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白城

 作品としてのぬいしゃべは『文藝』19年冬号、つまり去年の10月に発表されたもので、いま読むと何はともあれ、特に大きな理由もなく開かれる飲み会のあの雰囲気が懐かしい。飲み会をやりたい。そのためにはこの災害を生き延びなければならぬ。ぼくは生き延びたいし生き延びるためにいろいろなことをするだろうが、一方でこれから誰かが亡くなってしまうだろう。きっとそうなる。ぼくが死ぬかもしれない。休みようのないフリーターなのでその可能性は充分高い。もっともバイト先の一つは潰れそうだが。

 こんな始まり方にする予定は全くなかったのだが書いてしまった ともかく『ぬいしゃべ』の話をする。文章がズタボロにいびつなのは私の筆力に加え一度書いたものを消したり書き足したりなど何度もやったからでもある。『ぬいしゃべ』はジェンダー小説以外にも様々な読み方ができるとはいえやはりどうあがいてもジェンダー小説であり、これを扱った上で1ミリも炎上しないように……といったスタンスはもはや不可能とかんがえた。こういう場合、何はともあれ一番いいたい重要なことをまずいっておき、批評・感想の軸を立てることが大切なのでいっておく

白城がかわいい

 白城は主人公(七森)の彼女、ぬいサーの唯一の同期でもある。序盤のある部分によれば、けっこう恋人の入れ替わりが早いタイプのようだ。特徴的なのは文章中の指示語が「白城」であることで、これは主人公を除いてほぼ唯一の例外にみえる。(ほかには「麦戸ちゃん」「ちかこさん」「糸下さん」など様々な人物が登場するがほとんどが「さん」。麦戸「ちゃん」もオンリーワン)ぬいぐるみサークルを舞台とするこの小説は男女比1:4ほどで構成されているが敬称のない女性は白城のみとなっている。なぜか。サークルに残った唯一の同期だから、話が合うから、気楽な仲だから……?

 ところで。それはそれとして主人公・七森は、この物語が終わったあとどこへ向かうのか。ネタバレは避けたいものの、かれの未来をかんたんには思い描けない。何か問題が根本的に解決するわけでもない。しごく大ざっぱに言うが状況はほぼ何も変わっていない。残されるのは絶望だ。生きることの深い絶望。

 という特徴からこれを社会派モキュメンタリー小説と捉えてもいいのだが、本作に仕掛けられた数々の詩的トリックのことを考えないではもったいない。共感を呼んだり主人公のあり方を批判するだけではない、小説独自の面白さがある。魔術的とでも呼べばいいだろうか……ふとした瞬間に七森には見えないはずの風景が挿入され、主人公が主人公から少しずつ引きはがされている。あと「顔をしかめる」のシーン(ネタバレ回避)が秀逸で、人を傷つけたくない七森にとってこのシーンは真に孤独で絶望的だが、いっぽう小説として一種のミステリーの解決場面のような爽快感がある。この転回はあまりにもなめらかでとても危険だ。感情移入から主人公批判への鮮やかな掌返し、実はわたしたち読者こそが怪物なのでは?

 だが、それでいい。たとえ怪物でも感情は嘘ではない、七森に向かったそのナイフはたしかに切実な理由を持って向けられたものであり、七森とは別の魂が生み出したものだ、その主体こそが白城である。説明をかっ飛ばすので申し訳ないが彼女はつまり社会への違和感を持ちながらも、それにあらがわず「適応」する道を選んだ人間だ。理不尽なシステムにも文句を言わず従うことを自分の意志で選び生きてきた。だから革命をにくむ。その正体はただのねたみやひがみだと、はたして言えるだろうか? 彼女が20年近くずっと溜め込みつづけたすべての負の感情の重さ、それらをすべて背負うと決めてしまった日のことが想像できるか。

「白城かわいい」なんて言うんじゃなかった。醜い感情だ。それは彼女を地獄から救うこととは真逆の、地獄のマナーに忠実に沿った軽薄な言葉だった。あるいは彼女にとって、砂漠の中の泉くらいの役割は果たせるだろうか? 顔も見えないのに適当いいやがって、とあざ笑ってくれるだろうか?

 白城は主要人物の中でもっともやさしさから遠い。それは誰よりも早く地獄に足を踏み入れたからだ。彼女のナイフはその地獄を何倍にも薄めたものだ。白城はスレた女だと言うこともできる。ニヒリズムの影の濃い行動が多い。しかし希望は少しずつ散らばっている。彼女はまだそれに気づいていないが。これ以上はわからない。白城がこれからどう生きていけるかなど想像もつかない。

 ところで……文藝や単行本で読んだ文学系(?)の知り合いのなかでは、この小説は「たいへん好評」というわけでもない。まあ気持ちはわかるというか、たしかに実社会に近すぎてフィクション小説としてのアレがあんまりないみたいな感じはある。個人的にも「もっと初期っぽいやつ、読みてえ~!」と思ったのは事実だが、一方でネット上ではひじょうに高評価で、共感し慰められたという声も多い。甘かった。「これはまあ一生小粒やろ俺は応援するけど」と思ってたバンドがすごい曲出して大バズかましてメジャーデビューしたときみたいな気持ちだ。大前粟生はぼくが思っていたよりずっとたくさんの人を救った作家なのだ。かれが見せてくれた可能性を無視してはいけない。

 とはいえ初期っぽいやつも読みたいナァと思っていたら、単行本収録4作目の「だいじょうぶのあいさつ」がめちゃくちゃ良かった。物語ることへの新しいアプローチ、いやもうこんなん新しい古典でしょ……教科書に載せよう……みんな読んで……ぼくはもう疲れた 明日もバイトや

 バイト先のひとつが潰れそうという話だが、店長いわく最後まで頑張るよ、らしい。言いたいことはあるが言えない。事実この国を今まで支えてきた大多数は結局そういうメンタルで生きてきてそれが一番よい人生で、つまり正しい「適応」だったはずだ。これからかれらがなくなってしまうのだとすればそれはある種の氷河期であり、恐竜は絶滅し、地下にいたネズミたちだけが生き残ってしまうのか。嬉しくない。自分がどっちなのかもよくわからんしね。毎晩、京都水族館のオオサンショウウオを抱きしめて眠っている。しゃべらない。毎度、かわいさだけで完結してしまうので。3月に書き終えた新作でそのオオサンショウウオが大活躍しているのだが、文フリが中止になったのでいつ公開できるのか不明。もう次の小説を書き始めている。こんなことは初めてだ。なんかまるで小説家みたい。生きて秋文フリで会おうね。おわり

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