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得体の知れない美について

もう随分会えていない祖父は、意外にも花が好きな人だった。わたしは祖父の家の玄関に咲いている水色の朝顔を見るのが好きだった、という珍しく甘い記憶がある。

この頃会えていない祖父の家には、小さな庭があった。子供の頃のわたし達きょうだいは、この庭に咲く紫の朝顔を潰して色水を作りまくった、という珍しく苦い記憶がある。

大人になってから、花を買うのが一つの楽しみになった。花束もたまにはいいけれど、一輪、二輪、その時花屋で気になった花を、部屋の丈にあう分だけ連れて帰るのがいいと思った。

わたしには、物に心があるように思える、そういう癖がある。小さい頃からぬいぐるみは喋ると思っていたし、実際に言葉を発したことは今までないけれど、いま何を考えているか、そのくらいはなんとなくわかる気がしてしまう。だから、物に当たったことがまずない。これまでに二度くらいイライラして携帯をベッドに投げつけた時も、慌てて拾いにいき画面を撫でて「本当にごめんね」って謝っていた。

皿にも、枕にも、洋服にも心があるように思う。ギター、シャンプーボトル、眼鏡、でもティッシュやマスクといった消耗品や食べ物にはそう思わなかった。この癖の正体は、わたしの愛着だったのだから。

そして花、最近この花にこうも惹かれてしまうのは、美しくて、得体が全然知れないから。お気に入りの花はかわいい。花にも同じように心があるように思えると思っていたわたしは、毎日花を見つめて言った。

「今日もかわいいですね、綺麗」

当然花は答えなかった。でも答えなかったというより、聴こえていないに近かった。どんなに可愛がっても反応がないことはわかっているけれど、ぬいぐるみとも違うこの「お互いに一方的」みたいな感覚に、日に日にぞっとしていた。

全く心が通じないと、少しずつわかってきても、わたしは歌って見せたり、話しかけたりを繰り返してみた。でも花はいつも、いつまで経っても同じ顔のまま、花瓶のなかでこぢんまりと大人しく、美しくしていた。

「美しくしている」この表現がしっくりくるなと思う。なにか、たった一つだけの意思を持って咲いているように感じるその姿から。

花の感情を読み取りたくて、毎日焦げるくらい見つめてみたけれど、ずっとわからなかった。繊細な造りで、とても綺麗で、溜め息が止まらなかった。そうして花瓶にいけられた花は、どんどん次の花へと交代していった。

しかし、今うちにいるラナンキュラスをぼんやり眺めていた夕方、唯一汲み取れたような感情があった。

それで納得したし、花の得体の知れない美しさについて、説明がつくような気がした。花を見るたびに、花に話しかけるたびに、花たちが一方的にこちらに伝えてくるメッセージはこうだった。




「生きてる!」



sala hirose

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