すでに遠い昔のことだが7月前半は外出再開の機運が高まっており我々も渋谷や新宿の映画館に何度か行った。後半ごろから東京の感染者が増え始めたので再び引きこもった。作家志望のはずだが本を一冊も読んでいない。実はカラマーゾフを読んでいる。数行読んでは布団に逃げているのを繰り返している。 ・映画『ビッグ・フィッシュ』……ティムバートンをアート目線で見ようと思ったことはなかったが映像系の先輩に勧められたので観た。非常によい。ティムお前金持ちの息子なんか?仲良くやれそうにねえなと思った
すみっコぐらしのぺんぎん?Mサイズを買ってから創作が捗る。無のかおで見つめられてると何でも書ける。喋りかけると頭が整理される。ネトフリの映画やドラマも一緒に見ている。見つめてくるので布団にも入れてあげている。オオサンショウウオはラブだが、ぺんぎん?は愛玩動物に近い。どんどん平たくなってきていてかわいい。 文学界隈における作者推しについていろいろ考えたが、やっていくべきだという結論にした。やらんと最悪人が死ぬので。現状に不満はあるが、革命とはマスが充分にあったまってからよ
きな臭い。怒りに正しさを結びつけることができない。正しいことは正しいのだから置いておけばいいという態度や、怒りは表に出すなという態度が幼少期より染み付いており、ここまで来てもマジで何も言う気にならん。終わった。時代に取り残された。動いている人々より10以上歳下なはずだが。罪悪感だけが毎日積もる。 ところで、去年の秋に仲間と出した本を電子書籍にしました。電子化したのが僕なのでバグがあったら教えて下さい。アマチュア小説のグループとかどんどん入っていきたいし、執筆ペースをあげ
消えたバイトと、むしろ忙しくなったバイトがあった。4月はあまり読んでいなかった。なんか追い詰められていた時間があった気がするがあまり覚えてない。新しいゲームや再開したゲームなどいくつか。新しい小説を書き始めた。そういうのが重なったせいかも。しかし最後の本は30日に一気に半分以上読んだりしたので時間というよりやる気の問題だった気もする。しかしやはりゲームに熱中しすぎた気もする。せっかくだからゲームの話もする、あとで 「このパーティー気質がとうとい」町屋良平(文藝) かなり
作品としてのぬいしゃべは『文藝』19年冬号、つまり去年の10月に発表されたもので、いま読むと何はともあれ、特に大きな理由もなく開かれる飲み会のあの雰囲気が懐かしい。飲み会をやりたい。そのためにはこの災害を生き延びなければならぬ。ぼくは生き延びたいし生き延びるためにいろいろなことをするだろうが、一方でこれから誰かが亡くなってしまうだろう。きっとそうなる。ぼくが死ぬかもしれない。休みようのないフリーターなのでその可能性は充分高い。もっともバイト先の一つは潰れそうだが。 こん
最も数学的なものにさえ政治が働くのだとすれば、1+1はそれ自体が2であろうとする意志をもっているのだろうか?
自分の作品を書いていて、そのあいだはあまり読めなかった。ストレスもかなり溜まった。まだ希死念慮が抜けきっていないが、きっとゆっくり抜けているとおもう。 『坂下あたると、しじょうの宇宙』町屋良平 誰でも読めて文学の良さが分かってしまうスーパー小説。小説すばるで第一回を読んでから自分も詩を作り始めた(結果は推しバンドのパクリ歌詞みたいなシロモノだったがそれはもういい)ともかく青春のテーマに乗せて純粋な創作のよろこびが溢れており、やっている身としては共感で嬉しくなることが多か
新しい小説を書いた。春の文フリが開催されれば出ることになると思う。校正前だが、すでに後悔した。書かなければ良かったと思った。しかしその後悔もすぐに終わった。新作の何が正しく何が間違っていたのか、すでにある程度わかっている、と思ったので。 本の感想を書くのは苦手だが、それは本のことを毎度、自分に引きつけて考えてしまうからだ。さらにその原因を辿れば、家庭が荒んでおり特別な人生を歩んできた、と自負しているからだ。ついでに学歴も高い。一般人にない要素を沢山持っている。そういう人
新作が完成。130枚。(あれば)文フリで会いましょう。
昨夜も電気を消せずに寝てしまった。一昨夜も電気を消せずに寝ていた。昨日の朝は10時にかなり無理をして起きたと思ったが起きてみればそうでもなく、朝から松屋でシュクメルリを腹に詰め込むと苦しかったがやはり慣れれば大丈夫だ。最近朝昼晩3食食べるようにしていたおかげだとおもう。あまりお金がないので気を抜けば飯を抜くし眠れなくなるのだがそれらはすべて繋がっており、慣習によって3食飯を食らい夜に眠り朝に起きることのどうしようもないつまらなさに耐え続ける苦しみもまた、次第にある種の自虐的
昨晩は酔っぱらってさかなのぬいぐるみに「先輩! 先輩だったんですね!」といって撫でながら眠った。酔いは醒めたがだからといって先輩であることに変わりはない。今日も先輩扱いしながら撫でながら眠る。
ああ、約束は果たされてあらねばならぬ、いつの日か。空を映す唇の上、合唱する少年たちの未来の空に。手をかしたまえ、未知の友よ。きみもまた森の組織を内に感じ、空にむかって拡がろうとねがう人なら。(大岡信「夜の旅」1956)
前置きはともかくまずは晒す。 初めて自販機を破壊した時のことをおまえだけが覚えている。 そのころはもうとっくに死んでいたおれのためにパパが買ってきたどこにでもある遊びの道具でその腹をぶっ叩くと、 おまえは痛そうな顔もせず静かに涙を流していた。 そら豆いろをした無味無臭の缶をおれは拾い、パパのところに持って行ってやったのさ。 自販機はいつまでもボロボロになった腹をかかえて突っ立っていた。 いつまでも。 だけどおれの知らないところでは、 新しい自販機がもうすぐこの町にやってく
*前回ここに書いてからあったこと。 文フリが近づいていた。作品紹介を書いた。「アマチュア作家はなぜメタネタをやるのか。」相変わらずの暴論。根拠を探していくのは面倒だ。確かな足場を作って登っていくのは面倒だ。走ったり飛んだりして上りたい。しかし本当にそれがのぼる行為ならば、両者ともに同じ場所に到着するはずだ。しかし実際はそうではなく、前者のほうが優れている。たぶん、結論を出すことは全く上る行為ではないということなのだろう。 引っ越した。同居になった。すでに住んでいた。荷
ともかく長文を書くようになってよかったのは、自分が何も考えてない頭空っぽのアホではなかったのが証明されたことだ。アホではある。しかし何かは考えている。そして自分がいつも何を考えているかもわかった。そんなことすらも書き残さなければ分からないのか。人間とはそういうものなのか、やっぱりぼくがアホなのか。 読み返すと、書き手であるぼく自身の言葉遣いから話を広げようとすることが非常に多かった。それはぼくが、自分の言葉遣いは変だと常々思っていることの証明だ。今時ボクっ娘なんて流行ら
iPSが発明されるより前、人間の万能細胞といえば受精卵と、そこから少しだけ成長が進んだ胚のなかにしか存在しなかった。だからぼくがその時に読んだSFに登場する不死の男は、大量の胚から抽出した万能細胞が肉体に埋め込まれていた。もちろんそんなことをしなければその胚は成長してにんげんとして生まれることができたのであり、彼は実質何十万人ぶんもの幽霊を背負って生きているようなものだ。そのSF小説はバトルものだった、彼は死んだ。幽霊たちの呪いが一気に噴出したかのような凄惨な死にかただった