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2024.7.25 【全文無料(投げ銭記事)】藤原道長の傲慢は嘘?

この世は 自分(道長)のためにあるようなものだ?

藤原道長といえば、誰でも思い浮かべるのが下の和歌でしょう。

 此の世をば 我世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば

この歌のよくある解釈は、次のようなものでしょう。

「この世は 自分のためにあるようなもの 満月のように 何も足りぬものはない」

しかし、こうした道長像は、近年の歴史学の進歩ですでに時代遅れになっています。

例えば、東京大学の故・山中裕史料編纂所教授は、吉川弘文館の定評のある人物叢書の1冊として著した『藤原道長』の中で、以下のように総括しています。

道長は決してあせらず、強硬なこともせず、人の気持ちを充分に考慮に入れながら事を運んでいく。
ここに平和な文化の華がひらき、女流作家たちが続出したのも、道長が最高の地位に就いてよき政治を行っていたからということができよう。
道長の人物の賜物によるものであった。

冒頭の望月の歌にしても、傲慢な姿勢とは全く違った解釈が登場しています。

それを読むと、後世の人々にこれほど曲解された道長が気の毒になってきます。

歴史教科書の「生徒が誤解する恐れのある表現」

“権力と富を独占した傲慢不遜な道長”という一般的なイメージは、やはり歴史教育から作られているようです。

中学の歴史教科書でトップシェアを誇る東京書籍版は、いかに道長が巨大な富を得たのかを印象づけるように紙面を構成しています。

まずは、道長の邸宅が東西約109m、南北約229mもあったことを復元模型で示し、“考える”と題した設問で、
<藤原氏は、なぜこの復元模型のような邸宅を建てることができたのか、本文から考えましょう>
と問うています。

その本文では、以下のように解説しています。

【藤原氏と摂関政治】
平安時代には、藤原氏が娘を天皇のきさきにし、その子を次の天皇に立てることで勢力をのばし、ほかの貴族たちを退けていきました。
そして9世紀後半には、幼い天皇のかわりに政治を行う摂政や、成長した天皇を補佐する関白という職に就いて、政治の実権をにぎるようになりました。
このように、摂政や関白が中心になった政治を、摂関政治といいます。
摂関政治は、11世紀前半の藤原道長と、その子の頼通のころが最も安定し、太政官の役職の多くを藤原氏が独占しました。
かれらはその地位に応じて多くの給料をあたえられていました。

<広大な屋敷>
<多くの給料>
と述べた後で、次のコラムで、
「此の世をば我世とぞ思ふ」
の歌を紹介するのです。

【藤原道長の栄華】(「小右記」)
寛仁2(1018)年10月16日
今日は威子いしを皇后に立てる日である。
…太閤(道長)が私を呼んでこう言った。
「和歌をよもうと思う。ほこらしげな歌ではあるが、あらかじめ準備していたものではない。」
この世をばわが世とぞ思う 望月の欠けたることも無しと思えば
(部分要約)

歌の現代語訳はつけずに、こういう紙面構成をすれば、誰でも
“権力と富を独占した傲慢不遜な道長”
というイメージを持ってしまうでしょう。

しかし、これは実に巧みに誤ったイメージを植え付けるよう周到に構成された誘導記述なのです。

文科省が教科書に対して検定意見をつける際の定番が、
“生徒が誤解する恐れのある表現である”
というものですが、この記述こそ、最も巧みに且つ意図的に“誤解する恐れ”を与えているのです。

見事な引っかけ記述

“誤解する恐れ”に導くための手口をまとめます。

第1に、道長自身は、ほとんど関白や摂政にならなかったことです。

この点を述べずに、
<摂関政治は、11世紀前半の藤原道長と、その子の頼通のころが最も安定し>
というと、誰しも、道長が関白や摂政になったと思い込んでしまいますが、そうは言っていません。

実に見事な引っかけ記述なのです。

第2に、
<摂政や関白が中心になった政治を摂関政治といいます>
と述べていますが、摂政・関白が独裁者として権力を振るう制度と捉える見方は時代遅れとなっています。

摂関政治は律令制の延長であり、実際の政治は太政官での公卿による会議『陣定じんのさだめ』で行われていました。

第3に、
<此の世をば我世とぞ思ふ>
の歌にも、現代語訳をつけず、読者が勝手に傲岸不遜な人物だろうと思い込むように、その前に、
<東西約109m、南北約229m>
もの邸宅とか、
<多くの給料>
という記述を行っています。

そもそも、この程度の邸宅は、欧州や中国の貴族とは比べものにならないほど、慎ましやかなものです。

また、<多くの給料>とはどれほどのものなのか、数量的表現もありません。

以下で、上記3点について詳しく真実を見てみたいと思います。

関白や摂政という名誉職より、実際の政治を志した道長

道長は長徳元年(995)年5月、30歳にして内覧に任命されました。

内覧とは天皇への奏上文書、及び宣下(天皇の意思、公卿の会議『陣定』の結果を公にする)文書に目を通す役割です。

内覧の最初は、醍醐天皇の時、藤原時平・菅原道真の二人に内覧宣旨を下したのがはじまりとされている。
これは、天皇親政を旨とし、摂関を置かないという建前で行われたのである。

内覧について補足すると、いわば天皇という最高の権威者の下で、実務的な統治機関である太政官の最高責任者という立場です。

そして、道長の姉である詮子せんしが生んだ一条天皇は後に聖帝とみなされるようになりましたが、道長と詮子、そして道長の長女で一条天皇の皇后(中宮)となった彰子が天皇をしっかり支えました。

また、一条天皇と彰子の間に生まれた後三条天皇(在位:1068~1073年)は、即位に際して、道長に関白就任を望まれましたが、道長は固持しています。

どうやら、道長は関白や摂政というような名誉職に就くことよりも、内覧として太政官がしっかりとした政治を行うことの方に志を持っていたようなのです。

太政官での民主的な議論を尊ぶ政治

当時の重要な決定は陣定で決められていました。

形の上では天皇の諮問機関ですが、天皇がその決定を覆すことはなかったために、陣定が実質的な国政機関でした。

そこでは位の下の公卿から発言し、少数意見も含めて、天皇に奏上されていました。

寛弘9(1012)年、この陣定で三条天皇即位に伴う改元の議が議論された時には、道長を筆頭に多くの公卿が陣定に参加して、文章博士が出した3つの年号候補の中から『長和』に決めました。

実は、この会議で道長は、一条天皇の時に提案されて採用されなかった『寛仁』が良いのではという意見を述べたのですが、博士からの年号候補に含まれていなかったとして、公卿たちに却下されてしまいました。

こういう議論の過程まで、しっかり記録されているのです。

道長の意見といえども、手続きから逸脱した意見は、下位の公卿たちが遠慮なく批判し拒否しています。

こういう審議の実態から見ても、道長が日頃から部下の意見によく耳を傾け、道理の通った結論を出そうとする姿勢をとっていたことが窺われます。

抑も摂政や関白が権力を握って、独断で政治を進めたという捉え方自体が時代遅れであることを山中氏は指摘しています。

大正・昭和の初期、歴史学界の中に律令政治が崩れて摂関政治が出来、政所ですべての政治が行われ、天皇に幼帝が多かったため、摂関が勝手に政治を動かしていたという、摂関政治は政所政治であるとの説があった。
しかし、それは現在否定され、摂関政治は太政官政治であり、公卿会議(陣定)で政治は行われ、律令政治の延長線上にあるという理解が通説となっている。

現代の歴史教科書が“大正・昭和の初期”の頃の、既に否定された説に基づいて書かれているということは、執筆者たちの恐るべき怠慢か自虐史観のための意図的な虚偽記述でしょう。

歴史学者でもあり、東京大学の大津透教授も次のように記されています。

一条天皇は道長と協力しながら、公卿の上に立って、その時代なりに意味のある政治を進めたというのが真相に近いだろう。
おたがいに相手を尊重したようで、
「摂関政治というものは、天皇と摂関が外戚として一体感を持ち、相互に敬愛して朝廷を運営することを理想とした」
と土田直鎮氏はのべている。
かつては摂関が政権を独占して天皇の権力を奪ったような構図もあったが、現在では土田氏の言が多くの支持をえている。

この世をばわが世とぞ思う

ここまで理解すれば、
 此の世をば 我世とぞ思ふ
の歌を傲岸不遜と解する見方には違和感が生ずるでしょう。

全く別の解釈が現れています。

この歌が謳われたのは、道長三女の威子が、後一条天皇の皇后になったことを祝う宴の二次会でした。

京都先端科学大学の山本淳子教授は、次のような指摘をしています。

・この時代の和歌で「このよ」は、「この世」と「この夜」をかける掛詞かけことばとして使われている例が多い。

・「我が世」は、天皇や皇太子以外が「わが支配の世」の意味で使う例は他にない。

同時代の歴史物語『大鏡』には、
「心のままに、今日はわが世よ」(心のままに過ぎる私の楽しい時間)という表現があります。

そして、当日は15日の満月ではなく、16日の少し欠けた十六夜いざよいの月でした。

ですから、これは満月を見て詠んだ歌ではありません。

当時の表現で、『天皇は太陽、皇后は月』を表した用例がありますので、3人の娘が皇后になったという喜びを謳ったものだと考えられるのです。

とすれば、この歌は、
「今夜は我が人生最高の夜だ 3人の娘すべてが皇后になって」
というように解すべきでしょう。

そして、その喜びは、自分の権力が弥益いやますことを喜んだものではありません。

それによって、更に緊密に皇室をお支えすることができることを喜んだ歌と解せられるのです。

この歌の返歌を求められた藤原実資さねすけは、
「それにこたえて自分も返歌をなすべきであるが、これは非常に立派な歌であって、とても返歌は出来ない。ここにいる全員でこの歌を誦すことにしましょう」
と言い、諸卿もみな同意し、数回吟詠しました。

実資は、当代一流の学識人であり、藤原道長にもおもねらない人物でした。

最終的に従一位右大臣に昇り、『賢人右府』とまで言われた人間です。

その実資の
「とても返歌はできない。皆でこの歌を唱和しよう」
と言うセリフが、道長へのへつらいだと解することは、その人柄からして考えられません。

また、これが道長の個人的野心からの喜びだったら、この歌を皆で唱和することは意味が通りません。

ここは、やはり道長が皇室と更に一体となった今、これからも“道長チーム”として、皆で力を合わせて皇室を支えていこうという公卿たち全体の喜びであったと解すれば、皆で唱和することの意味が理解できるのです。

藤原氏の伝統的精神

道長のあくまでも皇室を中心に政治を行っていこうという無私の姿勢は、藤原氏の伝統的な精神に則ったものでした。

藤原氏、かつての中臣氏は、『日本書紀』や『古事記』において、天児屋根命あめのこやねのみことの子孫とされています。

この神は、天照大神が天岩戸あまのいわとに閉じこもってしまわれた時に、岩戸の前で祝詞のりとを唱えて、大神にお出まし戴くきっかけを作りました。

また天孫降臨に随伴して、地上に下っています。

わば、神話時代からの皇室の近臣でした。

歴史時代に入ってからも、鎌足は大化の改新で中大兄皇子、後の天智天皇を補佐する重要な役割を演じ、また、桓武天皇の晩年には藤原緒嗣おつぐが、
「民のために、平安京造成と蝦夷平定をもう中止すべき」
と、大胆な直言をしています。

国家のため、皇室のために、無私の心で尽くそうというのが藤原氏の伝統的な精神でした。

それらの先祖に対して、道長は強い思いを抱いていました。

道長は仏教を深く信仰しており、自ら写経をして、吉野のさらに奥、山岳修行の第一の霊場の金峯山きんぶさんの頂上に登って、お経を埋蔵しています。

そうした仏教信仰は自らの極楽往生のためではなく、先祖の供養のためだと記しています。

それほど先祖思いの道長ですから、自分の一族が神話時代から皇室を補佐してきたという誇りと使命感をしっかり受け継いでいたことでしょう。

こういう道長の真実の思いを無視して、
 此の世をば 我世とぞ思ふ
という、僅か一首を曲解して、世を私した傲岸不遜の人物として描くのは、言われなき誹謗中傷と言うべきものです。

最後までお読み頂きまして有り難うございました。
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