Vol.31 日本語表現の豊かさ
日本のモノづくりの強火サポーター、愛社精神育成コンサルタント 中小企業診断士の足立早恵子です。
読んで頂いてありがとうございます。
以前も書きましたが、私の仕事の一つに文筆業があります。
そのため、日本語力を高いレベルで維持するということが求められ、常に良い文章に触れるよう意識しています。
その中で日々感じるのは日本語表現の豊かさです。
例えば、「花が散る」という意味の言葉。
桜は「散る」
梅は「零れる」
朝顔は「しぼむ」
椿は「落ちる」
菊は「舞う」
牡丹は「崩れる」
などなど、本当に花ごとに言葉あります。
(ちなみに、昔のアニメ「ベルサイユのばら」の主題歌で「薔薇は美しく散る」と歌われていますが、桜がバラ科であることから薔薇も「散る」なのかなと思ったり…。)
いずれにしても、その花の視覚的要素から言葉が生まれていることがよくわかります。
端的に表現する傾向の強いラテン語、ギリシャ語を語源とする英語をはじめとしたアルファベット言語などとは根本的な成り立ちとその背景にある思想が全く違うことは一目瞭然です。
なぜ日本語はこうも表現豊かなのかというヒントは「虫の声」にあるような気がします。
「虫の声」は日本人とポリネシア人にしか聞き取れず、それ以外の人にはただの雑音にしか聞こえないという事実です。
それは、日本語以外の言語を母国語とする人々は虫の声を音楽や雑音を処理する右脳で処理しており、意識せずに聞き流しているからだそうです。
一方、日本人というか、日本語話者は虫の声を左脳の言語中枢で処理しており、そこに農耕民族としての歴史の中で自然を敬う価値観と相まって情緒を生み出しているということです。
話をまとめると、こうした音を処理する際の独特の脳の働きと自然への畏怖、それが豊かな日本語表現を生み出している要因だと考えられます。
そう考えると、都市化が進み人々が自然と触れ合う機会が少なくなれば、日本語の豊かさも退化して行き、最低限のコミュニケーションに必要なボキャブラリーだけが残る危険性があるということで、そこに危惧を覚えます。
文章を書くことを生業の一部としている人間として、豊かな日本語表現を後世に残して行くことは自分自身の使命だと感じる今日この頃。
今秋から主に士業・コンサルの方を対象に、文筆家として活躍できる文章力を養成する文章講座を開講する予定です。
今月中には案内を出せたらと考えています。
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