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愛についての覚え書き 02「東京を生きる」

そしてまたひとりの部屋で、ベッドの横の小さな灯りだけをつけて眠るとき、私は自分の孤独が、もう誰と恋愛しても埋められないほど深くなっているのではないか、と思う。「そもそも孤独というのはそういうものだ」と言う人もいる。誰にも埋められないのだと。私は誰かと愛し合えれば孤独を忘れられる瞬間があるのだと信じていたし、たぶん、まだ信じている。

                      「東京を生きる」雨宮まみ

 人が孤独に陥り、寂しがっているのを見て、醜いと思ったことはないだろうか。恋愛のはじまりに、相手の目にひっそりと浮かぶさみしさを見つけては、その深さの分だけ愛もまた深まるのに、別れの雰囲気が漂う頃には相手の孤独は重荷でしかない。他人の孤独は、こちらの相手への愛情に応じて変容する。愛していない人間の孤独は、ないものを欲しがる貪欲さを思わせて、こちらを疲弊させる。なのに自分は自分でいつまでも孤独で、それは永遠に解消されない気がする。孤独は、愛情や侮蔑の光を受けてプリズムのように乱反射する。わたしには未だその正体がよくわからない。そんな「孤独」というものを、様々と見せつけられるのがこの本だ。

 40歳という若さで急逝した雨宮まみの「東京を生きる」を読んだのは、わたしがまだ上京したばかりの頃だったように思う。狭い部屋には限られた量の本しか置けないから、どうしても手元に置いておきたい本だけを本棚やベッドの下に収納しているのだけれど、この本も大切にしまっている。

 初めて東京という街に降り立ったときに感じたのは、なんて灰色の街なのだろう、という驚きであったように思う。どこを見渡しても建物だらけで、ビルは高く、そして人間を拒否するかのように冷たい。
 故郷には色があふれていた。常夏の島を覆う空はたいてい透明度の高い青で、街中でも米軍基地の広々とした芝生が見渡せ、高くそびえるヤシの木が永遠につづくかのようにどこまでも並んでいた。太陽はいつでもそこにあって、すべてのものを極彩色に照らし出す、そんな場所だった。
 あの頃は、東京という街に、慣れ親しむなど想像もできなかったのに、十数年の時が経ち、わたしはまだこの街にいる。日本でここ以外の場所に住むことなど想像できないほどに、肌が馴染んだようにすら感じる。
 いくつかの仕事と、いくつかの恋と、いくつかの別れ、さよならもなく通り過ぎて、だけどどこかの街角で生きているだろう人たちとの何気ない日々。様々な思い出が東京のあちらこちらに点在している。明け方の246や、出勤途中の人々に紛れ込んだ代々木八幡駅、夏の日の日暮里の中華屋に、20代を過ごした新宿歌舞伎町。そのような場所はいまも増えつづけ、わたしは全身で東京という街をあじわう。

 不思議なのは、こんな都会にたった一人でやって来て、それなのに故郷にいた頃より随分孤独でなくなったことだ。子供だった頃のほうが、余程孤独であった。それは何かが満たされたからとかではなくて、同じように孤独を抱えながら笑い、どうにか前進しつづけている人たちに出会えたからだと思う。人は元来孤独なものだ、ちょっとだけ寂しくない瞬間があるだけだよ、だから大丈夫。そんな風に教えてもらってきたような気がする。彼や彼女のその佇まいに、そして言葉に。

 他人の孤独をその人と同じように感じることはできない。だからわたしのそれも、永遠に誰かにわかってもらうことなど不可能だろう。そのことをすとんと腹に落とした瞬間から、人は愛というものの本質をみいだすのかもしれない。そんな境地に至るまでに、どれほど悩み苦しみ、間違えて、涙を流したのか、もう思い出せないけれど。
 おそらく雨宮さんは腹に落とすというある意味では「逃げ」の姿勢をとることができない稀有な人間だったのだろうと推測する。

”「恋愛なんて、ただの幻想だ」と、自分はすべてわかっているみたいに言う人のことを、私は内心、軽蔑している。”

”自分の力でも、他人の力でも、好きになることを止めることができない。誰かを強く求める気持ちを、ちょうど良い加減にとどめておくことができない。もうこの先には、必ず、傷を負う道が待っているのだ、と思う。”

”勝つために、負けるために、ここにいる人の数よりも、ブルースを歌うために生まれてきたと思いたい人の数があふれるほどに多い街が東京なのだと思う”

 特に最後の一文は、読んだ時の衝撃を未だに鮮明に思いだす。ああそうだ、だからわたしはこの街を好きになったのだ、と感覚でわかったのだ。この街には確かに、ブルースがよく似合う。傷を抱えながら笑い、酔いながらに歌う。そんなひとたちと、いったいどれだけ出会ってきただろう。
 すべての文章が刃物のように尖り、灼熱のごとく熱く燃え、それでいて冷静な意識を伴っていて、一気に読んでしまうとあちら側に連れていかれる気がするのに、他人事のように思えないのは、おそらくどのページにも、かつて自分があじわった感情が溢れているからだ。

 だいたいのことには慣れて、諦めを知ったから仕事以外のことではもう誰かと争うこともなくなって、熱くも冷たくもない日々を送る中で、でも、ふと「東京を生きる」を開き、めくり始めるとどうしても思い出してしまう。あの頃、わたしはここで生きることに本当に必死で、誰か特定の人を求めることに悲しいくらいの情熱を燃やし、いくつかの夢が破れて傷は深かった。そんな日々が走馬灯のようにフラッシュバックする。
 確かにあの頃、わたしは東京を「生き」ていたのだと思う。







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