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『オツベルと象』読んだ本 ご紹介!

今回は宮沢賢治『オツベルと象』をご紹介したいと思います。この話、読まれた方も多いのではないでしょうか?
あらすじ
オツベルは十六人の百姓を雇う経営者です。工場(作中では小屋)には新式の稲扱いねこき器械が六台据え付けてあります。そこへ白象がやってきます。身体も大きく力もある象を取り込み、労働者として働かせることに成功したオツベル。待遇は悪く、白象はだんだん弱って力が出なくなっていきます。それを知った仲間の象達によって白象は助け出され、オツベルは殺されるという話です。

擬音と比喩
独特ですよね。リズミカルでどこかユーモラスな響きも感じます。
新式器械の音 のんのんのんのんのんのん
仲間の象がやって来る音 グララアガア、グララアガア
雑巾ほどあるオムレツのほくほくしたのをたべるのだ。
こ、この比喩! 湯気の立つ雑巾が浮かんでくるのは僕だけでしょうか?
象の声はウグイスに喩えられています。

白象のさびしい笑い

「ああ、ありがとう。ほんとにぼくは助かったよ。」白象はさびしくわらってそう云った。

宮沢賢治『銀河鉄道の夜』収録「オツベルと象」 新潮文庫

僕の一番印象に残った場面です。オツベルと白象は搾取する側、される側、今ならブラック企業の経営者と社員のような関係のように見えます。その経営者を仲間が倒してくれたにも関わらず、めでたしめでたしではないのですね。
時には怒ったようにオツベルを見おろすこともあり、オツベルが象を恐れているような描写もあります。でも象はオツベルを憎み切っていなかったようです。自分が助けを求めたばかりに、自分が工場にやって来たばかりに、オツベルは死ぬことになった。そのことへの後悔、罪悪感と助けてくれた仲間への感謝と心から喜べないことへの申し訳なさが入り混じったような、象のさびしい笑いが切なかったです。

謎の一文

おや、(一字不明)、川へはいっちゃいけないったら。

宮沢賢治『銀河鉄道の夜』収録「オツベルと象」 新潮文庫

最初の引用、象がさびしくわらったという一文に続く文章が上の引用で、ここで物語は終わります。唐突ですよね。誰の言葉かも明記されてませんし、特になくてもいいような気もします。
『オツベルと象』には、……ある牛飼いがものがたる、という副題があり、語り手は牛飼いです。最後の一文が牛飼いの呼びかけであるということは、りまのも僕も一致してますが、ここから見解が分かれます。少し長くなりますが、お付き合い下さい。

私は牛飼いが牛に呼びかけている、と思いました。私は、牛飼いが物語を話している相手は、必ずしも牛ではないと思いましたが、ここで呼びかけているのは、牛に間違いないと思いました。この一文を、自分の感性に、自然にしたがって、付け加えたのだと思います。
この一文があるとなしでは、物語の、なんというか…、完成度?うまく言えませんが、良し悪しが、全然、変わってきます。私は、この一文があったほうが好きです。

僕は牛飼いが聞き手の一人に呼びかけていると思いました。物語の中で再三オツベルへの賛辞を口にしてますから、自分もプチオツベルになっているはず。その彼が牛にこういう言葉遣いをするだろうかと思うからです。熱心に耳を傾ける聞き手ばかりでなく、ふらふらしてる人もいたのではないかと。また資本家と労働者という寓意があるなら、暴力によって命を奪われたオツベルに賛同できない賢治が象にさびしいわらいをさせ、川に越えてはいけない一線という意味合いを持たせたのかとも思いました。
ただ僕の持ってる新潮文庫の解説では、この寓意は否定されてます。

最後に
確かに宮沢賢治の作品がそんなに解きやすいものであるはずがありません。この物語も仏教やキリスト教を思わせる記述があります。物語の真意、最後の一文の意味、それは宮沢賢治本人にしか分からないのかもしれません。でも物語や個性的なオノマトペ、文章のリズムを味わい、分からないなりに考えてみる、それが楽しいのです。

賢治は『イーハトーヴ童話 注文の多い料理店』 大正十二年十二月二十四日の日付をもった序文の中で、このようにも言っています。

「なんのことだか、わけのわからないところもあるでしょうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです。」

長いレビューになりましたが、これが全てではないでしょうか。
ここまで読んで下さって、ありがとうございます!

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