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早稲田の記憶に向き合うことを決めた私がようやく読んだ『早稲女、女、男』

柚木麻子著『早稲女、女、男』。
2015年発売当初、現役の「早稲女」だった私は、キャンパスの近くの本屋でこの本が平積みされているのを見て疎ましく思ったことを覚えている。

大学で女であることの居心地の悪さを覚え、
米国留学でその違和感の正しさを確信し、
職場でセクシャルハラスメントで傷つき、
怒りを諦めで抑え込みながら現在20代後半になる。

しかし女性に対する不適切な言動や事件を目にするたび、どうにも心がざわざわする。
変わっているような変わっていないような社会にうんざりするし、何より文句ばかりで何も行動しない自分に一番うんざりしている。

いい加減、辛かった記憶や怒りと向き合うことにした。
自分を救って、次に進みたい。


怖くて見て見ぬふりをしてきたいくつかの書籍に手を伸ばした。
その一つが『早稲女、女、男』である。

主人公である早稲女と、彼女を取り巻く他大学生女子達についての物語。
「早稲女は女じゃなくて早稲女だから。」
主人公のサークルの男子が発する台詞である。
主人公は早稲田の男から「女らしくなさ」をからかわれ、自意識を拗らせて自虐的になっていく。
同じサークルの留年男とずるずると付き合っているが、彼は負けん気の強い主人公より「ホッとする」タイプの他大学の女と浮気まがいの行動を取って、主人公を傷つけてしまう。
そんな彼が物語の終盤で「男としての生きづらさ」を告白し、ジェンダーの側面において早稲田で苦い思いをした二人が新しく関係性を構築していく希望が見えたところで、物語は終わる。

読み終えて、主人公が早稲女だからという理由で傷つけられて良い理由は一つもなかったと思った。


私は自分を「早稲女」と表現する時、自信と自虐が入り混じる感覚になる。自分の本当の柔らかな心に、固くて脆いバリアをつぎはぎに貼ったような感じ。
男子に酷い扱いをされても「早稲女だから仕方ない」「早稲女だから傷ついてなるものか」と思ってきた。

でも本当は、
サークルのノリで容姿をからかわれたくなかった。
デブだと言われて、うるせーよ!と笑いながら反論したくなかった。
宴会のネタに「付き合いたい女子」の格付けをされたくなかった。

「女性らしさ」を求められることをひどく嫌う一方で、女性として価値がないと思われることに恐れる自分が出来上がった。

ここまで具体的な体験を綴ってきたが、私の怒りは個人や特定の団体に向いたものではない。
この女性蔑視を孕む文化、社会の構造に対して怒っている。
男性社会の持つ有害な側面と、その延長にある女性社会の持つ有害な側面から、自分と自分の大切な人たちを早く解放したいと真に思う。

あかん、この先が続かない。
まだここまでしか言葉にできない。
この文章を「早稲女らしく熱く泥臭く書き切る」必要もないと思うので、まずはここまで。
これから徐々に苦い記憶と向き合って、解していきたい。

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