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ポーランド・クラクフ編3:ユダヤ文化祭 pt.1

English Follows Japanese

酷暑のクラクフで「Jewish Culture Festival(ユダヤ文化祭)」主催者インタビューと音楽公演「Frank London's Ghetto Songs」、夏のポーランド料理二品。


酷暑のクラクフ観光

2022年6月29日、この日のクラクフの気温はなんと35℃。東京よりも暑いなんて! クラクフの6月の最高気温平均は22℃のハズでは? この年はヨーロッパ全土を熱波が襲い、各地で記録的猛暑となっていた。天気予報によると週末には38℃まで上がるそうだ。

そんな酷暑の午前10時前、通訳兼ガイドのクリス元大佐に連れられ、まずは市内観光からスタート。宿のすぐ近くから路面電車トラムに乗り、新市街まで北上し、そこから徒歩で旧市街へ向かう。聖フロリアン門から旧市街に入り、中世の町並みが続くフロリアン通りを下り、クラクフ観光の中心地である中央市場広場に出る。

前回、2019年夏に訪れた際、この広場は世界中からの観光客が集まり、まるで原宿竹下通りのような混み合いだった。しかし、この日は観光客の姿はまばら。クリスさんによると、コロナ禍は既に終了していたが、ロシアのウクライナ侵攻により、ポーランド旅行を控える観光客が激増したのだそう。ポーランドとウクライナは国境を接していて、この時点で200万人以上のウクライナ人がポーランドに避難していると報道されていた。

観光客もまばらな中央市場広場

とにかく日差しが強い! そこで日陰の道を選び、途中、天井がどこまでも高いキリスト教会に立ち寄り、教会内のひんやりした空気で涼んでから、今回の僕のクラクフ取材の目的である「Jewish Culture Festival(ユダヤ文化祭、以後「JCF」)」の会場となっているカジミエシュ地区まで歩いた。

シナゴーグに併設されたユダヤ人墓地の鉄格子

クラクフのユダヤ人地区カジミエシュは、14世紀、カジミエシュ大王によってクラクフに隣接する地域にユダヤ人専用の町として造られた。近世までヨーロッパ最大のユダヤ人の町として栄えたものの、ナチスドイツによってゲットーに改装され、住民は収容所に送られ、廃墟となった。社会主義時代はずっと荒廃したままだったが、1990年代初頭に映画「シンドラーのリスト」のロケ地となり、カジミエシュは注目され始めた。その後、ポーランドの民主化と続く経済成長により観光地化が進み、今ではおしゃれなカフェやレストラン、お店が並ぶ、まるで鎌倉のような雰囲気の街になっている。

カジミエシュにはこんな感じの良いカフェがいくつもある!

Jewish Culture Festivalについて

JCFはポーランド民主化の前年の1988年、当時28歳だったYanusz Makuch(ヤヌシュ・マクフ)氏によって、失われてしまっていたユダヤ文化の復興をテーマにスタートした。プログラムは世界のユダヤ人音楽アーティストたちによるユダヤ音楽コンサートを中心に演劇、映画上映、レクチャーなど多岐にわたり、1994年からは毎年開催されるようになった。その後、アーティスティックなプログラムにより世界中から注目され、次第に規模を広げてきた。今ではポーランドや世界各地で開催されているユダヤ文化を讃えるフェスティバルの雛形となっている。

コロナ禍中もJCFは縮小版やオンラインで続けられ、2022年は6月23日から3年ぶりにフルスケールで開催されていた。会場はカジミェシュ地区に点在するシナゴーグや博物館、カフェ、ライヴハウス、野外テント、他。プログラムは音楽コンサートだけなく、ワークショップ、レクチャー、料理教室、写真展、映画上映など。

JCFの野外テント。無料のライブや料理教室が行われていた

僕は以前から注目していたイスラエルのアーティストたちが次々と出演したことで、2012年頃にJCFを知り、毎年プログラムをチェックするうち「すぐにでも訪れたい世界の音楽フェス」のトップ3に入れていた。そして、主催者のヤヌシュさんに2019年夏に初めて訪れたクラクフで会い、その4ヶ月後にはイスラエルの音楽ショーケースで再会していた。今回、二年半ぶりに再会し、お土産の日本酒を渡すと、こちらが質問する前からダァ〜と熱く一人で話し始めた。

ヤヌシュさんをインタビューするサラーム。撮影はクリス元大佐

ヤヌシュ氏「私が死んでも、誰かがJCFを続けてくれる」

「我々はパンデミックの間もここにいたし、今もここにいるし、将来もここにいる。それでも、何も変わらないものはない。34年間続いているJCFも同じで、毎年何かが変化している。

来年のことを聞きたいだろうけど、それはわからない。というのも我々はドイツとその他のヨーロッパ諸国とロシアの間に生きていて、たった今も戦争が存在するからだ。今日はロシアが国境を越えて126日目だ。今、我々はここにいて幸福にもユダヤ文化を祝福しているが、明日は何が起きるかわからない。それが今、我々が生きている時代だ。

この戦争はヨーロッパだけの問題ではない。ウクライナ問題にポーランドはとても勇敢に対応していると人は言うけれど、それは政府が始めたことじゃない。ポーランドの人々が始めたんだ。そしてポーランド人だけでなく、世界中の人々が追随している。これは人間性にとって(ホロコースト以来)再び起きた、とても大きな危機だからだ。

町の至るところにウクライナ救援スタンドが立っていた。

ここで一つ質問がある。このJCFは何のために存在するのか? 単純に音楽、映画、演劇、そして音楽を並べるだけでは意味がない。プログラム全てに意味を持たさねば。さもなければ単なるランダムな文化のコレクションでしかない。

34年前、JCFを始めたとき、私は28歳だった。今、私は62歳だ。この短い人生に何か意味があるとしたら、私は34年間、すばらしい人々と働くという栄誉に浴したことだ。君がオフィスで会った面々だ。更に今年はヨーロッパのほぼ全ての国、中国、パキスタン、アゼルバイジャン、イランと20カ国以上からのボランティアがここに来て一緒に仕事をしている。これが私の一番大きな功績だ。たとえ私が死んでも、誰かがJCFを続けてくれるのだ。

するとJCFの意味は、単なる喜びだけでなく、相互理解であり、相互尊敬、ほんの少しだけ良い世界への努力だと言える。世界を変えようとは思っていないし、私はそんなにナイーブでもバカでもない。でも、自分自身を変えられる。それだけで十分だ。これは奇跡だよ。これが、何のためにJCFを続けているかという答えだ。私が言いたいのはこれだけだ。続きは夜のコンサート会場で!」

クラクフ在住でJCFには頻繁に足を運んでいたクリス元大佐、そして僕も予想はしていたが、ヤヌシュさんはここまで一気に喋り、何食わぬ顔で次の打ち合わせへと向かっていった。

Frank London's Ghetto Songs

インタビューとカジミェシュ散歩の後、一旦宿に戻り、午後6時に音楽プログラムが開かれるテンペル・シナゴーグに入った。歴史ある宗教施設の祭壇をそのままステージに仕立てているので、見た目はぞくぞくするほど美しいが、この熱波の中で空調がないのは難点だ。

開場前のテンペルシナゴーグ。とにかく暑い!

午後7時半過ぎ、ほぼ満席となったシナゴーグで、ユダヤ系アメリカ人のクレズマー音楽家(東欧ユダヤ系のパーティー音楽)Frank London(フランク・ロンドン)によるプロジェクト「Ghetto Songs」が始まった。

ゲットーは、日本では単に貧民窟のような意味で使われるが、元々は中世以降のヨーロッパの諸都市でユダヤ人が強制的に住まわされた地区を指す。そして、第二次世界大戦時にはナチスドイツがユダヤ人絶滅のために設けた強制収容所を指す言葉となった。今では世界中の低所得層居住区、貧民窟やスラムのことまでゲットーと呼ばれるようになった。

フランク・ロンドンは、ゲットーをユダヤ人だけの問題ではなく、全世界の人類の問題として、アメリカ人、ポーランド人、レバノン人、ブラジル人、ドイツ人の演奏家たちとともに「Ghetto Songs」プロジェクトを立ち上げた。

ヤヌシュさんによる短い紹介の後、トランペットのフランク・ロンドン、ウクライナ出身のイスラエル人女性の宗教歌手とアラブ系の男性オペラ歌手の3人がフロントに立った。そして、後ろにはエレキギター、ダブルベース、ピアノ、チェロ、ドラムスのメンバーが並び、演奏を始めた。

ヤヌシュさんの挨拶は今回のJCFのテーマ「WATER」にかけて、「皆さん暑いので水を飲むのを忘れずに」

まずはホロコースト時のゲットーで生き、そして死んだユダヤ人作曲家の曲。どこまでも悲しいユダヤの響きだ。続いて、16世紀のベネチアで造られた世界初のゲットー内で暮らしたユダヤ人作曲家によるアリア。当時、ユダヤ人は居住地こそ制限されていたが、音楽や芸術についてはキリスト教徒よりも自由に触れることができた。そのためイタリアらしい明るい空気がみなぎっている。

フランク・ロンドン

かと思うと、 日本でも知られるジャズギタリストのBrandon Rossが中心となり、アメリカのソウルバンドWARの1972年のヒット曲「The World Is A Ghetto」も演奏された。確かにこの曲もアメリカの大都市にある有色人種居住区=ゲットーがテーマだ。更に意外だったのはボサノヴァの創始者アントニオ・カルロス・ジョビンの「O Morro(悲しみのモロ)」。ブラジル人の女性チェロ奏者がチェロを弾きながら歌った。この曲もリオ・デ・ジャネイロの絶望的な貧民窟ファヴェーラ=ゲットーがテーマとなっているが、ジョビンのメロディーには希望が感じられる。このほか、近世のモロッコのマラケシュで造られたユダヤ人居住区メッラーで暮らしたユダヤ人作曲家によるアラブ・アンダルシア音楽も演奏された。

Frank London's Ghetto Songs

『ゲットーという悲しい環境で作られた美しい曲』。ゲットーをユダヤ人だけの問題に留めず、全世界の人々の問題として取り上げた意義ある音楽プロジェクトだった。しかもそれが8人の世界中のベテラン音楽家たちによって強度高い音楽となっていて、ほんとうに素晴らしい公演だった。JCF、明日はどんな音楽が聴けるだろう?

夏のポーランド料理2品

さて、この日は典型的な夏のポーランド料理を二品行ってみよう。19世紀末にカジミエシュ地区で生まれ、第一次世界大戦中にアメリカに渡り、化粧品業界の女王となったヘレナ・ルビンスタインの生家を改装した宿「Rubinstein Hotel」内のレストランでいただいた。

まずは大好物のタルタルステーキ。ポーランド語ではこの料理を伝えた騎馬民族の名前そのままにタタールと呼ばれる。生の牛肉のみじん切りに、玉ねぎやケッパーのみじん切り、ウズラの卵の黄身などを混ぜ、塩、胡椒、マスタードで味付けたものだ。ドイツやフランスでも時折見かけるが、ポーランドでは多くの店が常備する人気料理だ。僕は肉の味を楽しみたいので、トマトケチャップやウスターソース、マスタードなど味の濃いソースは使わずにいただく。生肉を食べていると、身体の疲れがふっとんだ気分になる。

大好物のタタール。一週間の滞在中に四回も食べることになった

そして、マゼンタ色が美しい、冷たいビーツのスープ「フオドニク」もいただく。この料理も3年前のポーランドで初めて食べて以来、夏にビーツを手に入れる度に、繰り返し作ってきた。料理本を元に自分なりにレシピを改良していたが、この店は事前に用意しておいたすりおろしビーツの甘酢漬けを氷水とサワークリームで延ばし、茹で卵とディルを浮かべただけ。それでも十分に美味しい。なんだ、こんなに簡単でいいのか!

簡単に作っても美味しいフオドニク。いや、むしろ簡単に作るほうが良いのかも?

気がつくとどちらもマゼンタ〜ピンク色の料理だった。この色は僕のラッキーカラーであり、夏のポーランド料理を表す色でもある。この旅も幸先良いのだ。

Jewish Culture Festival pt.1

Sightseeing in Krakow in scorching heat

On June 29, 2022, the temperature in Krakow reached 35℃, hotter than Tokyo! The highest average temperature in June in Krakow should be around 22℃, but this year, a heat wave had hit all over Europe, resulting in record-breaking heat waves in various places. According to the weather forecast, it was expected to rise up to 38℃ over the weekend.

Before 10 a.m. in such scorching heat, I was taken on a city walking tour by colonel Chris, who is an interpreter and a guide. We took the tram from near our hotel and headed north to the new town, then walked to the old town. We entered the old town from the St. Florian's Gate, went down the Florian Street, which continues the medieval townscapes, and arrived at the central market square, the heart of Krakow tourism.

When I visited this square in the summer of 2019, it was crowded with tourists from all over the world, like the busy Takeshita Street in Harajuku. However, on this day, there were few tourists to be seen. According to Chris, the pandemic had already ended, but due to the Russian invasion of Ukraine, the number of tourists avoiding travel to Poland had increased sharply. Poland and Ukraine share a border, and it had been reported that more than 2 million Ukrainians had taken refuge in Poland at that time.

Anyway, the sun was strong! So, we chose a shady road, stopped by a Christian church with a high ceiling on the way, and cooled down in the cool air inside the church. Then, we walked to the Kazimierz district, which is the venue for my coverage of the "Jewish Culture Festival" (hereinafter referred to as "JCF").

The Kazimierz district in Krakow, a Jewish quarter, was built in the adjacent area of Krakow by King Casimir III in the 14th century as a town exclusively for Jews. Although it prospered as the largest Jewish town in Europe until modern times, it was renovated into a ghetto by Nazi Germany, and its residents were sent to concentration camps, leaving it in ruins. During the socialist era, it remained derelict, but in the early 1990s, it became a location for the movie "Schindler's List," and Kazimierz began to attract attention. Subsequently, with the democratization and economic growth of Poland, it became a tourist destination, and now it has become a fashionable city with a relaxed atmosphere, similar to Kamakura, with trendy cafes, restaurants, and shops lining the streets.

About the Jewish Culture Festival

JCF was launched in 1988 by Yanusz Makuch, who was 28 years old at the time, with the theme of reviving lost Jewish culture. The program includes a wide range of activities such as concerts featuring Jewish music artists from around the world, theater, film screenings, lectures, and more. Since 1994, it has been held annually and has gained attention worldwide through its artistic program, gradually expanding in size. Today, it serves as a prototype for festivals around the world that celebrate Jewish culture, held in Poland and various other locations.

Even during the COVID-19 pandemic, JCF continued in a reduced or online format, and in 2022, it was held in full-scale for the first time in three years from June 23. The venues were scattered throughout the Kazimierz district, including synagogues, museums, cafes, live houses, outdoor tents, and more. The program included not only music concerts, but also workshops, lectures, cooking classes, photo exhibitions, film screenings, and more.

I became aware of JCF around 2012, as I had been paying attention to Israeli artists who were appearing one after another. Every year, I checked the program and put it in the top three of the "world music festivals I want to visit right away." I first met the organizer, Yanusz, in Krakow in the summer of 2019, and four months later, we met again at an Israeli music showcase. We met again after two and a half years, and before I could ask a question, he began to speak passionately on his own after I gave him a bottle of Japanese sake as a souvenir.

Yanusz: "Even if I die, someone will continue JCF."

"We were here during the pandemic, we are here now, and we will be here in the future. But nothing stays the same. JCF, which has been going on for 34 years, also changes every year.

You may want to know about next year, but I don't know. That's because we live between Germany and other European countries and Russia, and there is still a war going on. Today is the 126th day that Russia has crossed the border. We are here today, celebrating Jewish culture happily, but we don't know what will happen tomorrow. That's the time we live in.

This war is not just a problem for Europe. People say that Poland is responding very bravely to the Ukraine issue, but it's not something the government started. It's the Polish people who started it. And not just the Polish people, but people all over the world are following suit. This is a very big crisis that has happened again for humanity.

"And here, I have a question. What is the purpose of JCF? It's not just about putting music, movies, theater, and music together. We must give meaning to all programs, otherwise, it's just a mere collection of random cultures.

When I started JCF 34 years ago, I was 28 years old. Now, I'm 62. If there's any meaning to this short life, it's the honor of working with wonderful people for 34 years. You have met some of them in the office. Furthermore, this year, volunteers from almost all European countries, China, Pakistan, Azerbaijan, Iran, and over 20 other countries have come here to work together. This is my greatest achievement. Even if I die, someone will continue JCF.

Therefore, the meaning of JCF is not just about musical joy, but also mutual understanding, mutual respect, and efforts towards a slightly better world. I'm not trying to change the world, and I'm not that naive or stupid. But I can change myself. That's enough. This is a miracle. This is the answer to why I continue JCF. That's all I want to say. Let's continue at the concert venue tonight!"

Frank London's Ghetto Songs

After the interview and the walk in Kazimierz, we returned to our accommodation and went to the Tempel Synagogue for the music program that started at 6 PM. The synagogue has a historical religious facility that has been transformed into a stage, making it incredibly beautiful to look at, but the lack of air conditioning in this heatwave was a downside.

At around 7:30 PM, the "Ghetto Songs" project by Frank London, a Jewish-American klezmer musician (Eastern European Jewish party music), began in the synagogue, which was almost full.

The word ghetto is often used in Japan to simply mean slums, but originally, it referred to areas where Jews were forcibly relocated in various European cities since the Middle Ages. During World War II, it came to mean the concentration camps set up by Nazi Germany for the extermination of Jews. Today, the term ghetto is used to refer to low-income residential areas, slums, and ghettos around the world.

Frank London launched the "Ghetto Songs" project with American, Polish, Lebanese, Brazilian, and German musicians, not just as a Jewish issue, but as a problem for all human beings worldwide.

Frank London launched the "Ghetto Songs" project not only as a problem for Jews but as a problem for all mankind, along with performers from the United States, Poland, Lebanon, Brazil, and Germany. After a short introduction by Janusz, three performers took the front: Frank London on trumpet, a Ukrainian-Israeli female religious singer, and a male Arab opera singer. Behind them, members with electric guitar, double bass, piano, cello, and drums began to play.

First, they played the music of Jewish composers who lived and died in ghettos during the Holocaust, which had a sad Jewish sound to it. Next was an aria by a Jewish composer who lived in the world's first ghetto in 16th-century Venice. At the time, Jews had limited living areas, but they were freer to touch on music and art than Christians. As a result, the bright Italian air was uplifting.

Unexpectedly, Brandon Ross, famous jazz guitarist took the lead, and they played the 1972 hit song "The World Is A Ghetto" by the American soul band WAR. This song also mentions American ghettos as its theme. Furthermore, Antonio Carlos Jobim, the founder of Bossa Nova, sang "O Morro" with a Brazilian female cellist playing the cello. This song was also about Rio de Janeiro's Favella-ghetto, but Jobim's melody had hope in it. They also played Arab-Andalusian music by a Jewish composer who lived in the Jewish residential area of Mellah in Marrakesh, Morocco, in modern times.

It was a significant music project that tackled the issue of ghettos as a problem for all people worldwide, not just for Jews, and played beautiful music created in a sad environment called a ghetto. Moreover, it was performed by eight veteran musicians from all over the world and was truly a wonderful performance. JCF, what kind of music will we hear tomorrow?

Two Polish summer dishes

Now, let's try two typical Polish summer dishes. I had them at a restaurant located inside the Rubinstein Hotel, a lodging facility renovated from the childhood home of Helena Rubinstein, who was born in the Kazimierz district at the end of the 19th century, went to the United States during World War I, and became the queen of the cosmetics industry.

First, my favorite dish, tartare steak. In Polish, this dish is called "tatar" after the name of the nomadic people who introduced it. It is made by mixing finely chopped raw beef with minced onions, capers, and quail egg yolks, seasoned with salt, pepper, and mustard. Although it is occasionally seen in Germany and France, it is a popular dish that many restaurants regularly serve in Poland. As I want to savor the taste of the meat, I eat it without any strongly flavored sauce such as tomato ketchup, Worcestershire sauce, or mustard. When I eat raw meat, I feel my fatigue vanishing in an instant.

Next, I have cold beetroot soup "chłodnik" with its beautiful magenta color. I have been making this dish repeatedly every summer since I first had it in Poland three years ago. I had been improving the recipe based on a cookbook, but in this restaurant, they simply stretched pickled, grated beets with ice water and sour cream and added boiled eggs and dill on top. Even so, it was delicious enough. I wonder if it's really that simple!

I realized both dishes had a magenta to pink color. This color is my lucky color and also represents Polish summer dishes. It is a good omen for my journey.


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