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三人姉妹 眠る東京1

 軽薄な音楽が最大音量で空間を支配して、その中で踊る人々の思考を遮断する。何かから逃げるようにして地下へ潜り込むのに、その何かを明確にすることは誰もしていないように見える。
 誰が入れたのか分からないのに次々と配布される名前だけは知っている高価なシャンパンと、何の疑問も持たずにそれを笑顔で受け取る女の子たち。誰も彼もが身に纏っているのは一目に高価なものだと分かるスーツ、ドレス、バッグにアクセサリー。それらが有名なハイブランドのものだと分かるのは、皆似たようなものを身につけているからで、取り憑かれたように同じか、より良いものを手に入れようと昼間の表参道で躍起になっているのが思い浮かぶ。
 顔ですら、皆同じ造形にしたがる。個性なんてものには誰も興味がなくて、男も女も互いの容姿や職業や年収がどの程度自分の合格基準を満たすかだけを常に計算している。
 あるいは、酒に酔ってどうでもよくなってどうでもいい男や女と寝る。朦朧とする頭でどうでもいい朝を迎えて、最初に投げかけられる言葉で自分という人間がまた他人にとってほとんど無価値な存在であると気づかされて、そうしてその痛みを忘れるために見知らぬ部屋の浴室でシャワーを浴び、また夜を待つ。夜はすぐにやって来る。どんなに寂しくても、どんなに空虚でも。だから私たちは待つ。今度こそ、何か特別なことがあると期待して。けれどそんな夜は永遠にやって来ないし、来たためしもない。


 差し出されたショットグラスを飲み干すと、少しだけ気分が良くなった。アルコールはいつからか桜子の精神安定剤の役割を担っている。安心したように息をついたのも束の間、隣に腰を下ろした麗華が耳打ちしてきて、また桜子をどんよりとした気分にさせる。
「いいわけ?あれ、ほっといて」
 大きく開いた胸元に、蝶を象ったダイヤのネックレスが揺れている。今夜それを目にしたのは何度目だろう。この世界には、もっとたくさん、美しいものがあるはずなのに。
 麗華が囁きながら指差したのは、やはりVIP席で貴島の膝に座る若い女だった。桜子も麗華も共にまだ26歳だけれど、その女はもっと若く、あどけない横顔は十代のようにすら見えた。顎のあたりで切りそろえられた艶めく健康そうな髪が、酔いにまかせてはしゃぐ度に揺れている。
「別に。いちいちとやかく言うことでもないでしょ」
 桜子は煙草の灰がまみれたテーブルの上の、誰かが飲まずに放置したショットグラスに手を伸ばした。誰かとまともに話すには、まだ頭が冴えすぎていた。このままでは夜の連中に置いていかれる。
 実際、桜子にとって、その女の存在などどうでも良かった。貴島は彼女の腰に手を回して女を支えているが、それは膝の上で踊る彼女が手にしているシャンパンが、これ以上自分に降りかからないようにしているだけで、この後起こり得る面倒なことを避けたいがための仕草であることは容易に想像できた。それは桜子がそう思いたいがための気休めなどではなく、貴島はそういう男なのだった。こんな都会の夜の真ん中にいて、あれほど他人に興味がない男を、桜子は貴島以外に知らなかった。貴島の口から、夜の街の誰かの愚痴を、あるいは気遣いや心配、ちょっとした人格に対する自分の感想ですらも、桜子は聞いたことがない。彼はこの状況にすでに飽いている。あと1時間もすれば我慢できずに店を出るだろう。疲れたと言って部屋に帰るかもしれないし、店を変えて今度は静かな場所で飲むかもしれない。もしも桜子が一人で帰宅し、貴島が成り行きであの若い女の脚をうっかり開くことになったとしても、翌日には罪悪感など微塵も持たないくらいに一夜の騒ぎをすっかり忘れているだろう。どっちにしろ、きっと頭の中ではいま、別のことを考えているはずだ。彼という男が執着するものがあるとすれば、それは仕事や金のことに限られていて、かといって東京の真ん中で生まれ育った彼は、夜を楽しまずに周りを白けさせるほど、野暮でつまらない男ではなかった。だから、麗華の心配などは杞憂でしかなかった。桜子を憂鬱にさせているのは、もっと別の、根本的な何かなのだ。
「さすが、つきあって1年も経つと女も図太くなるものね」
 茶化すようにそう言って、麗華もまた白いテキーラをあおった。桜子には、麗華が面白く思っていないことがわかる。ここにはたくさんの友だちと呼べる女や男たちがいたけれど、実際誰も、誰の幸福も願っていないように桜子には思えて仕方がなかった。
「私たちね、婚約したの」
 不意に桜子はそう麗華に告げた。貴島とは、式の日取りなどを決めてから仲間内に報告しようと話していた。けれど桜子は確信的に約束を破った。なぜだかわからない。東京の夜に倦んでいたからかもしれない。東京にも夜にも、もううんざりだった。
「だったらなんで、そんな顔してるわけ?」
 桜子が予想した反応とは裏腹に、麗華は怪訝そうに眉をひそめた。今度はちょっとだけ、本当に心配そうに、桜子の顔を覗き込む。桜子は見知らぬ誰かに注がれたシャンパンを一気に飲み干した。やがて頭がじんわりと麻酔をかけられたようにぼうっとしてくるのを感じる。自分がどんな顔をしているのか桜子には分からない。
 おもむろに麗華の腕をとり、桜子はダンスフロアへと向かった。音楽が頭から心臓を経てやがて全身を打つのを感じる。いつか聴いた曲だった。聞き取れないほどに大音量で降ってくる。でも確かにその歌詞を、繰り返し桜子はいつか聴いたのを覚えている。異国の誰かが書いた、でも、いまだけは自分の言葉になって、いつか経験したみたいなそんな気分になる。もっと、もっと遠い世界へ。リズムと一体になって、自分を消滅させる。実態が消滅すれば、どこまでも行ける。それでいいのだと思う。男を受け入れるときのように、思考を止める。いまこうして、ここにいることが、間違っていることだけは分かっている。もう百何回目かの夜だった。

 27階の窓からは東京タワーが見える。夜の東京タワーは好きだ。登ったことも近くまで行ってみたこともないけれど、少なくとも「ここまで来た」と桜子には思える。ここがいったい自分の人生のどの地点なのか、見当なんてまったくつかなかったけれど、少しずついろんなことが「まし」にはなっていると、それだけは実感できた。
 その部屋はもともと貴島のもので、3ヶ月前から桜子も一緒に住むようになった。ほとんどの時間をオフィスで過ごす貴島は出張も多く、平日と休日の区別もないから桜子はたいてい一人で過ごす。そのことに何の不満もないけれど、ここにいる理由をときどき失う気がした。あるいは、そんなものなど元からないかのような、文字通り地上27階に浮いているような、そんな現実を思い知らされるような恐怖を感じて、その直前でいつも思いとどまった。かといって貴島が部屋にいても、その理由を探すのをやめられたことはない。ただ、気づけば窓の外をながめている。あまりに外を見るものだから、貴島は結婚後に購入を考えているマンションも、景色を一番に選ぼうと言ってくれた。その心遣いに、桜子ははしゃいだ声を上げはしたけれど、なぜだかとても寂しい気持ちがした。
 深夜になってもきらめく窓の外を眺めていると、小さく着信音が聞こえた。重い体を引きずるように部屋を横切り、ダイニングテーブルの辺りへ行く。食べ残したデリバリーの容器の横にあるスマートフォンには、二番目の姉の菫子からメッセージが届いていた。生真面目なひとで、幼稚園に通う小さな子供がいるのに、こんな時間に連絡してくるのは珍しかった。何事かと驚いたけれど、文面には来週の婚約パーティを楽しみにしている旨が書かれていただけだった。桜子はスタンプをひとつ送信して、画面をオフにした。
 「薫子ちゃんも来てくれるわ」
 最後にはそう書かれていた。一番上の姉にはもう何年も会っていない。どこで何をしているのか、菫子は知っているだろうけれど、桜子から尋ねることはなくなっていた。
 薫子もまた、この街にいるのだろうか、と考えて、きっといるに違いないと確信した。私たちにはどこにも行く場所などなかったのだから。もう大人になったのに。もうどこにも逃げなくてもいいのに。桜子はあの夜からずっと、走りつづけているような気がした。この街にいるのが桜子の意思ではないのだとしたら、それは薫子の意思だった。こんなところまで連れてこられた、と、東京タワーを見るた度に考えつづけることをやめられない。でももう故郷のあの空気のにおいを忘れてしまった。桜子は11歳だった。雪ばかりが降る、白い街。古い家。写真だけの母。そして、父。もう、死んだだろうか、まだ生きているのだろうか。決して娘の自分を愛することのなかった、あの男。
 姉たちは、いったい何から逃げてきたのだろうか。結婚をして、姓を変え、嫁ぐ身になれば、その理由を教えてくれるだろうか?
 東京には、めったに雪は降らない。










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