう。しかし、そうなれば日本の石油産業は完全に牛耳られ、日本経済も支配されるでしょう。」

そして、少し間を置いて、こう続けた。

「私は断固戦いたい。日本が真に独立するために。そのためには、タンカーという武器が必要です。」

私腹を肥やすためではなく、社会国家のため、日本の石油産業を守るという出光のビジョンが行政を動かしたのか、晴れてタンカー建造の権利を得ることに成功。

念願の国産タンカー『日章丸』が完成した。

遂にメジャーと戦う武器を手にした出光は、彼らの目を逃れ、アメリカのロサンゼルスにある小さな石油会社との契約を結ぶ。

日章丸は5,000キロリットルの石油を積んで日本に帰国した。

『アポロ』というブランド名を冠したガソリンは、全国の営業所で驚くほどの低価格で販売され、飛ぶように売れていった。
価格の低さもさることながら、他社の商品とは性能が格段に違ったため、これが日本の消費者の目を開くきっかけとなった。

それまで使っていたガソリンが、いかに粗悪で高価なものだったか。
そして、大手石油会社の横暴が白日の下に晒され、彼らの評判と共に、日本のガソリン価格は大幅に下がっていった。

これにより、メジャーはもはや国内で暴利を貪ることが難しくなり、出光の夢だった、消費者に安価で高品質な石油を届けるという理念が実現していく…。

しかし、ここで黙って負けを認めるほどメジャーは甘くはなかった。

ある時、日章丸がロサンゼルスに向かう航海の途中で、取引先から
「今度の注文は断る」
という電報が入った。

それから、ロサンゼルス以外のアメリカ各地やメキシコなど、メジャーの目が届かないところとも取引を続けていたが、程なくそちらにも妨害の手が回った…。
日章丸の行き先が、全てメジャーに阻まれ用としていた時、出光は世界を驚かせる行動に出る。

なんと、石油の領有権を巡りイギリスと争いが起きていたイランから直接石油を買い付けたのだ。

これが世に言う『日章丸事件』です。

最悪の場合、イギリス海軍に撃沈され、積荷どころかタンカーさえも失う危険性があった決断を、なぜ出光は下すことができたのか?
その記者会見の席で、彼はこう語っている。

「記者諸君の中には、過去に巨万の富を築いた人物になぞらえて質問された方がいるが、見当外れも甚だしい。諸君は私が出光の利益のために、これを決行したとお考えになられるか?私はそんなちっぽけな目的のために、日章丸と五十余名の乗組員の生命を危険にさらすことはできん。私の主張は世界各地から安い石油を輸入し、それらを消費者が自由に選択して買う。つまり公正な自由競争の石油市場を作るという簡単な言い分である。今回の一件で、日本は豊かな産油国と結びつく道が開けたのだ。」

事実、この一件によって、世界的にも産油国との自由貿易が始まる先駆けとなり、日本復興に大きな貢献を果たした。

さらに、このイラン石油輸入の衝撃は、多くの日本国民に刺激を与えた。
当時の新聞に寄せられた読者の声にはこう書かれている。

<大体、この石油の占領ということが不自然なのだ。ただ自分が栄えさえすれば、他のことなどは、どうなっても構わないと考えているのだろうか。私は出光興産ガンバレと叫ばずにはいられない>(毎日新聞)

更に、出光興産本社には、主婦からもこんな手紙が届いた。

<この度のイラン石油買い付けの記事を拝見して、誠に一日本人として感激してしまいました。長い間、しいたげられてきた民族が、今やっと解放される朝が訪れたのです。ああ日本にもこんな強い人がいた。敗戦の苦しみから立ち上がるべき力を与えてくれました。出光社長さんバンザイ。>

その後、出光興産は自前の製油所を建設。

保有する複数の巨大タンカーが7つの海を駆け巡り、豊富な産油国と石油消費大国である日本を結び付けた。

あの焼け野原で、事業継続の見通しすら立たなかった所から25年…。

1970(昭和45)年には、年商4,026億円を売り上げる規模へと成長。
唯一の民族資本の会社として、日本市場の独占を狙う石油メジャーの圧力を撥ね付け、消費者の許へ安い石油を届けることで、戦後日本の高度成長を支えました。

出光興産を世界的企業へと発展させた出光佐三は、戦後、同業者がこぞって欧米におもねる中、また、利益だけを追求する企業運営へと走る中、
「消費者のために高品質で低価格なものを提供し、社会国家に示唆を与える」
という理念を貫いたことで、短期的には苦労を強いられましたが、後に強大な力を持つ欧米メジャーを撥ね付け、長期的に見れば、多くの日本国民から支持され、愛される企業として大きく成長していきました。

ところで、このような信念や思想は、彼だけが特別に持っていたものなのでしょうか?
一体、どこから着想を得たものだったのでしょうか?

そのルーツは、明治以前の日本人が受け継いできた思想・理想にありました。

彼はこのように言っています。
「明治時代は、日本にとって最も偉大な力を発揮した時代である。国民は日本文化を堅持して、外国文化を咀嚼し、吸収した。その結果、東洋の名もなき一孤島が、わずか50年にして世界の5大国の1つとなった。この偉大なる国を作った力は、日本3000年の精神文明の力だ…」

このような話を社員に事あるごとに伝え、敗戦から2日後には、その要約を全社員に配ったほど。
彼は明治以前の日本人の在り方を尊重し、社員にそれを手本とすることを説いていたのです。

更に、彼は日本と海外の違いについて、欧米の企業家と話した経験を踏まえ、こう発言しています。

「僕は海外の企業家とよく議論をしたが、企業活動の目的について意見が一致しないことが多い。簡単に言えば、彼らは儲けることが第一。日本と西欧では根本理念が違う。日本人は悪いものを正し、平定する歴史を持っている。みんなが一つになって生きていこうとする。欲張らずに社会全体のために尽くそうとする。そういう考えがごく自然にある。つまり、人のため、社会のためと考えてやることが、結局自分のためになる。“愛他”の心と行動が尊重されるのが日本であり、日本人だ」

「よく経営手法が変わっていると言われるが、私から言えば、何も特別なことをやっているのではない。ただ日本人として日本人らしく経営しているだけだと思っている」

このような、日本人の強みにあった思想を企業経営に取り入れたことで、社員や日本社会の持つ底力を存分に引き出していたのです。

1981年に95歳で天寿を全うした企業家の出光佐三ですが、その彼に対して詠まれた歌があります。

「あなたは我が国が困難な状態に置かれる中、国家と国民の為に尽くし、日本人の誇りを取り戻してくれた。そんなあなたがいなくなり、私は寂しいと思っている」

これは、昭和天皇が出光の死を悼み詠んだ歌です。

このように天皇陛下が一般人の死を悼んで歌を詠まれたなど、日本史全体を見渡しても例がありません。

生前、出光は毎日、皇居の方角を向いて敬礼してから朝礼を行なっていたと言われており、出光興産の入社式後には必ず明治神宮、靖国神社を参拝。

式典では国歌斉唱と皇居への敬礼をするのが習わしでした。

出光は昭和天皇を崇拝すると共に、日本人として先人たちへの感謝を持ち続けていた企業家でした。

しかし、この時代、優秀な企業家は他にもいましたが、昭和天皇は出光にだけ特別に歌を詠まれたのは、前述のような国民のためを思い、国家に尽くした出光のことをよくご存じだったのだと思います。

欧米列強の脅威にさらされながらも、急速な近代化を成し遂げた明治時代。

戦後の焼け野原から高度成長を果たした昭和中期。

これらの原動力として、ついつい欧米から入ってきた新しい技術や知識などに目が向きがちですが、実は、これらの輝かしい国の発展には、古来から先人が受け継ぎ、日本人の強みを活かした日本独自の経営思想・哲学が根底にあり、これらを体現した特徴的な人物として今回は出光佐三を挙げましたが、他にも出光と同様に優秀な企業家を例に挙げると、

経営の神様と呼ばれた松下電器(現パナソニック)の創業者“松下幸之助”。

彼は、「“君の会社では何を作っているんだ?”と尋ねられたら、“弊社は人をつくっています。電気製品をつくっていますが、その前に人をつくっているのです”と答えなさい。」
と社員に教えていました。

彼が事業に取り組んだ大正から終戦に至る期間は、大震災、大恐慌、戦災など危機の連続でした。

そんな困難を乗り越えてきた松下電器ですが、戦後は特に酷い状況だったようです…。

戦争の影響で社会はインフレに陥り、資材、人件費が高騰。

ひと月の売上は100万円に届かないのに、借入金は2億円と経営は火の車でした。

さらには、GHQ総司令部から幸之助以下、常務以上の役員すべての公職追放が命ぜられ、退任を覚悟しなければならない状況に…。

このような最悪とも言える状況下で幸之助は社員を集めてこう言いました。
「松下電器のとる道は、日本の復興再建の道でなければならない。これが我々に課せられた使命だ。従業員は一人も退職してはならない。」

戦後、会社の経営が火の車でも
「せめて従業員の給料だけは。」
と膨大な借金をしながら耐え忍んでいた幸之助の姿を見て、従業員が立ち上がります。

「社長は全従業員の大黒柱。 決して公職追放させてはならない…」
として、全従業員の93%が嘆願書に署名。

1万5000通もの嘆願書がGHQ総司令部に送られました。

この熱意が総司令部を動かし、わずか半年で幸之助の追放は解除されました。

幸之助が持っていた国家や従業員に対する想いが、周りを奮い立たせたことで松下電器は息を吹き返し、その後、高度成長期に世界的な大企業へと成長していきます。

幸之助が社員に教えていた“人をつくる”とは、
「人こそが企業の資本である」
ということを伝えたかったのでしょう。

そして、日本の近代資本主義の父と呼ばれた“渋沢栄一”。

など、異なる業種、異なる時代を生きていても、このような名経営者たちには、特に明治以前、日本古来の名商人から受け継がれた、ある共通した思想・哲学を忠実に守っていたのです。

翻って、現代の日本の状況はどうでしょうか?

バブルが崩壊してからというもの、あれほど勢いのあった日本人は、あらゆる分野において完全に自信を失い、まるで終戦直後の状況に戻ったかのよう…。
一体、次に何をしたらいいか分からない…。
と、私たちは
「“グローバル化”こそ、豊かな日本を再生してくれるものだ!」
「日本的な経営ではもうダメだ。アメリカの“マネジメント手法”こそ、最も優れた経営手法だ!」
と、日本古来の経営思想・哲学は切り捨てられ、欧米を真似た“利益優先主義”の企業が増加しました。

しかし、その期待とは裏腹に、全く改善の兆しが見えず、失われた30年とも言われる長い経済の停滞へ突入…。

更には、徹底した競争による能力主義によって、
利益を上げるためなら何でもする…
と、かつてはほとんどなかった汚職や不祥事が蔓延。

あらゆる施策をやればやるほどダメになる…。
そんな負の循環に陥っているように思えます。

最近、日本に元気がなくなってきているのは、欧米の利益主義に走り、日本らしさを忘れている企業が増えてきているのが1つの原因だと思います。

日本企業の衰退は、国家の衰退に繋がり、そして国民の生活にも多大な影響を与えます。

ですが、私たちの足元には、和の国らしさを出しながら、日本の繁栄を支える大変良い教えが眠っています。
そのことに気づいて、正しい指針を基に会社を経営する。
もしくは、社員として、それぞれの持ち場で日本人らしさを活かして働く。
そうすれば、日本本来の精神と使命を回復し、再度、日本は世界に対して強い存在感を与えることができるようになると思います。

“自分たちの利益ばかりを追求するのではなく、世のため人のために事を成す”
古くから先人たちが大切にしてきた和の精神は、現代の日本人にも根付いているはずです。

「日本人には日本人としての血が流れている。この純潔の血の囁きは、純潔なる日本人の囁きである」
「その血が、日本人らしく行動せよと囁くのである。戦争であまりに打ち負かされ、外国化されたる政治、教育、言語は、青年を満足させはしない」

こう出光佐三が言い残したように、数千年の伝統を持つ日本人の特性や強みに目を向けずして、外来のものばかり頼るのは、もうやめにしましょう。

30年以上も続く停滞の時代。
手遅れになってしまう前に、今こそ我が国の足元に眠る宝『三方よし』の考え方に気付くべき時ではないでしょうか。

【編集後記】

Amazonが頼った経営の正体

1年前のことですので、ご存知の方もいらっしゃるでしょうが、2019年8月にアメリカの主要経営者団体が声明を発表しました。

この声明にはAmazonやApple、ゼネラル・モーターズ(GM)といった誰もが知るアメリカ大手企業のCEOが次々に署名しました。

「これまでの株主第一主義はもう古い」
と新たな経営思想に舵を切ることになりましたが、その新しい経営思想のルーツとは…

ビジネス感覚に優れた民族として世界的に名高い“ユダヤの経営”ではありません。

幸福度ランキングで毎年世界上位を独占し、先進的なイメージがある“北欧の経営”でもありません。

頭に菅笠、縞の道中合羽を羽織り、肩には荷を下げた天秤棒…。
なんと、江戸時代から明治にかけて活躍した日本三大商人のひとつ“近江商人”がルーツの日本古来の伝統的経営『三方よし経営』と全く同じ経営に舵を切ることになりました。

声明で、近江商人の言葉が出たかは分かりませんが、三方よし経営がビジネスの本場であるアメリカの大手企業も認めたということは、彼らよりも先んじて経営思想を取り入れた我が国の先人たちは称賛に値します。
このことは、現代の日本がもう一度、経営思想・哲学を見直し、活力を取り戻すことができる良いきっかけに繋がるのではないかと思います。

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