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彼女とデートした(してない)

 気が付くと僕は海にいた。まだ少し冷たい波が心地の良い海風を連れ、迫っては引き返し、迫っては引き返し、早く遊ぼうと言わんばかりに裸足の僕を初夏へと誘う。最近は気温の高い日が続いており、どうしてもというならその説得に応じてみるのも悪くないと思った。ふと足元へ視線を移すと、顔を赤らめた自分がぼーっとたたずんでいることに気付く。理由の分かり切った焦燥感を、地平線へと沈みゆく太陽のせいだと自分に言い聞かせ、慌てて僕は彼女の方へと目を向けた。視線の先にはいつも彼女がいた。今は数歩歩けば手の届く距離で、まるで子供のようにはしゃいでいる。センスのない僕とは違い、彼女の服はお洒落でとてもよく似合っていた。時折「冷たい!」と大げさに驚いてみたり、わざわざ海に向かって「やっほー!」と叫んでいる。後ろにそびえる山なら返事をくれるだろうに、きっと彼女なりの母なる海へ対する社交辞令なのだろう。それにしてはもったいないほどのまぶしい笑顔で、ひょとしたら純粋に楽しんでいただけなのかもしれない。そんな童心は素直に羨ましい。

 「今日は楽しかった」。たったその一言で来てよかったと思える。いつもはクールぶっている僕だけど、こういう時に自分は単純なのかもなと気づく。「また来ようね」と返すだけなのに妙に緊張した。気のせいか帰り道は少しだけ早歩きになった。最寄り駅につくと、気を利かせて彼女の分も一緒に切符を買おうと思い、すぐさま財布の入ったポケットに手を入れた。しかしそこにはすでに切符が入っていた。来るときついでに買ったのかなと思いつつ、覚えのない切符で改札を通り、帰りの電車を待った。退屈だなんて思う余裕はなかった。数分後ホームに止まった電車へ乗り込み、僕たちは空いていた近くの席に腰を下ろした。車窓からは「カーカー」と鳴くウミネコの姿がうかがえる。ドンドンと響く電車の音も心地よい。やはり電車の揺れはデートのエンドロールにもってこいだ。ただ久しぶりの遠出ということもあり、少しだけまぶたの重さを感じた。彼女は「起きて」と言うけれど、残念ながら答えてあげられそうにない。もちろん行きの電車のように話したいことはたくさんあった。内容はあまり覚えていないけど、とにかく楽しい話をたくさんした。そんなことを考えているうちに、気づけば目を閉じていた。それからしばらく開かなかった。

 再び目を開けるとそこは布団の中だった。窓の外ではカラスが夕暮れを伝えている。たまたま視界に入った時計では短針が5の席に居座っていた。廊下で叫ぶ母に恐れをなして、空っぽのポケットに手を入れながら僕は部屋を出た。しばらくして顔を洗うと嫌なことを思い出した。自分に彼女がいないこと、ついでに今日の記事をまだ書いていないこと。あたりを見回しても何か面白いものが落ちている気配はなかった。そして「今日は記事の投稿を諦めよう」と悪魔がささやいた。それはまさしく悪魔のささやきだった。そのせいで数日後にこんな恥ずかしい記事を書く羽目になった。もう遅寝遅起きはこりごりだ。

最後までお読み頂きありがとうございました! 2022年 5月10日(火)

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