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2023.7.22 【全文無料(投げ銭記事)】特攻隊員が笑っていた理由

大東亜戦争、末期。

沖縄の空に飛び立った1000を超える日本の特攻隊員。

生きて帰ることのできない作戦に臨んだのは、弱冠20代の青年たち。

彼らは、なぜ散りゆくことを望んだのか。

そこには、『軍国主義』の一言では決して片付けられない日本人の精神の秘密がありました…。

今回の記事では、ユダヤ人強制収容所を生き延びた精神科医ヴィクトール・フランクルの心理学を通して、国民の“根っこ”を考える意味も込めて、『生きることの意味』をテーマに書いていこうと思います。

本記事を読んで頂くと、
・ユダヤ人強制収容所での実話
・10代の特攻隊員の生き様
などが分かるかと思います…。


人生の最後の数時間でも、周りの人に気を配っていた青年

ユダヤ人強制収容所での体験を元に著した『夜と霧』が、英語版だけで900万部の世紀のベストセラーとなったオーストリアの精神科医で心理学者のヴィクトール・フランクル。

その講演録『それでも人生にイエスと言う』という本を読んでいたら、感動的なエピソードを見つけました。

フランクルがかつて診た患者の一人に、若い広告デザイナーがいました。

彼はデザイナーとして成功し、多忙な生活を送っていましたが、悪性で手術もできない脊髄腫瘍に冒され、手足が麻痺状態となりました。

入院して仕事を諦めた彼は、病院でも猛烈に読書をしたり、ラジオで音楽を聴き、他の患者と会話を交わして入院生活を意味あるものとするよう努力を続けます。

そのうちに病気が進行して、遂に翌日まで持たないとなった時、午前中の主治医は回診の際に、いよいよ彼の死が迫ったら、最期の苦痛を和らげるためにモルヒネを注射するよう看護スタッフに指示しました。

それを耳にした彼は、フランクルが当直医として、その日の午後の回診で彼の傍を通りかかった時、フランクルを合図して呼び寄せ、苦しい息の中でフランクルにこう伝えました。

だから、今夜で私は「おしまい」だと思う、それで、いまのうちに、この回診の際に注射を済ましておいてください、そうすればあなたも宿直の看護婦に呼ばれてわざわざ私のために安眠を妨げられずにすむでしょうから、と。
この患者は人生の最後の数時間でもまだ、まわりの人を「妨げ」ずにいたわろうと気を配っていたのです。

ヴィクトール・フランクル著『それでも人生にイエスと言う』

「どんなすばらしい広告デザインでも、いまお話しした死ぬ数時間前のふるまいにあらわれている行いにはかなわなかったでしょう」
と、フランクルは自身の感動を伝えています。

態度価値は人間が最期まで追求できる

フランクルは、人間が追求できる価値として、以下の3つを挙げています。
この患者を例に説明します。

創造価値:
“なにかを行うこと、活動したり創造したりすること、自分の仕事を実現すること”で実現される価値。
この患者の例では、広告デザインに当たります。

体験価値:
“なにかを体験すること、自然、芸術、人間を愛することによって”実現される価値。
入院後に本を読んだり、ラジオで音楽を聴いて感動すること。

態度価値:
“自分の可能性が制約されているということが、どうしようもない運命であり、避けられずに逃れられない事実であっても、その事実に対してどんな態度をとるか”ということにより実現される価値。
死の数時間前にもフランクルに気遣いをしたこと。

この3つの価値のうち、患者が最後の最後で実現できたのが、態度価値でした。
態度価値は、ベッドで数時間後の死を待つ患者も、また強制収容所で全ての財産も行動の自由を奪われた囚人でも追求できるものです。

“もっと人間に相応しい”ことで悩もう

フランクル自身が、ユダヤ人強制収容所の中で、彼なりの態度価値を発揮していました。

囚人たちが考えることと言ったら、日に一度の食事で配られるスープにジャガイモが浮かんでいたら良いなあとか、仕事を始める前に、怖い監督に当たるか、優しい監督に当たるかという目の前の事ばかりになっていました。

フランクルは“もっと人間に相応しい”ことで悩もうと気を取り直してみますが、なかなか上手くいきません。
そこで、今の囚人生活から距離をおいて、高い位置から眺めてみようとしました。

即ち、収容所生活が終わって、自分がウィーンの市民大学の講壇に立って、いま正に体験していることについて講演をしているのだと想像しました。


その講演には『強制収容所の心理学』と題までつけます。
実際に、戦争が終わって収容所から解放されてすぐ、その時に考えた内容をベースに講演をしたのがこの本です。

フランクルのように、収容所の過酷な日々の中でも、“もっと人間に相応しい”態度をとった囚人も少なくなかったようです。
彼は言います。

まさに強制収容所で、まさに強制収容所の体験を通して、内面的に前進し、内面的に自己超越して成長し、ほんとうに大きな人間に成長したたくさんのケースを知っています。

ヴィクトール・フランクル著『それでも人生にイエスと言う』

生きていることの意味

ニーチェは、
「生きることに内容、つまり理由がある人は、ほとんどどのような状態にも耐えることができる」
と言ったそうです。

収容所のような極限の状態で生き抜くには、自分が生き続けなければいけない理由、意味を、しっかり意識していなければなりません。

フランクルの居た収容所の棟に、ブタペストから連行された脚本家がいました。

彼はある日、夢の中で、
「私は未来を予言できる。知りたいことを問え」
という声を聞きました。

そこで彼は、
「アメリカの部隊がやってきて、私たちを解放してくれるのはいつか」
と質問します。
すると、答えは、
「3月30日」
でした。

3月中頃、フランクルは発疹チフスに罹って衛生室に入れられます。
4月1日に回復して棟に戻ると、脚本家の彼の姿はありませんでした。
聞くと、3月の終わりが近づいても戦況は一向に良くならず、彼はどんどん元気を失っていきました。

3月29日に発疹チフスで高熱を出し、30日に意識を失い、31日に亡くなったのです。

3月30日に解放されるという希望こそ、彼が今の苦しい収容所生活を耐え忍ぶ心の支えでした。
それが失われた途端に、死んでしまったのです。

フランクルは精神科医として、心を病んだ患者に対する治療法は、第一に精神的な支え、即ち生きていることの意味を与えることだったといいます。
人間は自分の生の意味を必要とする存在です。

特攻隊員たちが見つけた生の意味

全ての可能性を奪われた極限の状態でも、人間には態度価値を追求する自由はある事、そして、それによって得られる意味が人間を支えること。

このフランクルの指摘から思い起こしたのは、特攻隊員たちの生き様です。

新型コロナ禍になる前、私は知覧特攻平和記念館を訪れ、出撃前日の特攻隊員たち5人が仔犬を抱いて、にこやかに微笑んでいる写真を見て衝撃を受けました。

特攻隊員といっても、17~19歳の少年飛行兵たちです。

明日にも死を迎える過酷な運命を前にして、どうしたらこんなあどけない笑顔をしていられるのだろうと不思議でなりませんでした。

この写真が残された経緯はこうです。

出撃の前日に少年たちが仔犬と戯れている所を、偶然通りかかった新聞記者が、
「君たちはいつ出撃ですか?」
と聞きました。

「私たちはいよいよ明日出撃します。でっかい敵艦を沈めてみせます」
と、決意溢れる返事が返ってきたので、慌てて撮影したといいます。

彼らが幼くて、死の怖さも理解できなかったと思うのは間違いです。

飛行兵たちは三角兵舎という窓もない半地下の建物で起居していましたが、不寝番が夜中に見て回ると、頭からすっぽり毛布を被って、肩を震わせながら泣いている特攻隊員も多かったといいます。

知覧特攻平和会館でもう30年近くもかたとして、来館者に特攻兵たちの思いを語ってきた川床かわとこ剛士たけし氏は、彼らの心中をこう推し量ります。

特攻作戦が始まった頃の鹿児島は、連合国の空襲により大きな被害を受けていました。
そうした祖国の現状を見た特攻隊の若者たちは、
「ああ、もう日本は負けるのだろう」
と思ったことでしょう。
それでも、戦争に負けるのをただ手をこまねいて待っているわけにはいかない。
自分たちが敵艦を一隻でも二隻でも沈めることによって、祖国が救われ、親きょうだいが助かるのであれば、それもまた立派な命の使い方ではないか。
そして戦争が終われば、きっとまた日本が復興する時が来る。
その時、後に残った者たちが自分たちの分まで一所懸命、祖国再建に向かって頑張ってくれるだろう----。
そのように、自分たちが特攻で死ぬことによって、再び素晴らしい祖国が築かれるに違いないという願いと祈り、何より後に残る者たちを信じることができたからこそ、彼らは笑顔で沖縄の空へ旅立っていけたのだと私は思います。

川床剛士『知覧からのメッセージ』(致知出版社)

そうは思っても、色々な未練が残るのが人間です。

それには死ぬことへの恐怖、せっかく人間としてこの世に生まれたのに、僅か十七、十八歳で死ななければならないのかという悔しい思いもあったでしょう。
彼らにもいまを生きる若者と同じように夢があり、希望があり、やりたいことがたくさんあった。
愛する祖国や家族のためにという思いと、夢と希望を諦めなければならない悔しさとの葛藤かっとう
その葛藤を抱えながら、前夜に三角兵舎で泣くだけ泣いて、翌朝には仲間たちと
「俺も頑張るからな」
と、互いに肩を叩いて励まし合い出撃していったのです。

川床剛士『知覧からのメッセージ』(致知出版社)

立派な態度価値です。
そして敵艦を一隻でも沈めて、それが祖国と親兄弟を救うということ、後に残る人々が自分たちの分まで祖国の復興に尽くしてくれるだろうという思いが、彼らの生に意味を与え、彼らの心を支えて、仔犬と遊ぶ笑顔となったのです。

態度価値への共感が『根っこ』を育てる

創造価値、体験価値、態度価値を比較してみると、態度価値こそ最も他の人々の共感を呼ぶのではないでしょうか。

それは、以下の事例で考えて見ると分かるかと思います。

或る人が、自分の父親について、次のように語ったとします。

・自分の父親は事業に成功して、莫大な財産を残した。(創造価値)

・外国でも多くの人を雇って、その国の政府から表彰を受けて誇らしく思った。(体験価値)

・父親は従業員を家族のように大切にして、会社が苦しい時も一人も首にせずに頑張った。それに応えて従業員も奮闘して、遂に事業に成功した。(態度価値)

“財産を残した”とか“表彰を受けた”というのは、父親の生き様の結果です。

その結果だけを息子が云々しても“自慢”でしかありません。
そこから、自分の人生で何かを学ぶ事はできません。

それよりも“従業員を家族のように大切にして云々”と父親の態度価値について語ることで、息子はその姿勢に共感すると共に、父親を“誇り”に思うでしょう。

そこから、自分もやがて、立派な父親に恥じない後継者になろうという志が生まれます。

先祖の態度価値に共感する処から、子孫は誇りと志を抱くのです。

“自国に対する自信と誇りと愛情”こそ『根っこ』であり、グローバル時代に生きる日本人こそ、その『根っこ』を強く太く伸ばさなければなりません。

その『根っこ』については、次のような説明がなされています。

自動車生産とか国民総生産のように共通尺度で優劣を競うようなお国自慢では、互いの国に対する理解を深めるような会話は成り立ちませんし、また、自分自身にとっても虚栄心を満足させるだけのことで、深いところで自分を支える自信や誇りにはつながりません。
そうではなく、固有の歴史や文化、国柄など、自分の先祖が営々と築いてきたものに関する愛着の籠ったお国自慢でなければ、我々を心の底で支えてくれる「根っこ」にはならないようです。

伊勢雅臣著『世界が称賛する 日本人の知らない日本』

態度価値の概念を使えば、この点を簡明に言い直せます。

即ち、自動車生産とか国民総生産などは、国民の活動の結果として生まれた『創造価値』です。

それは親の金持ちぶりを自慢するようなもので、自分を励ます志には繋がりません。

“固有の歴史や文化、国柄など、自分の先祖が営々と築いてきたもの”とは、先人たちの『態度価値』です。
一晩泣いた後で翌朝、笑顔で、
「俺も頑張るからな」
と言って出撃していった特攻隊員たちの態度価値を含め、長い歴史を通じて多くの先人たちの遺した様々な態度価値が積み重なって、歴史や文化、国柄となってきました。

そうした先人たちの態度価値への共感こそ、我々の『根っこ』なのです。

この『根っこ』が我々に自信と誇りを与え、生きる意味を教え、我々なりの志を育てます。

他国民への理解と敬愛をもたらす態度価値への共感

もう1つ、態度価値が創造価値や体験価値と異なるのは、どんなに小さな国であれ、発展が遅れた国でも、建国の英雄や国民のために尽くした偉人がいて、そうした先人の態度価値に対して、その国民が共感することができるということです。

たとえ産業の発展度合いや芸術レベルでは、何も自慢することがない国でも、自国の先人の態度価値に対する共感は持ち得る、それが彼らの『根っこ』となります。

自分の『根っこ』を大切にする日本人なら、他国民の『根っこ』の大切さも理解し、尊重することができます。

創造価値や体験価値の次元だと、どちらの国が優れているかというような優劣比較に陥る恐れがありますが、態度価値は諸国民の間で互いへの理解と尊敬をもたらします。

こういった『根っこ』をしっかり持った日本人こそ、日本人としての矜恃を持ちつつ、グローバル社会で他国民と一緒に心を合わせてやっていける“国際派日本人”と言えるのです。

最後までお読み頂きまして有り難うございました。
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