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2020.7.23 「看護婦=女性」は日清戦争から?

今や女性のイメージの強い「看護師」ですが…。
実は明治以前、“看護師”のような役割を担っていたのは男性だったことを皆さんご存知でしょうか?

日本初の看護婦学校に一期生が入学したのは1890年。

それまで、「看護婦・看護師」という仕事はなく、医療現場では単なる雑用係りのような扱いでした。

その後、日清戦争で初めて日赤看護婦が軍の病院に招集されて活躍。

日清戦争後、招集された看護婦が叙勲の対象になったため、新しい女子の職場として大いに看護婦の人気が高まっていき、日露戦争では2000名を超える日赤看護婦が従軍し、「看護婦」のイメージが定着していきました。

「看護婦」の歴史の始まりとなる日本初の看護婦学校がありますが、このきっかけを作ったのは大山捨松という1人の女性でした。

チャリティーバザーを日本で初めて行い、小学校教員の初任給が8円ほどだった当時に8000円もの大金を稼ぎ出し、それを全額寄付。

その資金によって看護婦のための学校が作られました。

そんな彼女は日本初の「女子留学生」の1人。

アメリカで看護を学んだ彼女だからこそ、日本の看護婦学校の必要性に気づくことができ、また資金集めに利用したチャリティーバザーもアメリカでの経験を生かしたものでした。

そして…

次の新5000円札の肖像画に選ばれている津田梅子も捨松と同様、日本初の女子留学生としてアメリカに留学した1人です。

彼女は留学生活で身に付けた考え方を上手く日本に導入し、当時の日本女性たちの前に立ち塞がっていた高い壁を壊していったのです。

その壁は、看護婦を日本に導入した捨松ですら屈したほど高かったもの…。

彼女が壊した"壁"とはどのような物だったのか?

そして彼女はどのようにして、"壁"を壊していったのか?

単に「津田塾大学を作った」というだけに留まらない彼女の生涯について、只今書き綴っておりますので、公開まで暫くお待ちください。

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