鏡花先生という幻想
泉鏡花とは明治から昭和初期にかけての文豪だ。
とりわけ、幻想文学の書き手として著名である。
私はWeb小説サイトのプロフィールで、泉鏡花を「創作の羅針盤」の一人として挙げている。しかし先述の作品――『高野聖』など、いわゆる泉鏡花の代表作ともいえる幻想文学には、さほど影響を受けていない。私が強く惹かれるものは『外科室』『海神別荘』『夜叉ヶ池』など、初期の「観念小説」といわれる作品や、幻想文学でもその傾向があるものが多い。そのため、鏡花作品を愛好する方々と比べて「自分は少数派なんだろうな」という意識を持っている。
とはいえ、泉鏡花という小説家に魅了され、さらには「鏡花先生」などと(勝手に)思っているのもまた事実である。おばけや民俗学の観点から鏡花作品を愛でていないことを惜しむ気持ちはあるものの、では自分はどのような点で愛好しているのか――と、顧みたいと思い、このエッセイを書いている(ネタバレ有)。
1.『外科室』『愛と婚姻』(1895年/明治28年)
私が最初に読んだ鏡花作品は『外科室』である。
伯爵夫人と青年医師の秘めた恋を描いた本作は、短編ながら濃密な物語となっている。なによりも衝撃だったのは、前半の外科手術の場面だ。伯爵夫人が青年医師への思いを隠し通すため(うわ言を口にするのが嫌だと)麻酔なしで胸を切られるのである。しかもその執刀医こそが――愛する青年医師なのだ!小説の後半でふたりの出会いが描かれるが、彼らは会話すら交わしていない。ただすれ違っただけの相手を九年もの間、互いに思い続けたのだ。
その恋愛が成就する場面の残酷なまでの美しさ、緊迫した室内の前半部分と穏やかな戸外の後半部分とが対比する構成に、強く心が惹かれた。
また、この小説は初期の「観念小説」という、当時の社会について作者の考えを顕著にした作風に含まれる。本作においては、伯爵夫人と青年医師という身分差のある恋愛を描きながら「社会的立場や身分の貴賤は関係なく、恋愛とは互いを思い遣る心が全てではないか」という主張であると受け止めている。社会的しがらみから離れた「個人」に焦点を当てている点でも、私は泉鏡花という小説家に興味を抱いたのだ。
同様の主張に『愛と婚姻』(明治28年)という短い随筆がある。
『外科室』と同年に発表されたこの随筆には、はっきりと「結婚制度は社会のためのもので、愛の成就のためではない」と、個人の意を尊重しない社会に苦言を呈している。現代のフェミニズムの議論となりそうな主張を、明治期の、しかも男性が発したという点に私は仰天し、さらに心がかき立てられた。
2.『海神別荘』(1913年/大正2年)
続けて読んだ『海神別荘』は戯曲である。
父親のために海に沈められた美女は、海の公子の花嫁として迎えられる。人間と海神の「異類婚姻譚」ともいえる作品だ。本作で真っ先に惹かれたのは、言葉の美しさだ。森厳藍碧(しんげんらんぺき)なる琅玕殿裡(ろうかんでんり)――から始まる冒頭にまずノックアウト。
(意味としては「荘厳な藍緑色の琅玕殿のなか」であろうか。琅玕とは、碧玉に似た美しい宝石や美しいもののたとえ)
加えて、本作では人間と海神と、異質な存在の対比が残酷なまでに描かれており、その点に非常に魅了された。
最初は、美女と公子が対峙する場面である。
美女の父親は、娘と引き換えに海の宝を手に入れた。いわば美女は人身御供である。そんな自分を父親は嘆き悲しんでいるだろう、という美女に、公子は以下のような会話をする。
まず驚いたのが「え?公子さま、もらった宝を返したら約束も反故にできるんですか?」である。そこかい、と突っこまれるかもしれないが、こういった異類婚姻譚では約束の反故など基本的には不可能だろう。しかし本作に登場する神様――公子は残酷な面を持ちながらも、このように筋の通る主張もしている。美女は最初、父親もおのれと同様に「被害者」のように述べているが、実のところ、富を享受したのは父親自身だ。いわば美女の「加害者」は父親なのである。公子はあくまで「契約者」であり「加害者」ではない。この場面ではそれを指摘された美女が、「親子の情」とすり替えようとした自らの欺瞞に気づき恥じている。これらの描写は、人間同士の欺瞞に神の世界は一切関知しないという、泉鏡花の主張が感じられる。
この海神である公子は、茶目っ気があり、勇敢で優しさも持ち合わせている。冒頭の場面では、結納を担当した海坊主のうっかりミスをフォローして、人間界の迷惑をも案じている。姉からもらった書物を自分の知識不足から読めず、恥じ入ったりもする。鮫に襲われた侍女を自ら助け出したりもする。「令和の少女漫画のヒーローかな?」と勘違いしそうなイケメンが、大正時代にすでに爆誕していたのだ。
ところが先述のように、公子には非常に残酷な面がある。
ここで終盤の場面を取り上げる。再び、美女と公子が対峙する場面である。一度人間界に帰った美女は、おのれの姿が人間たちには「蛇」にしか映らないと知り、愕然として海の世界に戻ってくる。感情が昂った美女は公子を罵り、あろうことか、公子はそんな美女を殺そうとするのだ。
えーーーーーーーっと。
王道イケメンから一転、闇落ちイケメンが現れました。美女も美女です。一体どうしちゃったの?「殺れるもんなら殺ってみなさい!」だったのが一転「殺して(にっこり)」って……うん?キャラが変わった?
などと、思わず突っこみたくなる場面である。が、大好きな場面でもある。
ここでは公子の残酷さ――というよりも、海の世界、ひいては神の世界の残酷さがよく表れている。とはいえ、ここでいう「残酷さ」とは人間の価値観のものだ。この物語の序盤~中盤までは海の世界の価値観が描かれている。そこでは、忌むものとして「嘆き」や「悲しみ」が挙げられる。一方で賛美するものとして「楽しさ」「美しさ」が挙げられる。不義の罪で磔にされた女や、火刑にされたお七を例にして、公子は、その刑に際する女の美しさを讃えている。
つまり、この場面は、人間と海神との価値観の対峙ともいえる。
自分の価値観に合わないと知るや、公子は自ら娶った女を一転して、殺そうとする。それは彼の道理に適うことなのだ。一方、美女も美女で殺せと一歩も引かない。本作で描かれる彼女は、非常に力強い。人身御供として海に沈められながらも「宝と引き換えに自分を望むなら、死にはしない」と冷静に確信している。また、父親を庇う自身の欺瞞であったり、宝石を陸に残った人間たちに見せたいと望んだりと、人間らしい欲もあわせ持っている。
最後に見せた彼女の変化には、さまざまな解釈があるだろう。
この一転した彼女の言葉について、私は「人間であることを止め、海の世界に迎合する」決意であると考えている。真実として美女は公子を「美しい」と思ったのかもしれないし、それは偽りかもしれない。しかし美女はこの極限において――自らを「活かす」選択をしたのだ、と私は思う。
人は人のままでは、海の世界では生きられない。『海神別荘』で描かれる美しさは、人間にとって残酷さを伴うものである。美女と公子とがそのままで分かり合えることはなく、美女が「人間でなくなる」ことによって、初めて二人は寄り添うことができる。この残酷なまでの異質さが本作の魅力であり、私が鏡花作品を愛でるきっかけとなった。
最後に一つ、公子の言葉を以下に引用したい。これは幻想文学ともいえる本作の中にありながら、なおも泉鏡花のなかに生き続ける「国家や共同体と個人との関係、愛の在り方」というテーマを端的に表したものだと考える。
3.『夜叉ヶ池』(1913年/大正2年)
『夜叉ヶ池』も『海神別荘』と同年に発表された戯曲である。
夜叉ヶ池に棲む龍神・白雪を鎮めるため、晃は村に定住して鐘を撞いている。その妻・百合が雨乞いの贄に選ばれ、晃は村長・鉱蔵らと対立する。本作で最も印象深かったのが、以下に引用したその場面だ。
村長は「雨乞い」という大義名分を掲げ、妻を差しだせと迫る。それに対し、晃は「おまえが死ね」と憤る。この場面で、村長は「人のため、村のため」と一見、もっともらしく言い連ねている。しかし、結局のところ、弱者である若い女性に犠牲を求めているに過ぎない。彼自身が犠牲になるつもりは全くないのだ。その欺瞞を見抜く晃の言葉が強く刺さる場面である。
本作は、夜叉ヶ池に棲む龍神や眷属らが色鮮やかに描写される「幻想文学」の面を持つが、一方で、権力を持つ村長ら「共同体」と力を持たない晃たち「個人」との闘いを描いた作品でもある。この人間同士の対立には、白雪ら異界の者は直接関知していない。ここでもまた泉鏡花の「国や共同体」への視点がくっきりと定まっており、そんな彼の文学に強く惹かれたのである。
4.鏡花先生
泉鏡花は十歳の頃、母親を亡くしている。
彼の作品には度々、年上の女性が登場する。母親への思慕は文学に留まらず、彼の結婚にも表れている。泉鏡花は芸妓との結婚を師である尾崎紅葉から反対された。この女性・すずは――亡き母親と同じ名前であった。
この時代であれば多くの男性は、他の女性を娶って芸妓を妾としたり、ひょっとすると、世を儚んで心中したのではないだろうか。
しかし――泉鏡花はそのどちらも選ばなかった。
尾崎紅葉が生きている間は結婚せずに、師が亡くなった後で彼女と結婚したのである。意志が強い。もちろん、母親との縁を思わせる女性であったからこそ、唯一無二であったのかもしれないし、公にできないような事柄もあったかもしれない。ふたりの関係は当事者にしか分からない。だが、表立って師と対立することはなく、さりとて女性も自らの人生も諦めることはなく、恋を貫き通した泉鏡花の結婚は、まさに彼の文学をそのまま体現したものだ。私はそんな泉鏡花という文豪に感服したのである。
また、泉鏡花は胃腸の調子を崩して以来、火を通したものしか食べないという。刺身はもっての外だし、大根おろしも果物も煮なけりゃ食べない。お酒は熱燗。豆腐だって必ず火を入れる。なんなら「腐」の字は不吉だから「府」と書いちゃう。そんな潔癖症に加えて、犬が怖い。狂犬病になるのが嫌だから、外出のときも極力歩かず車を呼んじゃう。その頑ななまでに自己を貫く姿勢が、私は大好きなのである。
(そして現代から見れば、泉鏡花のこれらの行動は合理的ともいえる)
これらのエピソードは、泉鏡花の断片にすぎない。私が内心で「鏡花先生」とお慕いしている泉鏡花像は、数編の作品といくつかのエピソードから成り立っている、いわば幻想の「鏡花先生」である。
ところで、私は常日頃から「ひとはひと、自分は自分」と思って生きている。基本的に自分のペースで動きたくて(仕事は契約だからその限りではない)ひとから「こうしなさい」と言われるのが、苦手だ。だからか、自分のパーソナルスペースを侵害されかねない共同体、ひいては国家というものに苦手意識がある。どこまでも「個人でいたい」という思いがあるのだ。
(もちろん、人間はひとりでは生きられないものだし、自分の生命を脅かされない範囲で他者の役に立ちたいとも思っている)
だからこそ、今から一世紀以上も前に「国、共同体と個人の関係」を問いかけ、作品に反映させてきた、泉鏡花という小説家の存在に深く励まされたのだ。そして、残酷なまでの美しさを描き切る筆致を支えとしているのだ。
つまり、幻想であるかもしれない「鏡花先生」に励まされ、小説執筆の支えとしていることは、すでに私の真実なのである。
芥川龍之介でも谷崎潤一郎でも小村雪岱でもない私が「鏡花先生」とお呼びして、勝手に師の一人として仰ぐなど、おこがましいのは承知のうえだ。だから不肖の不肖の不肖の弟子のように私は幻想の末席にちょこんと座り、空のうえの泉鏡花に「ネタが出てきません!鏡花先生!」などと、今日も心の中でお声掛けしているのである。
<参考文献>
小村雪岱『泉鏡花先生のこと』(青空文庫)
水木しげる『水木しげるの泉鏡花伝』(小学館.2015)
峰守ひろかず『少年泉鏡花の明治奇談録』(ポプラ文庫.2023)
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