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2021.8.23 民を救って貧乏に…仁徳天皇の素顔

2019年に登録された、日本で令和初の世界遺産。

国内最大の古墳である仁徳天皇陵。

今回は、この世界遺産のルーツについて、そして眠られる仁徳天皇が『聖帝』と呼ばれていた理由を記事にしたいと思います。

国民にとって、天皇はどのような存在だったのか?

それが見えてくるかもしれません…。


ある日、仁徳天皇は宮中の高台から遠くをご覧になりました。

見渡す限り、広大な平野とその先に見える緑の山々。

この日は、五穀豊穣のお祈りをされる日でした。

「今年も民が栄えるように…」

しかし、眼下の村をよく見ると、「ある異変」に気がつきました。

それは、人々の家から煙が全く上がっていないこと。

穀物をカマドで炊く当時、煙が上がっていないということは食料不足を意味していました。

「都がこんな状態ならば、地方はもっと貧しいだろう…」

仁徳天皇は深く心を痛め、3年間、税を免除しました。

税を免除したために、その間の朝廷の収入はゼロ。

宮殿は雨漏りするほど荒れ、天皇も服を新調できずボロボロの着物をまとっていました。

それでも天皇をはじめ、宮中の人々は我慢して暮らしていたそうです。

そして3年後、天皇は前と同じ高台から遠くを見られました。

すると今度は、人々の家から出る炊事の煙がハッキリ見えました。

「我は豊かになった、喜ばしいことだ」

食料不足が解消されたことで、天皇はお喜びになりました。

しかし、一方で皇后は、
「おかしなことを仰いますね。まだ宮中はボロボロですよ?」
と、不満げに言葉を返します。

それもそのはず。
徴税をまだ再開していないため、雨漏りのひどい宮殿やボロボロの服はそのままでした。

これに対し、天皇はこう仰いました。
「民がいてこその国、君主である。その民が富んでいるのだから、我も富んだということだ」

村が豊かになったところで、ようやく天皇は徴税を再開。

すると、かつて苦しんでいた民から思わぬ反応がありました。

なんと、天皇への恩返しのため、民が自主的に宮中の修繕に当たり、宮殿が見事に修復されたのです。

以来、人々は仁徳天皇に敬意を込めて『聖帝』と呼びました。

*『古事記』より大意を現代語訳


そして、仁徳天皇への感謝を忘れなかった民は、天皇の死後、巨大な古墳を造ったと言われています。

このように、天皇が民に心を寄せ、民は天皇の下で協力する。

これは、仁徳天皇の時代に限らず、2000年以上も受け継がれる日本の国柄である。

そして、日本史上で最大の危機とも言える大東亜戦争。

さらに戦後の復興においても、こうした日本の国柄を守るため、仁徳天皇から100代以上を経た昭和天皇も必死に闘われました…。

しかし、こうした日本の伝統は、戦後の自虐史観に基づいた左翼的な教育で教えられなくなり、日本人が共有してきた記憶から徐々に消え去ろうとしています。

事実、現在でも国民全体の「皇室への関心」は70%を超えていますが、10代~20代に限れば半分を切ってしまうほど…。

終戦直後、GHQが試みた「皇室」と「国民」の分断。

それから75年以上が経ち、時代が下れば下るほど、その効果を現してきています…。

そんな現代こそ、常に国民の安寧を祈られてきた歴代天皇への感謝を子供や孫の世代にも伝えていってほしいと思います。

今回ご紹介した仁徳天皇のように、民の様子を見、お祈りを捧げる儀式を
『国見』と呼びます。

この『国見』の精神は、およそ2000年が経った現代でも受け継がれています。

2011年の東日本大震災後、上皇・上皇后両陛下は毎年のように東北地方をご訪問。

避難所で苦難を味わう被災者を同じ目線で励まされました。

電力が不足した震災直後も自主停電に協力されたといいます。

また、令和に即位された今上天皇も高校時代から努力を重ね、歴代の功績を学ばれました。

“天皇、皇室のことはこれからも勉強をして、今後の自分の糧としていきたい”

皇太子時代、今上天皇は大学ご卒業の際にこう仰いました。

このようにして、歴代天皇の精神が脈々と受け継がれてきたのです。

今回は、いつもより短めですが、こうした歴史が忘れ去られてしまう前に、皇室が紡いだ日本の伝統をぜひ知ってほしいといった思いから書き綴りました。

最後までお読み頂きまして、有り難うございました。

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