見出し画像

自分を傷つけてきたことを含めても、この人生は愛しいものだ

※自傷の内容含みます

ふと目にしたnoteが、あまりにもわたしと似ていて、わたしもついつい書きたくなった。

10代も前半の頃から、自分を傷つけることを覚えていたと思う。

最初は故意にやけどをするとかそんなものだった。でも、故意にする程度のやけどは、傷も残らなければ何も残らない、ただ「やけど」をしたという程度のことだった。

いつの間にか、痕が残るような傷をつけるようになった。最初は浅かった傷も、徐々に深くなり、白い傷痕が残るようになっていた。傷の上から傷をつけて、折り重なるようにして増える傷がわたしの支えだった。あの頃は。

20を過ぎたころ、傷つけることもなくなった。傷に癒しを求めていたわたしも気づけば、年齢的にも、世間的にも「大人」になっていた。自傷は必要ないと思った日がいつだったのか覚えていないけれど、いつのまにか、自分を傷つけることはやめた。

腕の傷は隠したり、隠さなかったり、相手による。

母親が腕の傷を見たとき、心配するでもなく「みっともない」と吐き捨てられた。それ以降、家族の前では腕は出さなくなったし、外でも傷がばれないように必死だった。

だからもちろん、オットと付き合う前も身体中の傷を隠すことに必死だった。あとから聞いたら「ずっと知ってた、出会った日から」と。「袖の隙間から見えたから」とも続けた。そんなことを分かっていながら付き合ったことを知って、とんだ変わり者だと思った。それでも、こんな風に思ってくれる人に出会わなければ、きっとまた自分を傷つけていたのだろうと思う。

傷をひた隠しにいたこともあったけれど、今は、時と場合によって羽織ったり半袖のままだったりする。

今でも母親の前で腕は出ないように、傷は見えないように気をつけている。それだけだ。もちろん、会社では出ないようにしているけれど、制服のない職場で働くことの方が多いし、今は専業主婦。人に会うこともなければ、服装を気にすることもない。「大人」になるって楽になるってことなのかもしれない。

10代のわたしは、「心配されたい」と「いなくなりたい」だけで、自分を傷つけて、そこに逃げ道を作っていた。心配してほしかった人には心配されず、結果的に突き放された。たくさんの人に心配されたのに、そのどれにも耳をかさなかったのはわたしだ。聞こえないふりをしたのはわたし自身だ。

結婚はもちろん、子どもさえ考えたこともなかったのに、わたしの人生は大きく変わった。だからこそ、今はこの傷も含めたわたし自身の人生を愛している。

子どもができれば、またこの傷を隠す日がくるのかもしれない。だけど今は必死に隠したりしない。つらかったことすべて帳消しにする必要はないから。

なんて、ただのきれいごとなのかもしれないけれど。

サポート頂けると嬉しいです!いただいたサポートは勉強のためにたくさんの本と記事に使わせていただきます!時々ご褒美スイーツ買います