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2022.4.18 日本が黄金の国ジパングと呼ばれた理由

モンゴルは、今でこそ中央アジアの小国にすぎませんが、元(モンゴル)が、世界をつなげたということを理解しておかなければなりません。

日本では元寇という事件だけが注目され、日本が神風の味方も得て、元(モンゴル)の侵略を防いだということのみ語られますが、このモンゴルこそが、世界の歴史を一つにつなげたということの意義を認識することが必要です。

モンゴルは、チンギス・ハンの時代にモンゴル帝国を建てて、次々にユーラシア大陸の各地を侵略していきました。

そして、元寇によって日本征服を企てた第五代皇帝フビライ・ハンの時代に、大都(現・北京)を都にして元と称し、その領土を最大のものとしました。

ハンガリーに侵攻し、イタリアの近くまで迫り、最終的にはポーランドまで行っています。

モンゴル帝国の隆盛とその拡大によって、東西の様々な文物が行き交うことになり、東西の文化の交流も進んだという事実、これが重要です。

それというのも、東洋の文化がイスラムだけではなく、モンゴルを経由して西洋に伝わっていったということです。

その典型的な例が絹です。

絹を運ぶために絹の道(シルクロード)が造られ、東西が結ばれました。

それがモンゴルによって、長いユーラシア大陸を結び付ける駅馬車制として確立しました。

そのために、東西の交易がさらに円滑に行われるようになったのです。

これによって、マルコ・ポーロは日本の情報を西洋に伝えることができたのです。

それは、彼の著書である『東方見聞録』の中に黄金の島ジパングとして紹介されています。

これが、実は極めて重要な情報でした。

<ジパングは東の方、大陸から1500マイルの公海中にある島である。
しかも、真に大きな島である。
住民は色白で、優雅な偶像教徒である。
ここは独立国で、彼ら自身の君主を戴いて、どこの国の君主からも製肘を受けていない。
莫大な量の黄金があるが、この島では非常に豊かに産するのである。
それに大陸からは、商人さえもこの島へ来ないので、黄金を国外に持ち出す者もいない。
いま話したように、大量の黄金があるのもそのためである。
また、この島にある君主の宮殿のその偉観について話をしよう。
この君主は、全て純金で覆われた非常に大きな宮殿を持っている。
我々が家や教会の屋根を鉛板でくように、この国では宮殿の屋根を全部純金で葺いている。
その価値は、とても数量で計り得ない。
さらに、たくさんある部屋は、これまた床を指二本の厚みのある純金で敷きつめている。
このほか広間や窓も、同じようにことごとく金で飾りたてられている。
実際、この宮殿の計り知れぬ豪華さは、いかに説明しても想像の域を脱したものである。>(マルコ・ポーロ『東方見聞録』)

おそらく、奥州平泉の中尊寺金色堂のイメージが伝わっていたのでしょう。

純金で屋根も床も造られているわけではなく、木造に金箔を張っただけですが、日本の仏像も同じように金色に輝いており、彼らには強烈な印象を与えたのでしょう。

いずれにせよ、このマルコ・ポーロの『東方見聞録』ほど、金に飢えた西方の人々の血を湧かせたものはありませんでした。

モンゴルは、そういう意味でも日本を西洋に結び付ける重要な役割を果たしたのです。

しかし、よく言われるのは、モンゴル自体には強大な軍事力以外に大した文化はなかったということです。

やはり騎馬民族という蛮族、野蛮な侵略者であったというのです。

確かに宋を滅ぼすと、政治体制的には、全に宋の仕組みを破壊してしまいました。

しかし、その文化は一応受け継いで、西洋に伝える役割を果たしたのです。

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