2023.3.9 平和ボケ政府と戦ったお代官様
「○○屋、お主もワルよのぅ」
「いえいえ、お代官様ほどでは御座いません」
かつて、映画やテレビの時代劇で、江戸時代の代官といえば『悪代官』が定番でした。
ですが、現実には人々に心服され、『世直し江川大明神』と称えられた代官がいました。
代々、江戸幕府の韮山代官を世襲していた江川家の第36代当主・江川太郎左衛門英龍です。
韮山代官は、伊豆・駿河・相模・甲斐・武蔵にある幕府の直轄地の支配を担当する行政官でした。
英龍が韮山代官に就任したのは、1835(天保6)年。
当時の日本は、全国的な大飢饉に見舞われ、各地で百姓一揆や打ちこわしが頻発していました。
他方、国外からは異国船が補給や通商を求めて相次いで来航。
正に、内憂外患の状態でした。
英龍は疲弊した村々を救済するために、自ら率先して質素倹約に努め、部下たちにも節約を求めました。
困窮した村々の実情を調査すると共に、低金利の貸付を行うなど対策を強化した結果、人々は英龍に心服、『世直し江川大明神』と呼ばれるようになったのです。
そうやって行政官としての力を発揮する一方、英龍は海防の必要性を痛感。
まず、蘭学者を通じて諸外国の正確な情報を入手することに努めます。
海からの敵に備えるためには、西洋砲術の導入と普及が不可欠でした。
それを具体的に実現するため、鉄製の大砲を鋳造すべく造られたのが『韮山反射炉』です。
しかし、平和ボケした幕府は、なかなか英龍の建議を取り上げませんでした。
実際に、幕府が反射炉の築造を決定したのは、ペリー来航後のことです。
なかなか理解を得られない中にあっても、英龍は1842(天保13)年頃から反射炉の研究を進めていました。
そのため、ペリーが来航した1853(嘉永6)年の12月に、ようやく築造の命を受けると、直ちに資材と職人を揃え、築造に取り掛かることができたのです。
しかしながら、韮山反射炉の完成を見ることなく、英龍はこの世を去りました。
現在フジテレビがあるお台場の『台場』とは、“砲台の設置された場所”のこと。
韮山反射炉で造られた大砲は、お台場に運ばれ、東京湾で睨みを利かせることになります。
戦後長く“平和ボケ”してしまった日本。
ロシア・ウクライナ戦争で少し目が覚め、『安全保障3文書』の改定など、ようやく国の守りに重い腰を上げ始めた感がありますが、今の日本に必要なのは、江川英龍のように先見の明を持ち、真摯に国の守りを考えて具体的に行動するリーダーなのではないでしょうか。
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