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眉毛ティントを塗って叫びたくなった、「美しさ」の事

私は、自分の顔の左右差が嫌い。

だから洗面所の三面鏡は合わせ鏡にして常に人から見えている顔を確認するし、片方の口角だけをオーバーリップにするし、片方の咬筋を毎日多めにほぐしてみる。


その日はお泊まりの前日で、眉毛が消えないように眉毛ティント(↓塗ってしばらく置いておいたら眉が数日間着色されるシロモノ 文明に感謝)を、いつものように三面鏡とにらめっこしながら塗ってた。

家族が皆寝静まった中、自分の顔と対峙し続ける静かな時間。

白っぽい洗面所の電気を付けてるからだんだん目が疲れてきて、持ち前の左右差のせいでなかなか上手く塗れなくて、何回も何回も何回も綿棒で修正して、それでも眉尻が綺麗に整わなくて、左より右の方が思ったより長くなっちゃって、そもそも眉頭の高さが違うし、でも早く寝ないとクマもできちゃうし、なんか夜中ってだけで孤独だし、ちょっと泣きそうになって、もうしんどいから妥協して寝ちゃおうか、

そんな午前2時36分、

"美しさと正しさは違う"

と突然、もの凄い深さで確信した。 ​

だって、どう考えても私の眉毛はそこに在ること自体が正しいし、極端に言うと、そもそも左右差なんてのは左右という概念があるから生まれる話で。私は今、本当は愛おしいはずの正しさを忌み嫌って、塗りつぶして、美しさにしようとしている。そのことに強烈な違和感を覚えた。

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眉毛ティントに全く罪は無いです。
いつも本当にお世話になってます。好きすぎて2色持ちです。

思えば、物心ついてから私は、画一化された世間一般で言う"美しさ"の軸ばかりを追い求めるようになっていた。本来私は私であるだけで正しくて、それだけでこれ以上ないくらい尊いはずなのに。

それは、以前向けられた外見に対する悪意ある言葉のせいかもしれないし、美人ばっかり出てくるInstagramのせいかもしれないし、歴史的には男性に選ばれなければいけない性であった(今は違うし違うと信じたい)女性性のせいかもしれないし(シャレじゃないです)、どんどん進化するプリクラやTikTokの加工のせいかもしれないし、「デブは電車乗んな!」とか意味わかんないこと言うダイエットサプリの広告のせいなのかもしれないし、もしかしたらその全部なのかもしれない。

とにかくそのことに気づいてからは、社会に、男性性に、他人の目線に、自分が"消費されている"という感覚が途方もなく気持ち悪くなった。

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数年前、衝撃すぎて思わずスクショして陳列してしまったYoutubeの広告。地獄の沙汰すぎるな。冷静にかなり不快で、なんかこういうの辞めさせる署名みたいなのにイソイソと名を連ねてみた記憶がある

でも、この気持ち悪さってどこにどう向けたらいいんだろう。今まで脇目も振らずに走っていた徒競走のゴールが、突然どこかに消えてしまった感じ。狐につままれるってこういうことか、という感じ。

例えば私が嫌いな自分の左右差に関して言えば、人間は左右対称のパターンを認識しやすいから、左右対称の顔を好ましいと感じるという研究(↓)があったりするらしい。何というか、これはもう、仕方ない。

https://wired.jp/2014/08/27/attractive-faces-good-health/ 
(左右差の研究についての記事 面白いことを研究する人間がいるんだな)

本能?生体的な反応?に綺麗事が通用しないことは私でも分かる世の中にはびこる"美しさ"の基準の正体は、完全な虚像ではなくて、資本社会が人間の本能的な反応を膨張させたものなんだろうな、ともぼんやり思う。

そんな中で、この気持ち悪さと戦っていくために私にできることは何だろう。小せえ頭をひねって絞って働かせて唸って、生み出した答えが、言葉だ。

「左右差」「中顔面」「Eライン」「脂性肌」「毛穴」「骨格ストレート」「蒙古襞」「大根足」「老化」「デブ」「ブス」「美人」。

本来あるがままであった世界を、好き勝手に区切って名付けて再構築するのに使った言葉。その言葉を今度は、”正しさ”を愛すために使えば良いのではないか。綺麗事に聞こえるかもしれないけど、少なくとも今の私は心の奥底からそう思っているし、そのために私が持てるありったけの言葉をかき集めて、叫びたいと思ってる。

同時に、肥大化した”美しさ”で他者をジャッジするような言葉を、安易に形にしてはいけないとも強く思う。SNSが発達して、他者から見た自分をどんどん気にするようになって、そういう”美しさ”に敏感になった今の私たち(もちろん私も含めて)は、多かれ少なかれその”美しさ”の基準で他人を判断してしまうけれど、その判断は時として凶器にもなり得ることを絶対に忘れてはいけない。

実際に私は小学五年生の時に友達から言われたある言葉がきっかけで自分の見た目が異常に気になるようになって、ここ最近までずっと自己肯定感が低いままだったし(おかげで友達関係も恋愛も将来の指針も全部ボロボロだった)、周りにもそういう記憶を背負い続けて苦しんでいる子を沢山知っている。

かく言う私も、まだまだその基準から完全に離脱できているわけではないし(社会生活を送る上でメタ認知は必要なスキルだと思っているので、と言い訳がましく書いてみたけど、よく考えたら多分まだ私も強くなりきれていなくて、甘い部分があるだけです)、誰かを無自覚に傷つけてしまっているのかもしれないけど(もしそう感じたら言って欲しいです)、とにかく、その凶暴な”美しさ”に依る判断を言葉で具現化するか否かは、とても大きい気がする

だからせめて、このnoteを読んで下さった方には、どうか少しでも世界に優しく在ってほしい。当たり前だと思っているそのパラダイムを発露することが、他人を深く傷つける可能性を知っていてほしい。

私の好きなバンド、My Hair is Badのボーカルの椎木さんも、「人に優しく」と言っています。これが真理です。


私は、私の正しさを愛するために生きたい。私だけの美しさを見つけるために生きたい。19歳の私は、等身大、あるいはそれ以上の、すごく大きな気持ちでそう思う。

そして、そんな風に生きられる人が増えるように、私はこの憎たらしいけど愛おしい、大好きな言葉で発信を続けたいと思う。









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