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2022.1.23 敵兵を救出せよ!帝国海軍の素顔

戦後のGHQや左翼による
「日本の軍人は絶対悪である」
という思想教育…。

「大東亜戦争の責任の全ては日本にあり、戦前の日本は横暴な帝国陸海軍に支配される暗黒期であった」
という、植え付けられた自虐史観…。

しかし、当時の帝国軍人教育を見直してみると、私たちの抱くイメージとはまるでかけ離れた姿がそこにはありました。

今回は、大東亜戦争真っ最中の海の上で起きた、英国海軍と日本海軍の人間同士の物語を書き綴っていこうと思います。



2003年、元英国海軍で戦後は外交官として活躍したサムエル・フォール卿が来日。

無題

「死ぬ前に、どうしてもお礼を言いたい。この歳になっても、一度として彼のことを忘れたことはありません」

フォール卿の来日の目的は、ある日本帝国海軍少佐を見つけ出すことでした。

〜英海軍艦の撃沈〜

大東亜戦争中の出来事。

1942年2月28日。
ジャワ島北東部スラバヤ沖にて撃沈した英海軍駆逐艦『エンカウンター』。

翌日には、近くで別の英国海軍巡洋艦『エクセター』が撃沈され、脱出した両艦の乗組員たちは合流し、連合国軍の救助が来てくれることを信じて海の上を漂流していた。

しかし、いつまで経っても味方の救助が現れることはなかった。

赤道に近い海の上で飲み水もなく、祖国に帰ること諦める船員も出始めていた頃、一隻の小型艦が通りかかった。

それは、大日本帝国海軍の駆逐艦『雷(いかづち)』だった。

当時は、まさに戦時下で漂流者の救出の義務もなく、ましてや敵軍であった英国軍人たちは、機銃掃射に遭うのではないかと絶望した。

〜敵兵を救出せよ〜

駆逐艦『雷』の艦長を務めたのは、海軍兵学校51期卒生の工藤俊作少佐(当時)だった。

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工藤艦長は海の上を漂う英国海軍兵を発見すると、
「敵兵を救助せよ」
との号令を発した。

救助活動とはいえ、艦を停止させれば敵の潜水艦の格好の的となり、傷病者を受け入れ手当てを行うとなると、戦闘が行えなくなってしまう。

『雷』の乗組員は220名に対して、漂流する英海軍兵の数は400人以上。
助けても反逆を起こされてしまうかもしれない。

そう言ったリスクを全て考慮した上での決断だった。

「一番砲だけを残し、総員、敵溺者救助用意!!最低限の人員を残し、あとは全員救助に向かえ!!」

工藤艦長のこの号令の元、日本海軍兵による英海軍兵の救助が行われた。

日本海軍兵は魚雷搭載用のクレーンや友軍救助の際でも使用を禁じられている梯子、ロープに竹竿、使える物は全て使って救助活動を行なった。

英海軍兵は、このような状況でも秩序を守り負傷者、士官、下士官、兵の順番で救助され艦に上がっていった。

当時、『石油の一滴は血の一滴』と言われ、燃料を制御する機関長らは節約に努力していたし、艦内の真水は燃料を使って精製されていたので、乗組員たちも節約して水を使っていた。

機関長は、このまま救助活動を続ければ戦闘時の燃料がなくなってしまうと上申したが、工藤艦長は、
「漂流者は全員救助する」
とし、最後まで救助活動を行なった。

この時、救助された英海軍兵の数は422人に上った。

当時、英国海軍少尉であったフォール卿は、このうちの1人である。

救助された英海軍兵1人に対して日本海軍兵2人掛かりで世話をし、重油にまみれた体を真水で洗い、アルコールを染み込ませた木綿の布で丁寧に拭き、被服と食料、飲み水を惜しみなく提供した。

そして、工藤艦長は英国海軍の士官を集め、
「あなた方は勇敢に戦われた。この艦において、あなた方は日本帝国海軍の名誉あるゲストである」
とスピーチし、士官室の使用も許可した。

この時、救出されたフォール卿は、『雷』艦内で受けた厚遇を
「豪華客船でクルージングしているようだった」
と回想している。

そして、この出来事を
「たとえ戦場でもフェアに戦う、戦闘を終えた後は互いの健闘を称え合い、勝者は敗者を労る『日本武士道の実践』だった」
と述べている。

〜再会〜

フォール卿が初めて来日した2003年の時点で、工藤中佐(最終階級)は既に他界しており、遺族がどこにいるのか、墓がどこにあるのかも分からなかった。

しかし、この救助劇の話を聞いた元海上自衛隊の惠隆之介氏は、
「工藤中佐のお墓の所在と遺族を探し出してみせる」
とフォール卿に約束し、自身の海上自衛隊時代の人脈を駆使し、ついに工藤中佐の墓と遺族を見つけ出した。

惠隆之介氏1-3

フォール卿は心臓病を患っており、長旅は困難かに思われたが、惠氏より知らせを聞き、再来日を強く希望。

そして、2008年12月、フォール卿は工藤中佐が眠る埼玉県川口市の薬林寺境内を訪ね、67年ぶりの再会を果たした。

帝国海軍は『サイレント・ネイビー』とも呼ばれ、軍人には「己を語らず」というモットーがあった。

どんなに善い行いをしても、それを自らが語っては、その功は台無しになる。

工藤中佐も家族には英国兵救出のことを話すことなく他界しており、遺族らがこの事実を知ったのは、フォール卿の訪問によってだった。

その5年後の2014年、フォール卿は94歳でこの世を去った。

フォール卿は生前、日本への国際世論の風当たりが激しい中で、米海軍の機関紙や英国タイムズ紙に、『雷』の敵兵救助と工藤中佐を称える投稿文を掲載。

そして、1996年には、自伝『My Lucky Life』を出版し、その本の巻頭には、
<帝国海軍少佐 工藤俊作に捧げる>
と書かれている…。

最後までお読み頂きまして、有り難うございました。

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