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2022.2.10 長寿企業が必ず守る“言い伝え”

長寿企業の『三方よし』

東京の日本橋堀留町に本社を構える『チョーギン』という会社があります。

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ちなみに、平成時代に破綻した長銀(日本長期信用銀行)ではありません。
アパレルやインテリア用品の製造・卸小売りを行っている会社になります。

実は、この会社は創業が1798(寛政10)年で、優に200年を超える歴史を持っています。

創業者は丁子屋ちょうじやの屋号で、麻布などの行商を営んでいた近江商人の小林吟右衛門。

丁子屋の吟右衛門を略して『丁吟』、すなわち『チョーギン』となりました。

初代は少年時代から行商を始めましたが、その子である2代目吟右衛門の時代に京、大坂、江戸に店を構える大商人に成長しました。

現在の社長は、8代目の小林一雄氏。
小林社長が社員によく言うのは、『三方よし』という近江商人の経営理念として必ず出てくる言葉。

「売り手よし、買い手よし、世間よし」
という事で、商取引は売る方にも、買う方にも、そして社会全体にも利益になるものでなくてはならないという意味です。

同様に『三方よし』を説くのが、秩父の矢尾百貨店の社長を務める矢尾直秀氏。

矢尾家9代目の当主であるが、近江出身の初代矢尾貴兵衛が1749(寛延2)年に、秩父で酒造業を始めたのが家業の始まりです。

チョーギンは200歳、矢尾百貨店は250歳を超える長寿企業ですが、長寿の秘訣は『三方よし』の経営理念にあるようです。

『世間よし』による長期的繁栄

事業を永く続けるには安定した収益が必要ですので、『売り手よし』が大事な事は言うまでもありません。

しかし、お金を払ってくれる買い手がなければ、そもそも事業が成り立たないので、『買い手よし』でなければなりません。

買い手を騙したり、犠牲にしたりする事業が長続きするはずはありません。

買い手が喜んで買ってくれるような商品やサービスを提供してこそ、事業が長続きします。

『世間よし』について、矢尾百貨店の矢尾直秀氏は、
「うちは他国よそ者だったが、故に地元の商人以上に地域社会に神経を使って、その役に立つことが必要だと考え、代々それを実践してきました。」
と言っています。

1884(明治17)年、松方デフレで生活に困窮した秩父地方の農民が暴徒化して、高利貸しや富裕商店を襲撃して打ち壊しを行いました。

映画『草の乱』の基となった、いわゆる秩父事件(秩父困民党事件)です。

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この時、矢尾商店は炊き出しこそ命ぜられましたが、打ち壊しは免れました。

天保の飢饉の時には飢えた人に米を配ったり、金利が急騰した時も暴利を貪ったりしなかったので、その『世間よし』の姿勢が、地域住民から高く評価されていたのです。

『世間よし』は、秩父事件のような非常時ばかりではなく、平常時にも大切なものです。

地元の商店街と張り合うよりも、商品構成などで補完しあえば、両者一体となった大規模なショッピングゾーンとして、より多くの買い手にサービスをすることができます。

また地域での雇用を拡大したり、自然環境を大切にしたり、地元の文化行事に協賛したりすれば地元住民も贔屓にしてくれます。

暖簾のれんは心に懸けよ

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京都で箸屋を営む市原平兵衛商店も創業は明和年間(1764〜1672)で、初代市原平兵衛はやはり近江出身だといいます。

現在の当主は8代目の市原たかし氏ですが、7代目の廣中氏が後を継いだ昭和38年のこと。

先代から仏間に呼ばれて、突然、
「今日からおまえが後を継いでやれ」
と言われました。

この時、先代から言われたことの一つが、
「暖簾は家でなく心に懸けよ」
ということでした。

暖簾とは『信用』です。
長年『買い手よし』を実現していれば顧客から信用され、また『世間よし』を続けていれば社会から信頼されます。

その信用の象徴が暖簾です。

しかし、暖簾を家に懸けておけば、信用が自動的に守られるというわけではありません。

先祖代々営々と築き上げてきた信用も、顧客を裏切るような商売をすれば、一朝にして失われてしまいます。

店に懸ける暖簾を守ろうとすれば、まず心の中に暖簾を懸けて、それを絶対に汚すまいという覚悟が大事なのです。

暖簾分け

これまた京都で呉服卸問屋を営む『千吉ちきち』も、応仁の乱後の弘治年間(1555〜1558)に、初代の貞喜が京都で法衣を商ったのが始まりです。

本家は千切屋与三右衛門と言いましたが、この家は断絶して3つの分家が呉服の商いを継ぎました。

千切屋治兵衛が千治ちじ、千切屋惣左衛門が千総ちそう、そして千切屋吉右衛門が千吉《ちきち》です。

これら三家が揃って、今も家業を続けているというから恐れ入ります。

その千吉の会長で第12代目の西村大治郎氏は、永続的繁栄の秘訣の一つが『暖簾分け』というシステムにあったとして、
「かつては12,3歳で丁稚でっち奉公に入った。そして30歳くらいまでの間働いて手代や番頭に昇進し、功績が抜群であれば暖簾分けをして独立することができたんです。
この仕組みは組織の新陳代謝となり、働いている者には独立するという明確な目標を与えることになり、また暖簾分けという形で社会的な信用を付することになり、合わせてグループ全体の相互扶助にもなるという、双方にとってメリットのある仕組みだったんです。」
と語っています。

『暖簾分け』とは、まさに本家の信用を分家に分け与えることです。

新しく独立した分家は、本店から与えられた信用を商売に生かしつつ、その暖簾を汚さないよう励まなければなりません。

西村氏はさらに、
「よく暖簾と申しますけれども、私は暖簾をまず信用の象徴と、次に外に向かっては闘志の象徴と、そして内に向かっては人の和のよき人間関係の象徴と捉えています。」
とも言っています。

暖簾分けによって生まれたグループは、信用を共有するだけでなく、外に向かってはその信用を守るべく奮闘し、内にあっては互いに助け合う。

暖簾はまさにグループの絆です。

絶対に欲を出すな

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暖簾を守るためには、それなりの工夫が必要です。

1689(元禄2)年から秋田県仙北郡で酒造りを続けている、鈴木酒造店の第18代当主である鈴木松右衛門氏は、
「昭和32年に養子になった時、養父から申し渡されたのは、次の二つの約束を守ってくれ、それを守れば事業は必ず永続するからということでした。
その二つとは、一つは絶対に欲を出すなということ。
売れるからといって極端な増石(増産)をすると、必ず不良品が出て蔵の信用を落とす。
先代は一つの目安として前年比105まではよろしいといっていた。
二つ目は、自分の蔵で作った酒の8割は仙北郡で消費してもらえるようにせよということです。
たしかに地元の人に支持されない酒では仕方がない。うちの地元にこんな旨い酒があるよと、自慢されるくらいになりたいものです。
それと、郡外、県外の割合が多くなればなるほど、債権の回収リスクは高くなる。実際それで潰れた同業者もいる。
この二つの戒めを授かったわけですが、考えてみると、このお陰で今日があるような気がしました。」
と語っています。

地元の人に支持され、その自慢になるほどの酒とは、まさに『買い手よし、世間よし』です。

そのためには量的拡大を犠牲にしても、品質追求に徹するというのです。

声なくして人を呼ぶ

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京昆布の老舗『松前屋』は、元は南朝に仕える武士の家柄で、昆布を売って軍資金を稼いでいましたが、南朝最後の後亀山天皇から『松前屋』の屋号を頂き、以後は皇室ご用一筋で幕末までやってきました。

現在の当主は第32代の小嶋文右衛門氏で、

「明治まで禁裏御用一筋で、一般の方への商いはなかったんです。
天皇家のお使いになるもの、陛下が召し上がるものだけを用意していたわけですから、利益を追求するのではなく、最高のものを調達していたんです。
皇室御用達というのは最高の暖簾ですが、それを汚さないよう質の徹底的な追求が不可欠です。
明治に入って、8年頃から町商いをすることになるわけですが、以降一貫していることは、良い商品を作って、自分の商品にプライドを持って売っていくということです。
昆布は5年間は蔵に寝かしてから、最上級の品質のものだけを使います。一年間に作る量も決まってしまいます。味を大事にすれば、たくさん作ることはできません。
従って、売上げも自ずと決まって、大きく利益が出ることもありません。
主人の目の届く範囲でいいんです。それをあれもこれもと手を広げようとすると、どっかに必ず落とし穴があって失敗する。」
と語っています。

「プライドを持って」とは、「暖簾を心に懸けて」に通じます。


また利益に目がくらんで、むやみに量を増やしたり、事業範囲を拡大したりするなとは、前節の鈴木酒造店とまったく同じ姿勢です。

最後に小嶋氏は、
「我々のようなモノ作りに携わる人間は、正直であることが大事です。
私の好きな言葉に、『声なくして人を呼ぶ』というものがあります。
自分から宣伝しなくとも、良いモノを作っていれば、自ずと口コミでそれが広まっていくという意味だと思いますが、そうなるのが我々の喜びですね。」
と話を結びました。

暖簾を心に懸けて、黙々と顧客が喜び、地元の自慢になるような商品を作っていれば、宣伝は顧客の方で勝手にやってくれる。

やはり『買い手よし、世間よし』こそが永続的成功への道なのです。

名と暖簾を継ぐ

代々の当主が同じ名前を引き継ぐというしきたりが多くの老舗で行われています。
これにも実は、極めて合理的な理由があります。

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京漆器の老舗『象彦ぞうひこ』の現代の当主は、9代目の西村彦左衛門氏。

9代目を襲名した1967(昭和42)年、36歳の時、

「名を襲って、改めて代々受け継がれてきた名前を汚してはならないという緊張感を持った。
代々、同じ名前を継ぐということは、暖簾を継ぐことである。
まさに駅伝の走者のように、名と暖簾が先代から次の代へと引き渡される。
象彦に代々伝わる『亭主之心得』に曰く、
<亭主たる者、その家の名跡財宝、自身の物と思うべからず。
先祖より支配役を預かり居ると存じ、名跡をけがさぬように子孫に教へ、先格(先祖伝来の決まり)をく守り勤め、仁義を以て人を召し仕い、一軒にて、別家の出来るを先祖への孝と思い、時来り、代を譲り、隠居致すとも、栄耀る暮らしは大いに誤りなり。>」
と語っています。

家業は当主の個人的な財産ではなく、先祖からの預かりものであり、当主はその暖簾を守って子孫に伝える責任を持つ『支配役』であるといいます。

会社を個人的な財産と考えれば、短期的に大儲けして、ほど良い所で従業員は首切り、事業は売り払いというバクチ的な経営もできるでしょうが、それでは一時成金には成れても、永続的な老舗には成れないのです。

「老舗の新店」

逆に、先祖から伝えられた家業を墨守しているだけでも、永続的な成功は不可能です。

それでは技術的進歩もなく、不断に変わりゆく買い手や世間についていけないからです。

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『とらやの羊羹』で有名な虎屋は、事業の淵源は鎌倉時代の1241(仁治2)年に遡ります。

以来、御所の御用を勤めてきましたが、歴代の当主はそのことを誇りに思い、その名誉を汚すことなく家業を続けていくことを最高の経営方針としてきました。

当代の黒川光博氏は、戦国末期の虎屋中興の祖である黒川円仲から数えて
17代目に当たります。

光博氏は、
「自分の使命は、“いいものを作ってお客様に喜んで頂く”ことはもちろんだが、虎屋として“和菓子の頂点を極めていきたい”。
伝統は革新を連続させることにあると思います。伝統の中の良いものを残し、一方で新しい風を起こすことが大事ではないか。
それを言葉でなく、具体的な経営の中に見出し変革していくことが、むしろ伝統を守ることになると思うのです。」
と言います。

「和菓子の頂点を極める」ためにも、常に新しい工夫を加えていかねばなりません。
その革新の積み重ねが伝統を形成します。

冒頭に紹介したチョーギンの第8代目小林一雄氏は『老舗の新店』という言葉を使い、
「『老舗の新店』とは、自分の好きな言葉です。長く続いていくためには、その時代その時代にあった新しい店を作っていかなければならないということ。
世の中の変化への対応が必要だからです。代々もそれに苦労してきた。」
と語ります。

『買い手よし、世間よし』を長く続けるには、買い手と世間との変化に対応して、不断の革新を続けていかねばならないのです。

そう言えば、日本自体も現代国際社会におけるダントツの老舗と言えます。

淵源は遥か神話時代に遡り、当主にあたる今上陛下はなんと第126代。

その老舗が、携帯やらデジカメやらのハイテクで世界をリードしています。
『老舗の新店』とは、わが国の国柄にも言えるようです。

現在の私たち日本国民も超老舗国家の駅伝選手として、心に暖簾を懸けて、走り続けていかねばならないのではないでしょうか。

いつもより長くなりましたが、最後までお読み頂きまして有り難うございました。

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