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源氏物語 現代語訳読み比べ~須磨には、いとど心づくしの秋風に~

結構、源氏物語の現代語訳の紹介記事は好き。
比較しようかな、と思ったら冒頭の「いづれの御時にか女御更衣あまたさぶらひたまひけるなかに…」の部分の訳の比較をしている記事を見つけた。

なので、紫式部が石山寺に籠って、ここから書き始めたという伝説がある次の文章で比較してみることにした。

昔から名文と言われていた須磨の秋

 須磨には、いとど心づくしの秋風に、海はすこし遠けれど、行平の中納言の、「関吹き越ゆる」といひけむ浦波、夜々はげにいと近く聞えて、またなくあはれなるものは、かかる所の秋なりけり。

玉上琢彌 訳注 角川文庫ソフィア

なんか授業で暗唱させられたなぁ…
これを各現代語訳ではどのような文章にしているのでしょうか?


与謝野晶子

 秋風が須磨の里を吹くころになった。海は少し遠いのであるが、須磨の関も越えるほどの秋の波が立つと行平が歌った波の音が、夜はことに高く響いてきて、耐え難く寂しいものは謫居(たっきょ)の秋であった。

与謝野晶子 全訳源氏物語 角川文庫

まずは言文一致運動後、初めての源氏物語の現代語訳といわれる与謝野晶子。
「である調」で男性的な訳と言われていて、確かに「謫居の秋」などという女性っぽくない言葉が入ってくる。
明治時代の文学を読みなれている人ならいいかもしれないけれど、言葉の感覚がやっぱり今と違う。

谷崎潤一郎

 須磨ではひとしお、「心づくしの」(木の間よりもりくる月の影みれば心づくしの秋は来にけり[古今集])秋風が吹き初め、海はややや遠いのですけれども、行平の中納言の「関吹きこゆる」(旅人は袂涼しくなりにけり関吹きこゆる須磨の浦風[続古今集、行平])と詠んだ浦波が、なるほど夜はいつもたいそう近く聞えて、またとなくあわれなものはこういう土地の秋なのでした。

谷崎潤一郎 潤一郎訳源氏物語 中公文庫

太字にしていない()の部分は、紙の本では紙面の上部に注釈として、kindle本ではフォントを小さくしているので、noteでの画面よりも読みやすい。

注釈は紙面の上部
kindleでは注釈のフォントが小さい

谷崎としては()の注の部分で読むのを止めず、まず本文だけで読んで文章の流れを味わってもらいたい、という趣旨のことを書いているので、注を抜いてみるとこんな感じ。

須磨ではひとしお、「心づくしの」秋風が吹き初め、海はややや遠いのですけれども、行平の中納言の「関吹きこゆる」と詠んだ浦波が、なるほど夜はいつもたいそう近く聞えて、またとなくあわれなものはこういう土地の秋なのでした。

「ですます調」で文章の長さも原文に合わせている。
主語も原文と同じくらいしか入っておらず、敬語の使われ方で主語を推察する感じ。文章は美しいけれど、内容を知らないで読むと大変かもしれない。

円地文子

 須磨には、ただでさえ人の心に染み渡る秋風に、海は少し遠いけれども、行平の中納言が「関吹き越ゆる」と詠んだという浦波の音が、夜毎々々、その歌の通りに間近く聞こえ、またなくあわれなのはこういう所の秋であった。

円地文子訳 源氏物語 新潮文庫

「である調」で、ひきしまった格調高い文章。私は文章の美しさは円地源氏が一番だと思う。
いいから新潮文庫さん、復刊してくださいw
瀬戸内寂聴氏も「円地さん訳の文章はとても美しい」と語っていたのに…

瀬戸内寂聴

 須磨ではひとしお物思いをそそる秋風が吹きそめ、海は少し遠いのですけれど、行平の中納言が<関吹き越ゆる>と詠んだ、須磨の浦波の音が、たしかに夜毎夜毎、いかにもその歌の通りにすぐま近に聞こえてきて、またとなくあわれなのは、こういうところの秋なのでした。

瀬戸内寂聴訳 源氏物語 講談社文庫

「ですます調」で易しい文章。和歌が5行詩になっていたり、朗読することを想定して訳していると言われると、なるほどなと思う。
注釈は本文では記号だけあって、巻末にまとめてある。kindleだとリンクになっていて結構便利。
この引用部では<関吹き越ゆる>に注があてられている。

<関吹き越ゆる> 「旅人は袂涼しくなりにけり関吹きこゆる須磨の浦風」(『続古今集』覉旅・在原行平)

巻末の注釈

林望

 須磨には、秋風が吹いて、まことに「木の間よりもりくる月の影見れば心づくしの秋は来にけり(木の間から洩れてくる月の光を見ると、ああ、物思わせる秋が来たなあと感じる)」という古歌の心も偲ばれる季節になった。ここは海からは少し遠いけれど、いにしえ行平の中納言が、「旅人は袂涼しくなりにけり関吹きこゆる須磨の浦風(旅行く人の袂も涼しくなったなあ、あの関を越えて吹いてくる須磨の浦の風に)」と詠んだという、あの須磨の浦の波音が、夜々ごとに耳近く聞えて、しみじみと身に沁みること比類なきものは、こういうところの秋であった。

林望 謹訳 源氏物語 祥伝社

「心づくし」も有名な古歌から引いているんだよ、とわかるようにしているのは、谷崎潤一郎と林望のですかね。
あんまり引歌があるという説明を入れると読んでいて鬱陶しいけど、知識が増えるのは個人的には嬉しい。
訳すときにどこまで入れるのかは悩ましい問題なのかなぁ。
この後出てくる明石の君が、身分は低いけれど教養があるというのを示すせいか、原文でも引歌がやたら出てきて、林さんは引かれている元歌を全部出しているので、正直その辺は読みづらいw

角田光代

 須磨には、いよいよもの思いを誘う秋風が吹きはじめた。海は少し遠いけれど、須磨に左遷された在原行平の中納言が「旅人は袂涼しくなりにけり関吹き越ゆる須磨の浦風(旅人は袂を涼しく感じるようになった、須磨の浦風が関を越えて吹くから)」と詠んだという、その風に荒れる波の音が、夜ごと夜ごとにとても近くで聞こえて、今までになく身に染みるのは、こういう場所の秋ならではであった。

角田光代訳 源氏物語 河出文庫

「である調」で文章も短め、敬語も省いて読みやすい訳。
"須磨に左遷された"在原行成の中納言」と、そもそも在原行成って誰よ?という所の説明を本文に入れているのは角田さんだけかな。
古文好きなら「行平=須磨に流された」ってわかるのかもしれないけれど、まぁ今の時代これは一般教養じゃないよね。

田辺聖子

須磨に秋がきた。
源氏の住居から海はすこし遠いが、かの行平の中納言が、
<関吹き越ゆる須磨の浦風>
と歌った、人に物思わせる秋風が、身に沁みて吹きわたる。
夜は波音も近く聞こえた。

田辺聖子 「新源氏物語」 新潮文庫

最初の「桐壺」と「帚木」の雨夜の品定めを省いて再構成していたり、和歌を会話文に直していたりもあるけれど、なんだかんだで、原文にも忠実な新源氏物語。
小説として楽しく読めるし原文からも大きく外していない。凄い。

橋本治

 しかし都は知らず、須磨にはいとど心づくしの風が吹き、寂しくも美しい秋の訪れが目に見えていた。

 海面を吹き渡る風には、まだ灼けつく夏の面影があった。「旅人は袂涼しくなりにけり関吹き越ゆる須磨の浦風」と、かつて此地にあった中納言在原行平は詠んだ。
 荒れ果てて、須磨の関屋も今はなく、流謫の公達に馴れ親しんだという海蜑(あま)の娘も今はいない。山から吹き降ろす松風は、枝を鳴らして音の澄み渡る秋を告げる。

橋本治「窯変 源氏物語」中公文庫

光源氏の一人称で語られる、ダークでニヒルな源氏物語。
原文を素直に訳しているわけじゃないけれど(そもそも原文は源氏の一人称ですらない)原文のどこの辺りなのかはわかる。
色々な当時の政治のしくみや社会常識も本文に入っているし、源氏の心情も語られて、現代小説のように読める窯変。
唯一かつ最大の欠点は、それゆえに「長い」ということだと思うw

現代語訳の難しさ

光源氏のモデルになったと言われるうちの一人が、さんざん訳でも出てくる在原行平。
色好みで有名な弟の業平と違って、官僚として功績をあげたが、古今和歌集によると須磨に籠居を余儀なくされたとのことで、かなり源氏物語の「須磨」では歌が引かれている。
こういうのは注釈書ではない現代語訳では深くは書けないし、引歌も元の歌を入れすぎると読みにくいし、現代語訳ってみんな何年もかけているけれど、やっぱり大変なんだろうなぁと本当に思う。
千年前の話だから常識も違うし、どこまで、それを話として不自然にならない程度に説明を入れるのか。
「敬語」の美しさも源氏物語の特徴の1つだけど、それもどこまで訳出するのか。与謝野、角田源氏は敬語を省いているので読みやすいのだけど、多分、敬語を捨てるというのは覚悟がいったんじゃないのかな。

同じ話でも訳によって今まで気にしていなかった所が気になったり気づいたりするのが面白いので、また他のも読んでみたい。
今読みたいのは大塚ひかりさんのとウェイリー版の源氏物語。ウェイリー版は売っているからいいけど大塚ひかりさんのは出版社在庫切れで地元の図書館にもない…悲しみ。


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