KAGAMI - 泣いていたのは -
35歳を過ぎたある日。鏡に映る私が突然泣くようになった。
朝会社に行く前にメイクをしようと鏡を覗くと、鏡の中の私が泣きながら私を見つめている。
”えっ、私泣いてるの?" 手で頬を触ると、もちろん涙などない。
自分で言うのもおかしいけど、そもそも私が泣くなんてありえない。
そりゃ映画を見て感情移入して泣くことはたまにはあるけれど、
10代の大失恋以来自分のことで泣いたことなんてない。
泣くほどの感情なんて私には必要ない。
昨日のお酒がまだ残っているのか、仕事が忙しくて疲れているのか。
鏡の中の私は泣いているけど、メイクに支障はないみたいだし、とにかく支度をして会社に行かなきゃ。
普段から物事をあまり深く考えないようにしている私は
「鏡の中の自分が泣いている」という現実をとりあえず置いて家を出た。
しかしその日から、家の鏡だけでなく、電車の窓やビルのガラスに映る私も全て泣くようになった。
まわりの人には泣いていない私が見えているようだし、実際は泣いていないのだけれども、
私が見る私はその日からずっと泣いたままだ。
あれから30年。鏡に映る私はずっと泣いたままだから、もうそれに慣れてしまって今では何も感じない。
最後に"本当に泣いた"10代の大失恋の後も私はちゃんと何度か恋をしてきた。
65歳にもなると思い出すのは昔のことばかり。
" 怒るより笑顔でいた方が結果として仕事はうまくいくよ。騙されたと思って明日からやってみて "
仕事がいつも忙しくて毎日カリカリしていた時期に出会った彼のその言葉はその後の私の人生を豊かにしてくれた。
ただの飲み仲間だったその関係は知り合ってから4年経っても変わらず・・・
" ねぇ。お正月に手料理食べさせてくれるって言ってた。あれ覚えてる? "
そう聞いたのは彼ではなくて私。彼は料理がとっても得意で私はまったくできない。
そして実は彼は私にそんなことは言ってない。どうせ酔って覚えてないだろうと私は嘘をついてみた。
" そんなこと言ったかなぁ? まぁよかったらお正月料理食べに来る?絶対美味しいよ "
4年間ただの飲み仲間だった私たちはその日から付き合うことになった。我ながらいい嘘をついたもんだ。
それからもお互い忙しく月1回会うペースは変わらず、ただ会う場所がお店ではなくどちらかの家になった。
彼の家に行くといつも美味しい手料理が待っていて、私の家ではかたまってしまったチーズフォンデュのチーズや最終的に切っただけの料理が並んだ。
" ほんとに仕事以外はなにもできないんだねー " そう言って彼はいつも笑っていた。
何もなかった私の家に炊飯器や餃子バットが揃い、味噌や卵が常備され始めた頃から少しずつ何かが崩れていった。
私はそれに気づかないふりをしながら、でも自分でその関係を追い詰めていった。
別れても傷つかないように心の準備をして、壊れても仕方ないと思うようになっていった。
" よく考えたんだけど、やっぱり別れよう " そう言われた時にはもう何も感じなくなっていた。
あー。やっぱりね。そうだよね。私の心の中ではそんな言葉がぐるぐる回っていて、私たちはキレイに別れた。
あれから30年1度も会ってないし、結婚したのかも子供がいるのかも全く知らない。
なんで30年も前の彼のこと思い出したんだろう・・・
あ!そうか。彼の好きだった漫画「ワンピース」があれから30年も続いてやっと完結したってニュースを見たからだ。
あの頃日曜の朝は決まって私より早く起きてテレビで放映される「ワンピース」に夢中になってた。
彼の背中に"手が伸びるってどういうことよ "って突っ込みながら二度寝する時間が幸せだったな。
実はあれから私も「ワンピース」ファンになっちゃったのよね。明日の記念展行ってみよう。
翌日。森アーツセンターギャラリーで開催されている「ワンピース記念展」は大人気で、森タワー52階展望台に向かうエレベーターには長蛇の列ができていた。
長い歴史があるだけに老若男女ほんといろんなファンがいるのね。
そう思いながらあたりを見渡すと、素敵なスーツを着た背の高い白髪混じりの男性と目があった。
その瞬間。ガラスに映った私は笑っていて、手で頬を触ると涙で濡れていた。
あー。私泣きたかったんだ。ずっと。ずっと。泣きたかったんだ。
彼のこと大好きで。別れて苦しかったんだ。
30年経ってやっとちゃんと傷つくことができたね。やっと本当に終わることができたね。
その場で泣き崩れている私を写すガラスの中の私は優しく笑っていた。
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